名は体を表す
名は体を表すと言う。
だからこそ親は子供に送る名前に様々な思いを込める。
人間だけではない。
企業は自社の商品がより売れるようによく考えた名前を付ける。
これはひとえに自社製品への愛であろう。
現代において自分で自分に名前を付けるケースがある。
それはインターネット上での名前だ。
インターネット上の自分は自分であり、それを生み出したのも自分である。
インターネット上の自分を生んだのは自分であるから、当然名前を付けるのも自分である。
思い付きで名前を付けた人が後悔をする人がいるのはやはりそれが自分であるからだろう。
こうあってほしいという自分の思いを込め切れていないからこそその名前に違和感を抱き、別の名前へと変えてしまうのだろう。
例えばかわいらしい名前を付ければそのインターネット上の人物はかわいらしい存在として認識されることが多く、かっこいい名前を付ければそのインターネット上の人物はかっこよさそうな存在として認識されるだろう。
インターネット上の自分に名前を付けるという行為は自分がインターネット上でどう見られたいかという部分がにじみ出ているような気がする。
友人にも教えているアカウントをそのまま使っている人は友人に呼ばれるあだ名を使っていたり、友人に気軽にあだ名で呼んで欲しいと思っている人は自分のあだ名となりえる名前をインターネット上の名前にしているかもしれない。
ひとえにインターネット上で出会った人たちを友人となりたい人がこういった名前を付けるのかもしれない。
例えば覚えやすい名前を付ける人は多くの人に名前を憶えて欲しいのかもしれない。
絵描きや文字書き、動画投稿者が特徴的であったり、覚えやすく呼びやすい名前を付けているのはこういった理由からかもしれない。
インターネット上な名前が卑屈な名前であったり、暴言・暴力的な名前だったり、R18的な名前だったり、下ネタ的な名前であったり、そんな風にいい印象を抱けない名前を付けた人たちは何を思い、何者になろうとその名前を付けたのだろうか?
まあ、これをよい名前ととらえられないのは私が良い要素として感じていないだけであって、彼らには彼らなりの考え方があってこういった名前を選ぶ。
現代において名は体を表すということわざは、より身近になっていると私は思う。
自分がどうありたい、自分がどう見られてほしい、そういった願いを込めるのだ。
それは名が体を表すわけである。
人々が自分の名前に様々な思いを込め、理想とする自分をイメージし、そんな人間になりたいと想う。
そんな素敵な名前がこの世界にあふれることを私は願う。
著:結局いい名前が思いつかなかった者




