断章:血と酒と女
やっべえところに来てしまった。
レイラ・フリューネ特別自治領でお世話になっているシアンの、偽らざる感想はそれだった。
無論、ジルアダム帝国で命を狙われる危機から救ってくださったという恩義への感謝をしていることは大前提ではあるけれど。
それはそれとして、この土地はやばいのだ。
なにがやばいかと言えば、警備隊の仲間や街でできた友人・顔見知りたちがよく口にするこの領地の中枢、『領主様御一行』だ。
先代領主の、そして先代国王の死に関わったとされるが詳細は未だ不明の、ラーナルト王国から来た王女2人とその家臣。
なかでもレイラ様、リョウバ隊長、カゲヤ殿、シュラノ殿――この面子の戦闘力がまずおかしい。
訓練で目にするその威容は、はっきり言って帝国でも勝てそうな人間が十指に収まってしまいそうである。なにしろトウガ教導隊長に勝利したあの『血煙纏い』アルテナ様ですら、彼らとの訓練では優勢に立つことが少ないのだ。
もちろんシアンの実力はいいとこ中の下、まだ駆け出しに近い。けれど闘技会で1級戦士の試合は幾度も見たし、軍でも歴戦の方々に指導をしてもらい、大荒野への遠征中には将軍や英雄の真剣勝負を目にしてきた。それなりに目は肥えていると自負している。
――例えば、闘技場の現王者である『殴られ屋』と『凍雪』のコンビ。
――例えば、初陣から引退までたった1本のナイフで戦い続けた教導隊長のカズラ。
――例えば、片腕を失った翌日も平然と戦場に出て魔族を30体ほど仕留めてから『飯を食いながら戦えなくなって不便だ』と文句を言っていた第二軍の将軍。
そうした傑物と比しても、この領地で目にした彼らの強さはまったく見劣りしない。
……問題なのは、ここがジルアダム帝国総人口の5%にも満たない小国バストアク、さらにそのうち1つの領地だということだ。シアンが帝国民として十余年を生きてきた中で目にしたうちのトップクラスと比肩する人材がこの地に集中しているという事実。
そりゃあ、帝国の友人からの手紙――の体裁を取ってシアンやミージュからここの情報を聞き出そうとする手合が多いわけだ。
幸いなことに出立前にはメイコット姫からの使いがやって来て、密偵や工作を持ちかけられた際は丸投げするようにという有り難い指示をもらったので、そうした手紙はミージュがまとめて捌いている。……まあ、使いが来たあのときは心底びっくりしたけど。第2王女が気にされるほど、やはりこの領地は目立っているのだろう。それはそれでヤバさを再認識してしまうが。
王女様といえば、レイラ様はもちろんのこと妹君のフリューネ様も大変かわいい。あと数年したらすごい美女になるのが間違いない。普段のシアンなら身分差をどうにか乗り越えようと頑張るところだ。……レイラ様が彼女をとても大事にされているということを聞いた今はそんな真似をする気は毛頭ないけど。
そうそう、御一行のなかではモカ様も目立たないが相当な美女だ。スタイルも素晴らしい。しかもどうやら男が苦手っぽい。これは是非――と思ったこともある。が、
『いっそその道もと思わなくもないが、まだそっとしておきたいな。それにいずれいなくなる者にかっ攫われるのも不愉快だ』
街なかで偶然見かけたモカ様を眺めつつ妄想していたら、いつの間にか背後に立っていたエクスナ様にそう語りかけられたときは冗談抜きで死を覚悟したものだ。
「うん、とにかくあちこちヤバい。レイラ様御一行には手出し厳禁。――それよりも」
目下の重要事項はフゲン王国との戦争、そして得られる報奨金だ。
「8万かぁ。いいなぁ。とりあえず服買って、贈り物いっぱい揃えて、どっから攻めようかな。やっぱ酒場の、いやもう先に娼館で豪遊という手も――」
やべえ所に来てしまった現実は受け入れながらも、持ち前のポジティブさで目先の楽しみを満喫する気満々のシアン。
そして、そのちょっと危なっかしいシアンも含め諸々をより深く理解しているため最近やや胃が痛いミージュ。
帝国から来た2人の少女は、その日教導隊長のトウガ、闘技場上位のフユとハキム、さらにあの武神と戦ったスタンという男がそろってこの地にやってきたことを知り、『えっこれどんどんヤバさが加速してない?』と顔を見合わせることになる。
◇◇◇
レアスは苦悩していた。
レイラリュートと、スタンザフォード。
あの2人がコルイ共和国で試合をしたのが遠い記憶に思えるが、当時からレアスは懸念していたのだ。
色々と謎の行動を取っていた、異常な身体能力の女。
理解できない思考で好き勝手に動き回る、技量だけ異常に高い男。
あのときの試合で負けたのはスタンだった。
そして負けたその場で、スタンは木刀ではなく真剣を手にし、本気の勝負を持ちかけようとした。
両者の能力からして、どちらが死んでもおかしくなかった。
それを止めたのはレアスだ。
――止めてよかったのだろうかと、あれ以来何度悩んだことか。
結局、2人はあっという間に各国へ名を轟かせる要注意人物となってしまった。
バストアクの政変に関わり、複数の神と対面する僥倖を重ね、ヴィトワース大公と渡り合い、それでいて生国ラーナルトでの経歴がまったく探り出せないレイラ姫。
レベル1のまま有名所の戦士を幾人も破り、戦神アランドルカシムに対して傍若無人な態度を崩さず、武神ユウカリィランと闘い生き延びた、もはや達人と称するのも過小評価に思えるスタン。
大陸のそこら中から好奇・羨望・不安・尊敬、その他様々な色の視線を集めているこの2人が、とうとうここレイラ・フリューネ特別自治領で行動を共にすることとなってしまった。
『――スタンはそろそろうちで預かっておくには元気すぎるな。俺も大荒野へ行かなきゃならんし。……なあ、レイラ姫のところで預かってもらうのはどうだ?。――いや怒るなよレアス。そりゃまあ勘なんだが、たぶんそう悪いことにはならないと思うぞ』
そんなことをのたまったグラウスはいそいそと大荒野へ修行へ行ってしまった。
レアスに後のことを任せて。
――戻ってきたら一発、いや気が済むまで張り倒してやろう。
グラウスの勘は妙に外れないのだが、それとは別問題だし、今回の件はちょっと事が大きすぎる。
まったく最近のアイツは自分だけやたらと若返ったような顔をしやがって……。
「ああもう、戦争なんか見ないで帰りたいなあ……」
ジュラナス将軍の裏に誰がいるのかレアスもはっきりとは読めていないが、まあ3人には絞り込めるし、そのうち誰であっても関わり合いになりたくない。ローザスト王国の中枢は魔境だ。絶対に目をつけられたくない。ただでさえグラウスの恩寵が強化されたおかげで色々と面倒事が降り掛かっているのだ。
しかしながら、この状況を放って帰るのは今の立場でも許されることではない。下手すれば職務怠慢どころか外患誘致あたりの罪状でも課せられて牢屋行きだ。
「はあ……、なんだか妙に色々と置いてくれてるし、気がきくわねえ……」
レアスにあてがわれた客室のサイドボードには、水や軽食だけでなく長旅の疲れを落とすための湿布や軟膏、そして色とりどりのボトルに詰められたリキュールまで揃っていた。瓶ごとに異なる薬草がまるごと入っており、それぞれの効能書きが添えられている。
――安眠、胃痛止め、精神安定、疲れ目防止――
先ほど会話した際に、フリューネ姫には色々と見抜かれたのだろう。
さて、今晩のうちになるべく気力を回復させて、明日からはまた仕事に励まねば。
偉人超人の陰には苦労人あり。
そのひとりである彼女はまず気を静めるため精神安定と書かれたリキュールの瓶を手に取った。
――なお同時刻の別室、とある領主代行は早くも5杯目のグラスをあおっているところだった。
「モカ様特性の薬酒、ローザストに売れるといいですね……」
寝酒を楽しみながら仕事のことを忘れられない彼女もまた間違いなく苦労人であった。
◇◇◇
帝国から大勢の客人がやって来たその翌朝。
領主館裏の広場でカゲヤはひとり鍛錬を行っていた。
常日頃、イオリやリョウバたちとの訓練では見せることのない本気で振るわれる槍。空を切るその軌跡から世界が崩壊するかのような錯覚を起こさせる、凄まじい技が静かな朝に冴え渡っていた。
一通りの槍捌きを済ませると、続いて無手の鍛錬へ移る。突きと蹴りのたびに周囲の草が波打ち木々が揺れる。そうした技もまた並の武具では到底太刀打ちできない威力を物語っていた。
不意にカゲヤは動きを止め、斜め後ろへと向く。
「おはようございます。早朝からお騒がせしたようで、申し訳ありません」
「……いや、これは、気づかれるとは……、誠に失礼した。良き朝ですな」
木立の陰から滑るように身を現したのはトウガだ。
「レイラ様とヴィトワース大公の試合を拝見し、その師ということである程度予想はしたものですが……、まったく、世に知られぬ達人こそ深奥に至るものですかな」
「恐縮です。ですが自分も未だ途上でございます」
さくさくと草を踏みトウガはカゲヤの近くまで歩いてきた。
「途上ということは、カゲヤ殿の師もまだご健在なのですか?」
「はい。ただ師については恐れながら説明を控えさせて頂きたく」
「ふむ、では1つだけ、槍も格闘もその師から?」
「……細かくは申せませんが、間違ってはおりません」
もう少し誤魔化すこともできたが、トウガの纏う柔らかな雰囲気に絆されたのかカゲヤはある程度正直にそう答えた。
「なるほど、そうでしたか……」
トウガは目を瞑る。
強い風が吹き、雲が流れた。
今日はよく晴れそうだ。
「……よくぞ……」
風に混じって、老人の声が聞こえたような気がした。
「何か?」
「いやいや、何も……、あ、ではなく――、よろしければカゲヤ殿、戦争までひとつこの老骨に鍛錬の相手をさせて頂けないでしょうか。なにしろ経験だけは積んでおりますからな。例えばそう、敵兵の狙いを己に集中させる術、及ばずながらお教え差し上げたい」
カゲヤは一瞬驚きを顔に出したが、すぐにいつもの無表情へと戻る。
「有難うございます。喜んでご指導賜りたく」
この朝から戦争前日まで、孫娘のフユや部下たちが驚くほど熱心に、トウガとカゲヤの訓練が繰り広げられることとなった。