勉強のお時間
緑髪の男が、私に右手を差し出した。私は借りていたペンを返す。すると男は、ペン先とは逆の方、シャーペンなら消しゴムが付いてる方で、黒いガラスっぽい板――もう黒板でいいか――に触れた。
すると触れた箇所が、ぼうっと光る。
その光は針で刻まれた文字や記号に伝わっていき、そして、あっさりと消え失せた。
文字や記号と共に。
ほんの1、2秒で、黒板はなんの痕跡も残さず綺麗になっていた。
「おお……」
これは楽だ。黒板消しがいらない。
そういう機能が備わっているのか、もしかして魔法的ななにかで男が黒板を修復したのか。
私の様子を目に止めた緑髪の男は、ペンではなく人差し指を宙にかざし、あっさりと似たような光を纏わせてみせた。
そしてなにかを尋ねてるように、私を見てくる。
私は同じように指をかざし、そして「いいえ」と言ってみた。そんなことできませんよ、知りませんよ、というニュアンスで。
どう納得したかわからないが、男は軽く頷いた。
そしてまた板書をはじめる。
そこからの時間は濃密だった。
男は様々なものを書いていく。
オーストラリアに似た大陸の地図。
人や動物や虫らしきイラスト。
男女の概念。
口からものを食べる様、呼吸や血液らしきものの循環図。
目や耳などの感覚器官と、光や音や色などの情報。
空を太陽らしき光が動く図と、昼夜、天気、それに時間の概念。
そういった様々な情報に対して、私は『知っている・知らない』『同じ・違う』『わかった・わからない』などケースバイケースの意図を込めて、「はい」と「いいえ」を繰り出していく。
また、緑髪の男はそうした色々な説明書きに対して、私の言葉――日本語の発音と、文字を求めてきた。
最初の内は、ものを書くジェスチャーと、なにかを喋るジェスチャーを私に見せてから、「どうぞ」というような仕草をする。しかし途中からは、自身が書いた文字を指して「ゲヤルシュ」と言い、私の文字を指して「……?」みたいに目で尋ねてくるので、「日本語」と答えてみた。
すると次からは、自分が書いたものに対して「にほんご?」と聞いてくる。わずかに語尾が上がるあたり、言葉の抑揚に共通点は多いのかもしれない。
緑髪の疑問に対して、私は「男」「赤」「時間」「食べる」などと口にし、文字を書いていった。
そんなやり取りを繰り返してしばらく経った頃、黒髪の男がまた鈴を鳴らした。
今度入ってきたのは、女性だった。銀髪――白髪の比喩じゃなく、ほんとうに銀色の髪――の女性だった。
えっらい美人。うそ、あれもしかしてすっぴん?
彼女は髪色以外、普通の人間に見えた。黒いワンピースみたいな服装、近い色の糸で凝った刺繍が施されている。首まわりや袖口はシンプルで、靴も平底。動きやすそうな恰好である。
その手は二段のワゴンを押していた。ホテルのルームサービスを乗せるみたいなやつである。ところどころに宝石らしきものが散りばめられているという違いはあるけれど。
どうやらお茶と軽食のようだ。
準備しようとする彼女を黒髪の男が手で制し、「ケルウィ、ロ、トートン」みたいなことを述べる。
女の人は、一礼してあっさり去っていった。
いったん話を止めた緑髪の男が、カップを3つ、テーブルの端に並べる。
音を立てない優雅な動きだ。
そしてポットから湯気を立てるお茶らしきものを等分に注ぐと、「どれか選びなさい」みたいに私にジェスチャーで示した。
私は一番手前のカップを指差す。
すると男はそのカップを手にし、自分で飲んでみせた。
そして半分ほどに減ったカップの中身と、軽く開けた口を見せてくる。
――ああ、毒味か。
心の中で多少引きながらも、私は彼に頷いた。そして残るカップの片方を手に取る。
紅茶に似た、甘い香りが漂う。
少し口に含んでみると、香りのわりに渋さが強いが、後に残らない、おいしいお茶だった。
そしてまた、お茶と軽食――みっしりとした硬めのパンで謎のパテを挟んだサンドイッチ――を口にしながら、緑髪の男と黒板を使ってコミュニケーションを続けた。
ちなみに謎のパテは、うっすら緑で、レバー系ではなく野菜系に思えた。複雑な味だけど、一瞬目を見開いてしまうぐらいにおいしかった。
イエスノーだけで答えるのが難しくなってくる内容に入る頃には、「なに?」「どうやって?」などの、いわゆる5W2Hの意思疎通も加わった。
緑髪の男が数枚の金貨を取り出して、両手に一枚ずつ持ってみたり、数枚を机に並べたり、一枚を隠したり、さらには一定時間ごとに一枚ずつ重ねていったりして、様々な「?」の問い方を整理してみせたのだ。
ちなみに「?」の記号は対応する向こうの言語がなかったらしく、男はそのことにだいぶ感動していた。
私と意思疎通に励む緑髪の男だけでなく、黒髪の方も私達のやり取りを実に熱心に見ていた。それだけではなく、何度も消されてはまた別の文字が書かれていく黒板の内容を、すごいスピードでメモしてもいた。
彼の手にあるのは、白っぽい石版――異様に薄い石版の束である。いや石なのかは定かではないが、少なくとも植物紙や羊皮紙の類いではない。極薄なのだが、一枚だけ手にしても曲がったりせず、ぴんと平面を保っているのだ。
男はそこにインクとペンで日本語を書き連ねていき、いっぱいになると一枚めくってまた書いていく。受験間際のような勢いと集中力だった。
――何時間経っただろうか。
質問を続ける緑髪も、メモを取りまくる黒髪も、まるで疲れを見せない。
そして、私も。
何杯かお茶をお代わりし、サンドイッチもつまんではいるが、本来の私ならありえないほど体力と集中力が続いている。
頭はずっと冴えてるし、肩や腰が痛くなったりもしないし、……ちょっとだけトイレが近い体質なのに、その必要性もまるで感じなかった。
緑髪の男は、さすがに次に何を尋ねるか悩む姿が見え始め、その分、こちらの質問をだいぶ理解できるぐらいには互いの言語に対する理解が深まっていた。
……そう、恐ろしいことに、この数時間で目の前の男はカタコトの外国人ぐらいには日本語を操れるようになっているのだ。
発音が流暢な分、勝っているかもしれない。
そろそろいいかな、と思い、
「私から質問したいです」
男の間いがまた少し空いたのを見て、私の方からそう言ってみた。
「どうぞ」
緑髪の男は穏やかに応える。
黒髪の方は、興味深そうに私を見ている。
「私の顔を見たいです」
そう言ってみた。