今、覚悟と頑張りの二人は私が殺しました。
今、私の覚悟と頑張りが死んだ。
これまでずっと頑張ってきたけれども、そういった覚悟や頑張りは一回のさぼりでその覚悟や頑張りが死んでしまったような気がしてしまう。
そういう意味で今、私の覚悟と頑張りは死んだ。
私にとってこれまでの頑張りはほかの頑張りよりも格段に頑張ってきたつもりだった。
時間がぎりぎりだったとしてもなんとかそれを成し遂げてきたのが今日までの頑張りだった。
そして辛くても時間がなくてそれを成し遂げてきたのは今日までの覚悟だ。
何年という単位ではないが随分長い間頑張ってきた。
それは確かに私の覚悟や頑張りが込められたものであったし、確かなる実績でもある。
そんなものは今崩れ去ったのだが……
人は死ぬとき走馬灯を見るらしいが、今死んだ私の覚悟や頑張りは走馬灯を見ているのだろうか?
私が死ぬときはきっと今日まで頑張ってきたことを思い出し、走馬灯を見ることだろう。
つまり彼らのことを走馬灯でもいているわけだ。
もしかしたら彼らも死ぬときに私のことを走馬灯で見ているかもしれない。
今日まで一緒に頑張ってきた私のことを仲間として認識して走馬灯で思い返してもらえるかもしれない。
でも、走馬灯を見ている彼らを殺してしまったのは私だ。
私が誘惑されるがままにさぼってしまったがために彼ら二人は死んでしまった。
生まれた時から一緒にいてくれた彼らは生みの親である私の手によって殺された。
私はあと少し頑張っていれば彼らは死ぬことがなかったし、彼らはいつか手に入る輝かしい未来と出会うことが出来たかもしれない。
そんな彼らの希望を絶ったのは私だ。
あと少し私が頑張れていたら、あと少し私が余裕を持って行動していれば、あと少し私が先見の明を持っていたら彼らは死ぬことはなかっただろう。
私がそういったことをちゃんと考えることが出来る大人であったのであれば、彼らは死ぬことはなかっただろうに……
今回は自分が決めた時間であったから自分以外には大きな被害はなかったけれども、もしこれが大勢の運命を背負っているものだったとしたら、私は多くの人に迷惑をかけていることになる。
大人な人間であればそんなことはしないだろう。
大人な人間であれば、自分で決めた時間は守るだろうし、もし時間に間に合わないようであれば先に手打つことだってするだろう。
でも私はそれをしなかった。
いや、できなかったのほうが正しいかもしれない。
私は未だに大人になれていないようだ。
大人というものは自分の行動に責任を持つことが出来る人間のことを指し、他人のことをよく考え、自分にできる最善のことをするような人間のことを指すのだろう。
私はそんな人間ではまだない、それにもし今私が大人であったのだとすれば、今日死んだ二人を殺すこともなかっただろう。
人は誰かの犠牲で進歩する。
私は二人も犠牲にしてしまったのだから進歩しなくてはならない。
彼ら二人の死は私の進歩の糧となり、私が大人になるための糧となったのだ。
私はこれ以降も頑張った覚悟を殺してしまうことがあるかもしれない。
殺してしまう限り私は大人になれてはいないのであろうが、彼らを一人殺すたびに私は一歩一歩進歩していかなければならない。
彼らの犠牲は忘れてはならない重要な要素だ。
そして私は進歩の末に大人になることだろう。
そしてその後おいて老人となり死ぬ。
その時に見る走馬灯には彼らのことであふれているだろう。
私が走馬灯を見る時にはどれくらいの覚悟と頑張りに出会うことだろう。
私が殺した分だけ走馬灯は長くなるのだろうか?
それは走馬灯を見てみない限り分からないが、きっと今日殺してしまった彼らにも会えるかもしれない。
私はいま彼ら二人の弔いをしようといつもの二倍頑張ろうとした。
しかし、私の力が及ばないため彼らを弔うに値するに倍の頑張りはできずに、1.5倍の頑張りとなってしまった。
だがまだ生きている私は彼らの死を乗り越えて頑張らなければならない。
今日新たに生まれる覚悟や頑張りを殺さないため、今を生きる私は涙をティッシュで拭って今日という未来を生きるのだ。
著:覚悟と頑張りを殺した者




