断章:荒野の果て
大荒野。
人族と魔族の領土を区切る、広大な荒れ地である。
大陸の北から南へ走る境界線。その北側は峻険な山脈が連なっており凶悪な魔獣が巣食っているため、ここを行軍し戦線を開くことはまず有り得ない。
よって人族と魔族が鎬を削る戦線は、山脈が途切れた先から南端まで延びる大荒野に敷かれており、半ば拮抗状態となってから既に数百年が過ぎている。
ローザスト王国の古き英雄グラウスは、龍壁の尖塔から大荒野を見渡していた。
クリムの龍壁。
三百年前の偉人クリムが成し遂げた、大荒野の手前に長々と延びる防壁の名だ。
土の神から恩寵を賜ったクリムは、岩と土を自在に操るという奇跡を身に宿していた。
家ほどもある巨岩を投石機より遠くまで飛ばすことも、土砂の波で敵軍を丸ごと生き埋めにすることもできたという。
その能力を褒め上げ魔王討伐を促す王に対して、しかしクリムは首を振り、代わりにこの長大な壁を30年かけて築き上げた。
当時の王は激怒したが、独断で国を脱し、危険な前線のすぐ手前でこの壁を築き始めたクリムへの追手は少なかった。
そして彼の意志に賛同した多くの者が協力し、土と岩の塊でしかなかった壁を『城壁』へと変貌させたという。
三百年経った今では、クリムとその仲間達は英雄以上の『偉人』として、語り継がれている。
クリムの龍壁を破って人族の領土へ侵入した魔族の軍勢は、これまでに3度しかなく、それも百五十年前が最後だった。
「なに黄昏れてるのかな」
背後からからかうような声が聞こえ、グラウスは苦笑した。
「明日はあそこを走り抜けるんだ。どれだけ目に焼き付けても足りん」
大荒野は起伏の少ない土地だが、小山や裂け目や砂溜まりはあちこちに存在する。そうした地形を覚えておかないと足が鈍り、その先の森に突入する前に魔族軍に捕まって乱戦になる恐れがあった。
「東西の軍がちゃんと引き付けてくれるって」
グラウスの意図を理解しつつも、心配しすぎだと妙齢の女性――レアスは笑った。
言葉通りに油断しているわけではなく、肩の力を抜けと伝えたいのだろう。
「それより、皆もう飲み始めてる。早く混ざらないと勢いに乗れなくて浮くことになるよ」
「あー、それは嫌だな」
最後に大荒野を一瞥して、グラウスは尖塔の中へと歩きだした。
翌日。
ローザスト王国の軍勢は、東西に分かれて早朝から魔族領へ攻勢をかけていた。
長く戦場に身を置いているグラウスは、不要と知っていれば鬨の声で睡眠を止めたりはしない。予定時間までぐっすりと眠っていた。
近隣の魔族が集結し、両軍とぶつかってから、そのどちらにもグラウスという『恩寵を受けし者』が参戦していないと知られるまで。
それが、大荒野を抜けるために与えられた時間だった。
グラウスとレアスを含め、16名。
戦闘要員は10名で、他は補給や医療、偵察を担当する。
魔族の一軍へ仕掛けるにも、ましてや魔王城を目指すにも、到底足りない人数である。
――いや、グラウスの戦力を踏まえれば、一軍を相手にすることも可能ではあるが。
『【死門の黒獣】を討滅せよ。――それが無理なら、できる限りの情報を持ち帰ってこい』
それが軍司令の言葉だった。
「それじゃあ、走るか」
グラウスが言うと、皆が思い思いに気合の入った応答を返してくる。
そして16人のパーティは速度を揃え、大荒野を駆け出した。
左右の地平上に、戦が巻き起こす土埃が見えた。
前方、遙か先には魔族領の入り口である、深い森が広がっている。
人族はクリムの龍壁に、魔族はあの『果ての森』に、大荒野を挟む形で陣取っている。
何百年も戦争が続けば、互いにどの辺りにどのような戦力が控えているのかは把握している。
グラウス達が目指している先に控えている魔族は、現在左右から攻め上がっている人族側の兵数から言って、既に助攻として動き出している頃である。
今のうちに森へと侵入できれば、敵兵に遭遇せずにある程度の深さまで進めるはずだった。
「――よし、『アレ』が出るまでに息を整えろ」
無事に森へと到着し、周囲に魔族がいないことを確認してから、グラウスは仲間に告げた。
鎧や長物を持ったままで未舗装の荒れ地を1時間以上走り通したのだ。皆が息を荒くしていた。
――ちなみにこの世界での1時間は、地球の3時間に相当する。
森の中を歩きながら水を飲み、鎧の留め金や紐をあらため、武器の握りを確かめる。
そうして進んだ先、
立ち並ぶ木々のうち1本――ちょうどその長い枝ぶりの真下をグラウスたち一行の半ばが通った瞬間、太い幹がぶるりと震え、その枝を振り下ろした。
「――グネヴィル!」
パーティのひとりが叫び、皆が一斉にその場から飛散する。
振り下ろされた枝は空を切り、硬質化した無数の葉が地面に突き刺さる。
木に擬態する魔物、グネヴィル。
刃のような葉、軽々と人体の骨をへし折る力を秘めた枝、そして人を丸呑みにできるほど大きな、幹に開いた口。
果ての森へ侵入した人族を迎撃する、凶悪な門番であった。
通常の人族の兵士ならば20人近くが退治に必要となる。
しかし、
「ふっ」
巨漢の斧が枝を断ち切り、
「せえっ!」
片目に傷のある男が槍を口の中へ突き刺し、
「じゃあね」
硬直したグネヴィルの口へ、引き抜かれた槍と入れ替わりにレアスが指先から光る球を飛ばす。
光の球は口内で破裂し、魔木の幹を縦に大きく引き裂いた。
葉を揺らし、根で地面を引っかきながら、グネヴィルは倒れ伏した。
断裂した口から、絶命の叫びを漏らしながら。
「――ここからだな。すぐに来るかもしれん。気合を入れろ」
百年前の戦士たちなら、グネヴィルを倒した時点で一息入れるところだった。
しかし、五十年前に現れた魔物――【死門の黒獣】。
それは、グネヴィルの断末魔を機にやって来るということだけは、人族にも知れ渡っていた。