地味すぎる修行パート
「左膝が内に入りすぎです、指2本分外へ。右肩の旋回も早いですね、腰との連動を意識して、稠密に」
カゲヤの指導を聞きながら、右の拳を放つ。
「荷重が前に寄っています。もう少し軸足へ残して、その溜めを背中の筋肉へ繋げてください」
ゆっくりと、全身の筋肉と関節を把握しながら、スローモーションの右手を突き出す。一発ごとに微調整を加え、何度も、何度も。時々全力の速度で。たまに開始時の姿勢を変えて。30回ごとに左右を変える。それを10セット。
ヴィトワース大公との試合、その最後に出した一撃の練習である。
正確無比で無駄のない、完璧なフォームかつ全力のパンチ。
――実のところ、私がカゲヤから合格点をもらえていたのはたったの2つだった。
間合いに入った状態での、右の正拳突き。狙いは顔面と心臓――その2つだけ。
つまり左のパンチどころか、右のフックとかアッパーとかもまだまだ習得には時間がかかるというわけだ。それどころか右正拳すら、例えば一歩踏み込んで打ったりとか、事前にフェイントを入れる場合だとか、様々なパターンを身に染み込ませなければならない。
さらに言うと、狙う位置は標準的な男性の体格を想定しているので、帝国で見たカゾッドさんみたいな大男だったりすると急所に当たらない場合がある。逆にスピィみたく小柄な相手だと、頭上を空振りすることになりかねない。
そしてパンチの後には蹴りの訓練もあるし、ヒジとかヒザもあるし、なんなら裏拳とか踵落としとか、とにかく私はカゲヤの言う武の極みの一合目すらまだまだ遠いというのが実情なのだった。
「ヴィトワース大公の噂は聞いておりましたが、やはりレイラ姫をしても規格外と思われる強者だったようですね」
5セット目が終わり、休憩中にカゲヤがそう言った。
「うん。ほんっとに、すごい強かった。正直に言うと、試合中何度も逃げたくなった」
大公があくまで試合の心構えで、『ほら、おいで』みたいな空気を纏ってくれていたからどうにか向かっていけたけど、あの人が本気でこっちを殺そうとしたらと思うだけで勝手に集中モードが発動するぐらいにはプレッシャーが刻み込まれていた。
「そうでしたか……。ですが、お帰りになってからの動きは、全体的に内へ前へと寄りすぎています。平たく言えば、より威力を高めようと気が急いて、かえって不自然な型になっております。修正は必要ですが、それはある意味で良い傾向かと。つまりは逃げたいという思いと並行して、勝ちたい、次はもっと強く、といった思いも持たれているがゆえの結果だと思われます」
「……そう、かも」
確かに、試合に負けたことは悔しかったし情けなかった。
そうと知ったあのとき、そばにスピィとアルテナがいたからこらえたけど、ひとりだったら枕に顔を埋めて唸るぐらいはしたと思う。なんなら軽く涙ぐみそうだった。
また闘うことはないと思うんだけど、もし機会があるなら次は、みたいなことも考えたりしている。
とはいえ表には出してないつもりなんだけど、パンチのフォームで見透かされるとは流石というべきか……。散々訓練をつけてくれたカゲヤへの申し訳無さも感じているので、それも原因かもしれない。
「あ、そうだ。試合後の打ち上げでなんだけど、カゲヤのこと褒めてた人がいたんだ。良い師匠をお持ちですねって、私にそう言ってた」
カゲヤは無表情のまま顎に手を当てる。
「レイラ姫ご自身ではなく、自分をですか……。いえ、師と呼ばれる立場でないことは重々承知の上ですが、ありがたいお言葉です」
いや普通に師匠だと思ってるんだけど、そう伝えたところでカゲヤは頑として同意しないことこそ重々承知の上なので流して話を続ける。
「最初は、珍しい型だって言われたもんで魔族特有のものだったらマズイなあって思ったんだけど、そうじゃなかったみたいで」
「そうですね。サーシャ様はどなたかに師事したことがなく、我流だと仰っていましたし、その指導を受けた自分も身体に合わせていくらか構えや動きを変えております。もちろんレイラ姫に向けてはさらに調整を加えておりますし、魔族だと判断される要素はまず無いものかと」
考えながらなのか、ゆっくりとカゲヤは言った。
「そっかあ、よかった。その人トウガさんっていうんだけど、お孫さんも戦士でね、今度機会があればバストアクを訪ねてくるかもって」
「トウガ――」カゲヤがふいに目を細めた。「ジルアダム帝国の元将軍、『千魔斬滅』でしょうか?」
「えーっと、元将軍かは知らないけど、二つ名はたしかそれで合ってた」
カゲヤは数秒黙り込んだ。
「……それは、低い可能性ではありますが、レイラ姫が危惧された通りかもしれません」
「へ?」
「トウガはかつて、サーシャ様と戦ったことがあるそうです」
「うっそ!?」
――いや待て! そういえば試合中にナナシャさんが――
「あっ、そうそう! たしか魔族最強とか言われる人と渡り合った伝説があるとかで、その魔族の二つ名が、えっとえっと……」
「『紅銀女帝』でしょうか」
「それ!」
目を伏せるカゲヤ。
「……サーシャ様のことでございます」
「うわぁ……」
そういえばそれ聞いたときに『もしや』と思ったんだよなあ。
「つまり、私の闘い方からその師匠であるカゲヤをさらに通して、サーシャのことを連想したかもってことだよね」
魔族かどうかという話とは別軸で、サーシャという個人を知っているからこその懸念ということだ。
「ある人物から祖父母を連想するようなものですので、相当に低い確率だとは思いますが」
「あー、その例えはわかりやすいね。たしかに親ならともかく、お爺さんお婆さんまではなかなか……」
「イオリ様」
急にカゲヤが鋭い声を発した。呼び名も素になっている。
「えっ、なになに!?」
「サーシャ様に関して、例え話としてでも高齢を思わせる単語をお使いになるのは非常に危険です。自分もかつて散々な目に遭いました。これに関しましてはイオリ様や魔王様も例外にはならないものと推測されます」
「……承知」
魔族最強の逆鱗なんて想像したくもないです。
「話を戻しますが、トウガの件についてはひとまずエクスナに伝え、無理のない範囲で探っておけば充分かと」
「わかった、私から言っとくよ。それにしてもトウガさん、サーシャと戦って死んでないってたぶん凄いことだよね?」
「はい。それはもう」
カゲヤにしては珍しいほど実感のこもった頷きである。
「試合じゃアルテナが勝ってたけど……」
「もちろんアルテナ殿の力量は確かなものですが、やはり年齢による衰えや古傷の蓄積は無視できないでしょう。サーシャ様との一戦は30年ほど前だと聞いております」
「そっかあ。でも経験値は凄そうだね。ほんとにこっちへ来たら、カゲヤも色々聞いてみるのもいいんじゃないかな?」
「ええ、それは是非とも。……ですが、私の動きを見られるのは危険ですね。先の例で言えば、子から親を連想するのはだいぶ容易になりますから」
「ああ、それはそうだね」
「最悪、徒手空拳を避けて槍に絞れば安全だとは思いますが。そちらは独学ですから」
「あ、そうなんだ」
いずれにしても、トウガさんとサーシャの関わりについては頭の片隅には残すようにしておこう。
人族領土を去る前には、まだまだやることがあるのだから。