クラスが一丸になる距離感
よく、クラスが一丸となってと言う表現を耳にするが、この言葉には大きな闇が隠されている。
例えばクラスが一丸となるのはどう言った瞬間だろうか?
例えば体育祭、例えば文化祭、例えば修学旅行。
やはりクラスが一丸となるのは行事だろう。
そんなことはない。
こんなテンプレートな回答であるならばわざわざ考える訳がないだろう。
そもそも、クラスが一眼になる瞬間という言葉の通り、クラスが一丸となる時間は長くはない。
先ほどあげた体育祭だが、クラス全員が一丸となって全員が取り組んでいるだろうか?
私はそんなはずはないと答える。
だって他ならぬ私が体育祭に全力で取り組めなかった存在なのだから。
たとえばクラス全員の協力が必須の競技であれば、私も一丸になっていたと答えられる。
でもそれ以外の時間は各々でただ体育祭という面倒な時間が過ぎるのを待っていたと言える。
つまり行事などでも一丸になれるのは、所詮この程度なのだ。
そして、それは一丸になれる瞬間と最初から言っている通り、瞬間でしかないのだ。
クラス全員が仲が良いと言う理想しか語らない頭の中がお花畑なクラスが存在しないことがよくわかるだろう。
ここまで私はクラス全員が仲良くなることが不可能であると言う話と、クラス全員が一丸になることは珍しいと言う話をしていた。
しかし、そのうち片方は間違っているのだ。
そクラス全員が一丸となる瞬間は珍しくもなんともないのだ。
考えてみて欲しい、基本的な学校では毎朝クラス全員が登校し、朝のホームルームをこなし、決まった時間に同じ授業を受け、同じ定期試験を解き、帰りのホームルームを経て帰宅する。
行事だけで考えると機会は減ってしまうが、実は毎日クラスが一丸になる瞬間は結構存在したりする。
細かいことを言えば全ての人とが同じことを考え同じことをする瞬間なんてほぼないはずなんだが、まあ大雑把にみればクラスは結構一丸になっていると考えられる。
だからまあ、学校に通っている限りなんやかんやでクラスは一丸となるのだ。
これは利害の一致や、同じ目的があるからできることであり、逆にいえば気持ちは一緒ではないことの暗示でもある。
それこそ気持ちの一致ができているならいじめやいざこざは起きないだろう。
私が声を大にして伝えたいのは、学校での教育は間違っていると言うことだ。
クラス全員が仲良くする必要はさらさらないのに、クラス全員仲良くしましょうと曰う教師がいる。
それはよろしくない。
クラス全員が仲良くすると言う命題があることにより、生徒たちは歩み寄り、いざこざが生まれる。
教師が本来伝えるべき言葉はこうである。
学生の本文である学びをお互い阻害しないように、程よい距離感を保ちましょう。
これぞ学校で教えるべき内容である。
大人が喧嘩をほとんどしないのはその距離感を測れるからだと私は思う。
著:距離感が少し遠い者




