生きる理由
我輩はそれなりに人生を歩んできたつもりである。
そしてふと生きる理由について考え始めた。
時間に余裕があるものの道楽であるかもしれないが、何かの役に立つかもしれない。
我輩は考えた。
生まれて自我が芽生えるまではただただ生存本能に従って生きていると。
それもそうであろう。
自我が芽生える前から「生きるとは何か?」とのたまう輩がいればそれは偉大な哲学者になるであろう。
自我が芽生えた後の幼少期がどうであろうか?
我輩は幼少期には大人になるために生きていたと思う。
自分たちは大人になるために生まれ成長するのだとおそらく疑ってなかったであろう。
青年期は成長につれ、つらい部分が見え始めた時期であった。
このころから大人になるために生きるわけではなくなったのであろう。
生きることを信じて疑わなかった時代はとうに過ぎ、精神が侵されると死の影がちらつくようになってきた頃合いであった。
成人してからは忙しくなりその忙しさで死すら考えることを忘れられたものがいた。
そして忘れたものから死んでいくのである。
我輩はとある特例について考え始めた。
それは死に直面した者たちのことである。
それらの者たちは死についてよく考えさせられたのではないかと我輩は思う。
より強く死を実感しより生にしがみつくであろう。
我輩はふと思った、現代では死に直面する瞬間が減っているのではないかと。
医療が発達し、死ぬ人が減った。
食料は簡単に手に入り、死ぬ人が減った。
戦争が減り、死ぬ人が減った。
死に出会うのが遅くなった。
死が遠のいて何年たっただろうか?
我らの世界はより死から離れ長く生きることができるようになったのである。
それは喜ばしいことであり、死という名のゴールが遠のいていった。
より道が長くなり、迷走する者も多々現れるようになった。
我輩は何のために生きたのだろうか?
我輩の人生の大半は死の恐怖から逃れるように生きてきた。
友は世界を循環させるために生きているといった。
子供はやりたいことをやるために生きているという。
我輩は結局生きる目的を見つけられていない。
友は生きていればそのうち自分で見つけられるという。
親は真面目に生きていればいつの間にか見つかっているといっていた。
子供はすでに生きる目標が見つかっているといっている。
自分の生きる目標は自分で見つけるしかないらしい。
それもそうだろう、他人から与えられた理由で生きていっている人間はいつか理由が付きてしまう。
だからこそ、生きる目標は子供のうちから探すべきである。
大人になっても生きる目標を探すのが先決のように感じられもする。
しかし着実に死は後ろからにじり寄ってくる。
生きる目標のないものは何を目標に生きればいいのだろうか?
目前の問題を解決すればいいのだろうか?
しかし、目前の問題が多すぎる。
生きる目標があるものは優先順位があるのだろう。
我輩は自分が手を出せるものから順にやっていった。
最近の子供はかなりつらい思いをしていると思う。
途方もない終わりに向けて暗闇を歩かなければならない。
自分が成長する間に目指す職業が消えてしまうかもしれない。
その職業では生きていけないといわれるかもしれない。
我輩は目標がある人間がうらやましい。
未来を信じて努力できる人間がうらやましい。
目標ある人間ははるかな高みへ行けるだろう。
そしてその情熱は人を動かしその当てられた情熱で自身もさらに熱くなるのだろう。
自分の思いをこうして文字に起こしてみると、やはりは我輩の中で生きる目標が見つかっていないのだと実感する。
生きる目標を見つけなければいけない。
後ろには死が迫っている。
情熱をもってして逃げなければならない。
はるか高みへと。
生きる目標はなんであるか?
自分の中で答えの出ない問いを続ける。
未だに生きる目標の見つからない我輩は今も死から逃げるように生きている。




