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断章:その狙撃手が描く道

 母親は娼婦だったらしい。


 その友人だという女性がリョウバの育ての親だった。

 ぶっきらぼうで、面倒くさがりで、なぜか料理だけは得意。

 彼女もまた娼婦で、家に遊びに来るのは似たような仕事の女たちや、金回りの良さそうな男たち。


「あんたの母親が置いてったのがこの金」


 5歳のとき、テーブルに金貨を積んで彼女はそう告げた。

 彼女が本当の母親ではないという事実と一緒に、そう告げられた。


「あんたが生きるための金は、ここから使う。私の金は使わない。あんたの食いっぷりや遊びたさによるけど、まあ背が伸び切るまでにはとうてい足りないと思いな」


 それでリョウバは、娼館の雑用係で金を稼ぐようになった。

 5歳から8年間、汚れたリネン類を洗濯し、裸の男女がベッドで喋っている部屋に酒や軽食を運び入れ、風呂場と床を掃除し、娼婦の荒れた肌に軟膏を塗り、からかう女たちや時には迫ってくる男たちをあしらう術を身につけた。


 育ての親だった女は、リョウバが13の時に病で死んだ。

 彼女に財産と呼べるものは一切なく、いくらかの借金すらあり、けれどリョウバに見せた金だけが8年前から減っておらず、彼の名義で残っていた。


 泣いたのはその時が最後だ。


 娼館の雑用を辞め、魔族の領土内を放浪した。

 何人かの女と親しくなった。

 旅のコツ、世界の情勢、学問、マナー、そして闘い方に至るまで、様々なことをそうした女たちから教わりながらリョウバは成長していった。

 もちろん女性の扱いについても。


「お前はあれだな、猟師に狩りの方法を学ぶ狼みてえだな」


 酒の場でそう揶揄されたこともあった。


 各地を転々とし、酒場の手伝いや大工の下働きや旅回りの劇団で俳優などもやった。そのうち大荒野の近くまでたどり着き、傭兵になった。頭目は女で、リョウバはこれまでよりも高度な戦闘方法を教わった。

 街なかでの荒事に対処するためのナイフ術や身のこなしではない純粋な殺法、魔術の使い方、戦術・戦略の理解、偵察と潜伏、補給や陽動など。


 そして彼の素質――遠距離からの魔弾を操る狙撃手としての才能が開花した。


 

 いくつかの選択肢があったとリョウバは考える。


 あのまま娼館の雑用を続け、手管を身につけて娼婦のヒモになる道もあった。

 雇われ店長まで出世するか、女衒に鞍替えすることもできただろう。

 劇団を去るときはだいぶ惜しまれたものだ。

 放浪の果てに野垂れ死ぬか、浮浪者になるのは実に容易いことだった。

 

 あるいは、傭兵から正規軍へ移ってからのこと。


 ――誰を撃ったのかも知らなかったあの頃。

 ――味方殺しの大罪人として処刑される可能性があった。

 

 ――天空から散らばる無数の羽。

 ――殺すためではなく、悲鳴をあげさせるための狙撃。

 ――贖罪とも自棄ともつかぬ虐殺に精神が朽ちる可能性もあった。


 そうした可能性を退けて下さった魔王様。


 そして――、


 リョウバは目を開けた。


 視界に広がっているのは先ほどと変わらぬ風景。

 垂直に伸びる断崖と、その奥底で輝く球体。

 周囲を複雑に荒れ狂う風。

 

 風神の御業によってこの地へ刻まれた試練。

 今まさにそこへ挑もうとしている、そんな可能性は過去のどの時点でも想像できなかっただろう。


 ならばその感謝の意は、背後で見守っていてくださるあの方へと結果で示すしかあるまい。



 過去の振り返りからここまでの思考に費やしたのは2秒。

 血が巡り、背中が熱くなり、脳が軽く軋んでいる。

 いつもの、左腕による長距離狙撃を行う際の準備運動でもあり儀式でもあった。

 

 瞬きで終える人生の追憶を助走とし、これより1秒先の未来を全霊で予測する。


 目標までの距離、放つ魔弾の速度と威力、直進性と抵抗、温度と湿度、砂埃の密度、そして――風向き。

 もはや東西南北、手前と奥で表せられる領域ではない。無数に空いた穴から角度と強弱を様々に、さらに吸引と噴出にも分かれ、混ざりあった結果の大乱流は自然において決して起き得ない代物、まさしく風神の息吹と称されるものだろう。


 その渦中を、己の術式がどのような弾道で突き進むのか正確に導き出さねばならない。

 目標の大きさは人間の頭部と同等。

 それをこの距離、この条件下で――



「無理なの?」


 後ろから、いつも通り美しくおだやかな声音ながら軽快な口調の、愛すべき主の声がしている。

 その内容とタイミングは脱力しかねないものだが、今の脳はその音による情報が弾道計算に不要と片隅で判じて思考に影響を与えない。それが不敬だという判断や振り返って会話に混ざりたいという欲求もまた同様に起き得ない。


「常識的には。まずあの球体までの距離ですが、一般的な弓兵の最大射程より5倍は遠いです」

「ごっ!?」

「はい。リョウバは弓を持たない術師のため本来はさらに射程が短いですが、あの変形する腕とレベルによって弓兵の5割増ぐらいの射程を持ってるようです。それでも例えば超一流のナナシャ様あたりと比べれば短いはずですし、その距離をあの暴風まで計算に入れて弾道を導き出すとか、もう冗談の類です。まあ右腕の話なので、あの大げさな左腕がどの程度かはわかりませんが」

「前見たときからすれば、けっこう飛ぶと思うけど」

「距離がどうにかなっても、あのしっちゃかめっちゃかな乱流がありますからねえ。私も知識でしか語れない身ですが、大嵐の夜にお城のてっぺんから縫い針を落として地面の砂粒に当てるぐらいの技量はいるんじゃないですか?」

「それ技量でどうにかなるの?」



 背後の音は続いているが、それも情報としては入力されない。


 対象へと描く弾道の計算にすべてが費やされていく。

 視界の端が赤くなり、脳が沸騰し、全身が強張り、呼吸が止まる。おそらく目と鼻からは流血が始まっている。


 不可能、無理、失敗、そうした思考が形をとる前に理性で潰されていく。無駄な消費はできない、実行すべきことは決まっているのだからそれだけに没頭する。


 逆に、普段ならこの状態でも欠かせない思考だがこの場においては切り捨てられるものがある。それらを意識的に遮断していき脳に余裕ができるイメージを高める。


 そう、ここに敵はいない。

 見つかる心配も、攻撃を躱す必要も、伏兵を警戒する必要もない。

 反撃への対処など論外、狙撃後の移動もいらないので撃ったらそのまま倒れてもいい。

 何より圧倒的に楽なこととして、対象が動かない。


 ただ狙え。

 

 ――そう考えたことが、神の悪戯に陥った故なのか。


 断崖を吹き荒れる風、それが無造作にいくつかの石を巻き上げ、こちらへ向かって恐ろしい速度で襲いかかってきた。


 警戒を捨て去った直後、狭まっていく視界に入り込んだ複数の石礫はあまりにも非道に集中を掻き乱す。

 茹で上がった脳みそが辛うじて予測を出す――当たる、死にはしない、ただしこの狙撃はもう――



 カカンッ、


 と甲高い音を立てたのは銀色の閃光。

 刃物が石に当たる音。


 ゴシャッ、


 と重たい音を立てたのは幾度も身に浴びた拳。

 一瞬で斜め前方に現れた後ろ姿に、麗しき藍色の髪がたなびく。


「――――――!」


 なにか御声をかけてくださった。


 それすら満足に聞き取れない恨めしさを感じることを、ほんの一欠片だけ許す。

 それに倍する歓喜が、思考回路に冷たく新鮮な空気を送り込んでくれる。


 後はもう、すべてを。

 気を新たに目標の球体を見据える。


 ――なんだ、


 頬が緩む。


 ――さっきより随分近くに見えるな。


 左腕より放たれた深紅の光線は、無数の颶風によって上下左右に揺れながら弾道を描いてゆき、狙い通りの結果をもたらした。

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