つまりカレーは武器
当初は、昆虫館と植物園が並ぶエリアだった。
その昆虫館を改築・増設して今では発酵所と香辛料庫を兼ねることに。
すなわち無数の虫とその餌、様々な薬草と肥料、所狭しと置かれた壺や樽の中で熟成する素材、整然と並ぶ香辛料と机に広がる配合中のミックススパイスやカレー粉。
それらが織りなす濃厚複雑な臭いは、建物の周囲にも広がり一般人を大きく遠ざけていた。
「なんですかねー、食欲が湧くような、失せるような、頭が冴えるような、眠くなるような……」
「野良犬や野良猫も混乱してこのあたりをぐるぐる回ってるって噂があったよ」
「一緒にしないでください……」
建物の大きさに比べるとやたらに頑丈な門を抜け、これまた気密性抜群といった様子の扉を開ける。
昼休みのうちに先触れを出していたので、エントランスでモカが待ってくれていた。
「いらっしゃいませ」
「お邪魔します。……ごめんね、忙しいところにまた新しいお願い事で」
「いえ、興味深い研究ばかりでありがたい限りです」
「それにしたって最近やたらと仕事量が跳ね上がってるでしょ。あ、午前中にフリューネが提案してくれたんだけど、予算外のお金も使って人員増を早めに実現するって。もちろんここも大事な対象だから、欲しい人材とか面接とか、まあそれもまた時間取っちゃうとは思うけど……」
「わ、ありがとうございます」
喜色をあらわにするモカが、一瞬エクスナと微妙な視線を交わしたような気がするけど、なんだろう、お互い領内トップクラスで忙しい部署のリーダーとして通じるものがあるんだろうか。
「ですがこの建物内はある程度回るようになってきましたので、できましたら手数のいる作業用に、別棟があると採用もしやすくなるかなと」
「ああ、そうだね。わかった、フリューネたちにも伝えておくよ」
「すみません、面倒なお願いを」
「ううん、大事なことだからね」
なにしろこの建物内には他国に漏らしたくない情報が盛り沢山なのだ。
地球の知識を活用した発酵と香辛料の研究もそうだけど、なにしろバストアク王城内外を一大騒動に巻き込んだジガティスという男が残した異形の虫たち、それをもとにした研究の価値と危険性がとてつもなく高いのだ。
……そして、それすらもカバーにした最重要施設が、他の職員は出入り禁止の一室に秘められている。
そう、人族領土の素材に魔族の知識を転用するモカの研究室である。
私の内蔵兵器なんかもここで作られたり修理されたりしている。
「やっぱり興味は持たれてますよね? 大丈夫そうですか?」
「うん、今のところは他の研究が山ほどあるからそっちに集中してくれているし、理由に納得がいく規則ならちゃんと守ってくれてるから」
「よかったです。私の出番はなさそうで」
「ほんとにその通りだね……」
エクスナが心配しているのはもちろん、今いる職員が好奇心や知識欲に負けてモカの研究室に忍び込んだりしないかという点だ。
そうなってしまえば迅速に暗部が動くことになる。
けれどこの研究所に採用した人たちは、バストアク王国内でも選りすぐりの人材である。なにしろ私たちがファガンさんから勝ち取った『国内から9人まで好きに引き抜ける権利』のうち5人をここに使っているのだ。
そのとき選んだ条件は、
・医学か薬学か生物学か工学に堪能であり、
・出世よりも現場での研究を好み、
・口が固く、
・モカが男嫌いなので女子または草食系男子で、
・いきなり現れた他国の姫とその仲間たちが運営する領地で働いてくれる
というあまりに高いハードルだった。
そしてそんな稀有にして優秀な人材が暗殺されるのは大いなる損失なので、
・万が一魔族関連のことがバレてもどうにか説得して引き入れられる可能性が少なくともゼロじゃなさそうな人
という、ハードルの上にギロチンでも吊り下げたような狭き門を通過したSSR人材がここに結集しているのだった。
「――はい、わかりました。じゃあ大型の獣の腸を揃えておきますね。下処理はどうしましょう? 内容物の掃除は当然ですが、脂肪層は残した方が良かったりするのでしょうか?」
「あ、ごめん、細かいところは……」
「わかりました。ではいつものように検証しましょう。とりあえず洗浄は、やっぱり塩水――いえそれも含めですね。あ、いいところに」そこでモカは席を立ち、廊下を通りがかった女性に声をかけた。「コアキさーん、腸の洗浄に良さそうな設備をお願いできますか?」
「生体ではなく?」
「はい。死体の腸それ単体です」
「大きさは」
「最大でも人間の口に収まる直径です。ひとまず20種類ぐらいを並行して実験できる場が欲しいです」
「了解しました。用意しておきます」
てきぱきと指示を出すモカは、なんというかとても充実している感じだ。
そしていきなり振られた謎の指示を平然と受けたのはコアキさん。引き抜き権を行使したひとりで、もとは王城内の医局で働いていたいわゆるエリートだ。ここでもその有能さを遺憾なく発揮しているようで、モカの右腕みたいな立場になっている。
「料理の話してるとは思えませんねやっぱり」
「私もそう思い始めた」
「皮や胃袋なら道具に使われますけど、腸なんて拷問でしか役に立った記憶がないですよ」
「そこ詳しく言わなくていいからね」
モカが戻ってきて、今度は壁にずらりと並ぶ陶器の壺やガラス瓶に近づいた。
「それではソーセージは研究開始するとしまして、次はカレー粉の進捗ですね。前回はイオリ様の好みに合わせたのですが」
視線を受け、エクスナがきっぱりと答える。
「あれは武器です」
「違うんだって! あの日は何度も試食したから耐性ついちゃって並の辛さじゃ感じなくなっちゃったんだよ!」
「結果武器になりました」
「武器っていうのやめて!」
「でも目潰し代わりに投げてみたらジギィがのたうち回ってましたよ」
「またなにかしたのあの子?」
「街でスピィにしつこく声かけてた男がいてですね」
「すべて理解した」
私達のやり取りをにこにこしながら眺めつつ、モカはいくつかのガラス瓶を机に並べてゆく。
「では、今回はこちらの5種類です。前回の方向性のまま、辛味を常人の好みまで下げたもの。それを下地に、輸送中に香りが揮発することを想定し脂と練り合わせたもの。香りの強さとイオリ様の言うカレーらしさを多少外して具材の旨味を引き上げる狙いで肉用と魚用。最後に、素材と配合でひたすら薬効を高めたものです」
「最後のやつ、色が毒々しすぎませんか」
「そこは厨房に期待。すべて茶色く染まれば見た目はどうにか」
「味は」
「肉や骨、魚の頭なんかでスープを取るんだよね? 強い具材が良いと思う」
「味は」
「健康にいいよ? エクスナも疲れてるでしょ」
すがるような目で私を見るエクスナ。
「……えーっと、その薬効はどのような?」
「今回は頭の重さや眼精疲労、血行不良や倦怠感など――要するに過労と睡眠不足を狙い撃つものに仕上がっています」
「うん。それじゃあ――エクスナ。あとフリューネももちろんだね」
「イオリ様ぁ!」
「ごめん、これも約束だからね……」
きっかけは、カレーについて最初に説明したとき私がぽつりと言った『香辛料って薬と似てるんだったっけ』という発言。勢いよく食いついたモカが私のなけなしの知識を引きずり出した後に、
『ではカレーを作る手前、香辛料の収集と成分調査、配合などは私が請け負いましょう』
と力強く言ったことだった。本来は料理研究としてエクスナが担当しようかという話だったけど、彼女の仕事が多すぎたのを見かねた温かい心遣いと言えた。
『その代わり美味しさとは別軸で薬効を極めたカレーも作らせてください。あと試食を兼ねた実験には皆さん協力してくださいね』
隠しきれない本音を誰もが理解したが、確かにモカが適任だったので誰も拒否できなかった。
「それじゃちょうどいいのでエクスナは今から体調診断ね。フリューネ様もお呼びしないと。まずは10日間食べてもらってから体調変化を測りましょう。――ふふ、怪我や病気に投薬で対処するのではなく、体調に応じた食事という『予防』、興味深いですよ。食欲増進効果で薬湯より継続しやすいですし摂取量も捗ります。即効性がないので研究は長丁場になりますが、あくまで食材なので実験がたいへんお気軽です……」
楽しそうにトリップしているモカ。
これからの食事に投入されるなんとも色鮮やかなスパイスの小瓶を怯えた目で見つめるエクスナ。
「そろそろあの『鎮静効果と性欲減退』に振り切ったカレー粉もできあがります……、警備隊に根回しして絶対にリョウバの食事をあれで埋め尽くします……」
「イオリ様」
「うん」
「やっぱり武器ですよこれ、色んな意味で」
「うん……」