精神の死
正直、これはなろうに投稿するような物じゃない気がしてきています。
○○しなければ死んでしまう。という表現があるがあれは正しいと私は考える。
別に肉体的な死だけが死ではないのだ。
例えば自由意志を持ったロボットと、ただ言われるがままに作業をこなすだけの人間がいたとする、その時我々はどちらと仲良くなるのか、どちらと友達になれるかを考えてみる。
まず自由意志のあるロボットの方からだ。
そりが合う人間とそうでない人間はいるかもしれないが、多くの場合自分とは違う意見を持ったものとして認識するだろう。
見た目でロボットとして扱われるかもしれないが、自由意志を持ったロボット本人がそれを甘んじて受けない時我々に対して平等に扱ってほしいと訴えてくることだろう。
これは現代の人種差別と大差はないと私は考える。
逆にだ、こちらから何かをするようにこと細やかに説明してそれのみこなす人間がいたらそれを我々は人間として扱うのだろうか?
きっとそうはならないであろう。
ただ勉強ができないだけ人間、ただ生まれつき体の弱いだけの人間、ただ人種の違うだけの人間、それらの人間を我々は本当に同族に思えているだろうか?
自分と同じ種族と思うたまには自分との共通点を見つけ中ればならない。
自分と同じだと思えることで初めて人間は同族と認識するのだろう。
話は戻るが、心のない人間、精神が死んでいる人間は本当に人間だろうか?
今までは精神が存在し生きていた人間、それの精神が死んだときその人は人間としては死んでいるのではないかと私は考える。
人間は長い年月をかけてただ生命存続を目的として生きる存在から、よりよい生活を求める生物になっていっていたはずなのに、最近の人間を見ていると生きるために生きている昔に戻ってしまっているように私は感じる。
多少の生存競争は仕方がないことだと私も思うが、せっかく夢を追いやすい世界になったのだから夢を追いにくくするように世界を動かしていくのはやめてほしい。
精神の死にももう少し意識を向けてほしいと私は思う。




