自分に分かること
私は私のことをよく知っている。
私は私のやりたいことを知っている。
私は私のやっていることを知っている。
私は私の手段と方法があまり適切でないと知っている。
私は私の知っていることを的確に機能させられていないことを知っている。
私が書きたい作品は今書いているこれもそうではあるけれども、一番はもっと違うものだと知っている。
私が書くこれはここに投稿するのに向いていないのも知っている。
自分のことはだいたい知っているのだ。
でも知っていても実行しないのが自分だということも知っている。
何か理由がある時もあるし、特に理由がない時だってある。
でも、大体は自分がそうしたいと思ったのであるから仕方がない。
そもそも流行りじゃない小説という媒体で、そもそも流行っていないジャンルの内容を、
それを投稿に見合った媒体ではないところに投稿する。
それがどれほど馬鹿馬鹿しいことかも知っている。
そもそも本当に本気で取り組むのであれば、もう少しちゃんと宣伝する必要があるし、需要と供給も考えなければならない。
私が本気で取り組んでいないのかと聞かれると返事は否なのであるが、周りから見れば本気で取り組んでいると思われなくても仕方がない。
それはきっと自分が選んだ道だ。
私は私の身勝手な欲望を知っている。
自分が自分で選んだ厳しい道であるのは知っているのに大きな成果を期待するのだ。
自分の力量も、自分の才能も、自分のやっていることも、全部足りないことを知っているのだとしても分不相応に大きな成果を求めてしまう。
大きな成果の得方も知ってはいるのだ。
数打ちゃ当たる理論ではなく、しっかり考え、しっかりと作り、しっかりと投稿場所を選び、しっかりと宣伝をする。
一つの作品に書ける労力を大きくすれば今よりはきっと大きな成果を得ることが出来るはずだ。
これはそうかと聞かれればそうではないと答えることが出来る。
これは自分にとって練習であり本番であるのは始める前から今まで一貫として変わらない。
しかし、本番であるがゆえに成果を期待してしまうのは仕方がないことだと思いたい。
何度自分にこれは練習だから多くの成果が得られなくても仕方がない。
決して手を抜いているわけではないが、死力を尽くし切っているとも言い難い。
これに自信を持てるかと聞かれれば自信はあるがもっとよくできたかもしれないと、自己評価ですら分不相応な欲望にまみれてしまっている。
そんな自分も私は知っている。
私は私について多くのことを知っているが私の心はいつも私に隠し事をしようとする。
私の私に対する評価におびえ、私の無力を根拠もなしに否定する。
私は私のことを正しく評価しようとするが、私の心は私のことを根拠もなく大きな才能があると思い込んでいる。
私に唯一分からない自分のことは私の心の考え方だけだ。
著:日真 陣




