断章:語り合う王と、語られる誰か
イオリとヴィトワースが屋上へジャンプする少し前。
その建物の2階にはいくつかの小部屋があり、1階から上がる階段は衛兵に守られている。各部屋は招待客が一定の時間専有することができ、休憩、化粧直し、あるいは酔客の介抱などに用いられるが、その最奥だけは通常使われることがない。
だが今はその部屋――皇帝とその血縁者しか使うことのできない最も豪華な一室でふたりの男が差し向かいになっていた。
「では、あらためて乾杯といこうか」
グランゼス皇帝が気軽に傾けた酒瓶は、庶民の家が一件建つほどの値打ち物であり、
「何を祝するのか、難しいな……」
それをグラスで受けながら、バストアク王のファガンは皮肉げな笑みを浮かべる。
「そうだな」と皇帝も苦笑しながら、「まあ、これまでの苦労へのねぎらいと、これからの苦労を耐える心身の健康を願おうか」
「ああ、それはいいな、――では」
チィン、と澄んだ音を立ててグラスがぶつかる。
互いに一息でグラスを空にし、ほっと息をつく。
バストアク王国とジルアダム帝国では、国土の広さに人口に生産力、兵力や経済力など、どれもこれも10倍以上の差がある。ファガンとグランゼスも今回の懇親会で初めて会った間柄だ。
けれどふたりの間には、奇妙な連帯感が存在していた。
――お互いに、大問題児を抱えているという共通項。
日本で言う『同病相憐れむ』という親近感が。
「まったく、今日一日で国史が何ページ増えるのだろうな」
とグランゼスは重たい声を発した。
「そのうち、歴代の皇帝お一方当たりよりもヴィトワースの名のほうが登場回数が多くなるんじゃないのか?」
「実は既にそうなっている。公の国史ではなく裏の方だがな」
景気よく2杯目を注ぎながら皇帝はそう言った。
「ヴィトワースの乱、か……」
遠い目をするファガン。
ジルアダム帝国とウォルハナム公国の戦争。バストアクにその戦火が及ぶことはなかったが、流れてくる情報の多くにヴィトワースの名が乗っており、トラウマに胃を痛めた日々が蘇る。
「ああ。30年前にあれが大荒野で名を馳せ、そこから先の戦争までのおよそ15年間――国史どころか、大陸史においてもヴィトワースはひとつの中心、歴史を動かす大きな動力だった」
「それを封じた当人がよく言うな」
そうファガンが言うと、
「そちらは、封ずるつもりはあるのか?」
とグランゼスは返した。
「……器が違う」
渋い顔になるファガン。
「ああ、その通りだ。しかし歴史の動力という点においては、あるいは上回るかもしれぬと私は見ている。――率直に尋ねたい。レイラ姫は何を見ている?」
1階での打ち上げから数えればどれだけの酒を干したか気が遠くなるほどだが、視線だけは酔いを感じさせない皇帝がそう尋ねた。
ファガンは、ぽつりと答える。
「魔王討伐、だと言っていたな」
王と皇帝は、しばらく無言で見合った。
話を再開したのは皇帝から。
「気にしすぎだと笑ってもらいたいが、私が強さの秘訣を訪ねた時、レイラ姫はこう言っていたな。『背後にそびえる白嶺で魔獣退治をしていた』と」
「ああ」
とファガンは首肯し、視線を窓の外にやった。
「彼の地の文化を私はよく知らないが、単純に地理上の話をすれば、魔族領土とラーナルトの間に白嶺があり、その東に人族領土が広がっている。――レイラ姫が魔王討伐を主眼にしているのなら、白嶺は背後ではなく、目の前にそびえる高い壁ではないだろうか。あるいは南の大荒野を抜けるにしても、背後ではなく横腹や脇と表現するだろう。……まるで、レイラ姫の視線の先にあるのは魔王のいる魔族領ではなく、我らが人族領土だと、そう考える小心者もいそうな気がしてな」
「たしかに、気にしすぎだな。実物を見たことはないが、頂上が見えぬほどの山は正対して見上げるよりも、背後に置いたほうが日々は過ごしやすいかと思うぞ」
そう言いながらも、ファガンは笑わない。
「まったくな、ジルアダムの帝位にいながら、この細さだ」
とグランゼスは笑う。そして、
「――まあ、一方で、レイラ姫の言動や肩書ではなく気質について述べさせてもらうと、そこには危ぶむべき要素がまるで見当たらないというのも面白いところだ」
「まるで善良な町娘みたいだろう」
「実にその通りだ」
互いのグラスにどぼどぼと酒を注ぎながら、皇帝は大きく頷いた。
「……ああ、いや、少し訂正しよう。奇妙な言い方だが、『善良な貴族の末子のように伸びやかに育った町娘』というのがより正確だろうか」
「ほう。たしかにあれは町娘にしては苦労を知らなすぎる。だが貴族の思考や作法が染み付いているわけでもない。いい表現だ」
「ありがとう」軽くグラスを掲げるグランゼス皇帝。「――だがそこに、様々な要素が乗っていくのがレイラ姫の特異な点だ」
ふたりの脳裏には、本日見た試合とそれにまつわる諸々の大イベントが鮮やかに蘇っている。
「戦闘力、回復力、神々との接点、王女の位、物怖じしない言動、といったあたりか?」
「さすがは保護者だな」
「勘弁してくれ」
心底嫌そうにファガンは顔を歪める。
「実際どう思う? ファガン殿」やや身を乗り出してグランゼスは問う。「試合に勝ったのはヴィトワースだ。あれが実戦でも、恐らくは変わらぬだろう。だがその後、神からのお言葉は完全にレイラ姫を中心に据えられていた。試合途中、そちらの控室にもお見えになったと聞く。さらにこの打ち上げに現れた姿――あれほど包帯まみれになったヴィトワースも記憶にないが、それだけに激戦の名残を欠片も見せぬレイラ姫の異常性が際立っていた。……私が、彼女がヴィトワースよりもさらに大きな歴史の動力になりかねないと感じた理由はそういったところだよ」
「どうだかなあ」とファガンは天井を見上げる。「少なくともヴィトワースは、俺よりも『王の器』を持っている。……正確には『大将の器』ってやつをな」
「レイラ姫とて王女にして、ファガン殿が領主の地位も与えたのだろう?」
「さっき町娘と評したのに同意してくれただろう」
「ふむ、だがファガン殿自身もそう考えていると明言していたかな」
意地悪そうな笑顔を見せる皇帝。
空いたグラスをテーブルに置き、ファガンは腕を組む。
「……俺の見た限りだが、あいつはどこか、身軽でいようと努めているように感じる。己の腕で抱えられるだけの範囲を大事にしようとしているとでも言うのかな。――おそらく、あいつは誰よりも『帰る場所』が遠い。だから町娘というより、旅人という方が相応しいと俺は思っている」
「ほう?」
目を見張るグランゼス皇帝。
ファガンは独り言のように低く静かな声で言う。
「誰だって、誰かに、何かに仕えてるもんだ。民は王に、王は国に、兵は軍に、子は親に。あるいは金に、名声に、歴史に。仕え、働き、見返りに保護を受ける。誰もがその仕える先を心に置き、迷うことがあれば最後にはそこへ立ち戻る。どんだけ私欲に塗れていても、自分ひとりだけを考えるのは難しい。例えば国や軍を信じられない兵がいたとしても、そいつだって親か師か伴侶か、あるいは我が子か、それとも怨敵か、何かに心を預けている。それすらない者は真の無法者か世捨て人だ。あんたの言う歴史の動力などには縁がなく、誰にも気づかれないうちに野垂れ死ぬのが相場だな」
「……極端な意見だが、頷けはするな」
苦笑しながらグランゼスはファガンのグラスへさらに酒を注ぐ。
「それで、レイラ姫はそうした仕えるべき対象が、遠いと?」
「ああ。最初のうちは、それこそ自分の上に何も置いてない根無し草かと思っていたがな。しかしどうやら、俺の知る常識があまり通用しないどこかに、あいつの根っこがあるんだろうなと今は思う」
「その言いようだと、もはやラーナルトの出自だとは思っていないようだな?」
「一応、その線も残してはいる。例えば――病弱で城内に引きこもり王族教育もろくに受けていなかった王女が、神の恩寵を授かって極めつけの健康体となり、白嶺へ鍛えに出向いて魔獣を倒しているうちにその強さに惹かれた者たちが集い、あの極地に奇妙な集団を生み出した――といった具合にな。それなら奴の特異性をかなりの部分で納得できる」
「確かにな。が、もちろん他の線も考えているのだろう?」
「それを認めた後が怖いがな……」
自重するようにファガンは笑う。
「それはその通りだな。あのラーナルト王家の身分を借り受けることが出来るなど、誰にできよう」
「ここまでの諸々を踏まえれば、天の御使いと思うのが一番妥当だろう」
「……むしろ、そうでなかった場合が大問題、か」
そこで男ふたりは、長い沈黙を酒で流した。
やがて皇帝が口を開く。
「その『帰るべき遠き場所』がどこであれ、レイラ姫とヴィトワース大公を同じようには扱えないと、ファガン殿は考えているようだな」
「……ああ」とファガンは頷く。「グランゼス殿は、ヴィトワースをウォルハナム公国の頭に据えることで、奴を封じた。あいつの器は大きく、腕は長い。守るべき国があることで、あいつは大荒野に戻ることも、帝国に再度挑むこともできなくなった」
「うむ、その通りだ。ファガン殿は責めるか?」
「とんでもない。あの戦火を思えば、よくヴィトワースを殺さずに済ませたものだと驚いたよ」
「先日彼女が言った通り、あの戦乱があったために私が今の座にいるというのは事実だからな」微かに目を伏せる皇帝。「……話を戻すが、レイラ姫に領地を与えたと知った時、てっきり私は同じ狙いがあったのかと思っていた」
「ああ。そういう狙いはあったし、実際ある程度の効果はあった。……だがそれでも、俺はあいつを封じられたとはちっとも思えない」
「失礼な言い方だが、地位をもって責任や仁義で縛れないのであれば、欲を突いて制御出来ないだろうか」
「それも考えてはいるんだがなあ、どうもあの姫さんの根本的な欲を掴めない」
ため息をつくファガン。
その言葉を皇帝は興味深そうに噛み締め、
「王の器ではなく、出自も偽装の線があり、かといって町娘というわけでもない、本質を掴めないが実績だけは異常か……」と呟く。
「不甲斐ないが、俺には奴を定義できない」とファガンは言った。「善良な隣人でもあり、馬鹿でかい火種でもあり、気さくな小娘でもあり、底知れぬ異常者でもある。あいつの根っこがどこにあるのか、俺にはわからない」
「仮にレイラ姫が真に仕える主がいるとすれば、どのような存在だろうな」
「さてな。土地を貸してるだけの俺がこの有様だ。よっぽど度量がないと心労で即死するぞ」
「ファガン殿にかかれば、王も地主と変わらぬか」
楽しそうに言う皇帝に、ファガンも笑い返す。
「ああ。そもそも神々が創られし大地だ。王なんざ精々が管理人だよ」
「まったくだな」膝を叩いて皇帝は大笑する。そしてひとつ息を吐き、「――その偉大なる天上が、レイラ姫の仕える先であればいっそ気が楽だな。我らの手が出せる範囲ではないと、文字通り手放すことができる」
「そうだな」
短くファガンは応える。
「そうでなかったら、だが」
「だとすれば、言ったようにそいつは早死に上等の自殺志願者だ」
「言い方が酷くなっていないかな」
「そうでもなきゃ、あいつがここまでに起こした諸々を許容できるはずがないだろう。単に制御できていない、されてないって可能性もあるが、それなら主とは言えない」
「……自殺志願ではなく破滅願望者でないことを祈ったほうがいいだろうか?」
「ああ、それはまったくその通りだ」深く頷くファガン。「あの姫さんを配下に置くような存在が破滅願望なんて持ってるとすりゃ、それは世界を巻き添えにしかねないからな」