ふたつの意味で貴重な聖水です
神酒の鎮座するテーブルの前に、ヴィトワース大公と私が立つ。テーブル横にはグランゼス皇帝も。
黄金の柄杓を持ち、グラスに神酒を注ぐのは大公。
そのグラスを打ち上げ参加者の皆さんに手渡すのが私。
そして目の前には、会場の扉の外、庭園まで延びている行列が。
順に案内すると係員が言っているのだけれど、待ちきれず並んでいるのだという。いちおう指定された順にはなっているみたいだけど、皆さんのテンションがヤバいぐらい高まっていて暴動でも起こすんじゃないかと気が気じゃない。
流石に会場内での武装は許可されていないけど、帝国の兵士がテーブルの周囲をがっちりとガードしている。
……まあ、皇帝に大公、ついでに私がいるテーブルに何人が襲いかかってこようとだいたい撃退できるんだろうとは思うけれど、何かの拍子で神酒の入った壺が倒れたり割れたりしたらそれこそ大パニックになってしまう。
まあ怖いことは考えない。はいそれでは試飲会開始!
ちゃっちゃと進行しないとこの行列を消化できる気がしない。
列の先頭にいるのは、当然ながらと言うか、この打ち上げの主役である試合参加者たちの集団。並びも試合順である。
というわけで、ひとり目はナナシャさん。
「あの技の改善のお話、忘れないでくださいよ」
笑いながらそんなことを言いつつお酒を受け取り、飲み、
「……うおぉぉぉ……」
喉の奥から低く唸り声を上げる。こう言っては失礼かもだけど、珍しく真顔になっている。
そしてふらふらと、列に並ぶことのできないスピィたちがいるテーブルへ戻っていき、そのまま突っ伏した。
気配は幸せ100%という感じなので、口に合わなかったとか酔ったとかいうわけではない。あれがナナシャさん流の感動の表し方なんだろう。
続くシュラノは、無言で受け取り、飲み、無言でその場を離れ、壁に背を預けて腕を組み瞑想状態に入った。分析でも始めたのだろうか、とんでもない集中の深さが感じられる。
「どうぞ」
「……これは、誠に、有り難く……」
3人めにしてようやく、普通にと言うか、神酒に対する緊張感を露わに受け取ったのはナナシャさんたちの対戦相手。カゾッドという巨漢だ。
指先でつまむようにグラスを――ちなみに神様からもらったグラスは落としたりする危険があるので、皆に渡すのは普通のグラスだ――手にして、これまた失礼ながら体つきに似合わない繊細な動作で口にする。
「お……おぉ……」
そしてその場に膝をつき、天を仰いでいた。それでもまだ私よりずっと背が高いのがすごい。
そのカゾッドさんを迂回するように4人目のソフィナトさんが。そしてアルテナ、リョウバ、トウガさんと出場者が続き、その後は帝国や各国のお偉いさん、有力者、富豪と次々に列が動いていった。
神酒を飲んだ反応は、だいたい3パターン。
その場に崩折れたり、両手を広げて天を仰いだり、滂沱の涙を流したりと劇的に感動する人。
沈黙し、そっと人の輪から離れ、沈思黙考する人。
既に飲んだ人のところへ行き、大興奮しながら感想を言い合う人。
その誰もが、私やヴィトワース大公と同じように幸せな気配を放っていた。
これだけ喜ばれるなら、コンパニオン役も悪くない。お酌冥利に尽きるというものである。
「お、ここまでだね」
行列に並んでいた最後のひとりが済み、ヴィトワース大公が言った。
最後のあたりの人たちは、自分の番までちゃんとお酒が残っているのかだいぶ不安そうだったけど、きっちり配分できていた。
「すごい、計算通り」
私は感心しながら、バストアク勢のいるスペースに立つひとりの男性を見た。
ややぽっちゃりした、柔和な面差しのその人はマリエットさん。私がファガンさんと交渉した人材引き抜き権で獲得した9名のうちのひとりである。
なんと神の恩寵持ち。
その効力は、『数字を色や匂いや形で感じ取り、逆に物体を数字に変えて算出することが出来る』という、もはや本人にしか理解できないものである。聞きかじった程度だけど、共感覚というのが近いのだろうか。
普段は領主館で死んだ大臣の裏金を陽の下に晒したり貧民街の改築に必要な資材の計算などをしてくれているが、今回は帝国のあらゆる物を見聞して数字として記録してもらうために同行をお願いしていた。
そのマリエットさんに酒壺と柄杓を見てもらったところ、一瞬ですり切り何杯分になるか計算してくれたのだ。念のため帝国の数学者も同じ計算をしたけれど、何しろ透明とは言え酒壺に入ったお酒で、計量カップなんかに移し替えるのも恐れ多いという代物である。柄杓に巻き尺を当てるのさえ手が震えるという次第で、計算結果はばらつきがあった。
結局、その能力を以前から信頼しているファガンさんの押しもあってマリエットさんの出した数字をもとに試飲会の順番と上限を決めたのだけれど、みごと的中だった。
なお、柄杓にすりきり一杯をこぼすことなく正確に何回も繰り返したヴィトワース大公も地味にありえない技術である。たぶん私と違って初手から思い通りに身体を動かせるのだろう。器用さのステータスはたぶん負けてる。
「あっ、そういえば力加減ができないなんて言ってたのに完璧じゃないですか!」
「ああ、それね、いやホントに最初は駄目だったのよ。けどこのお酒飲んだらなんだか一気に目が覚めた感じっていうか、とにかく普段どおりに戻ってたの。ていうかレイラもそうじゃないの?」
「あー、私は誰かさんに気絶させられたんで、起きたときにはもう既に……」
「なるほど、誰か知らないけどいいことをしたんだね」
強え。
まあとにかく予定通りに順番を決め、最後のひとりまでお酒を注ぎ終えた。
身分とか立場とか運とか、まあ諸々の事情で飲む権利をもらえなかった人たちからは恨めし気な視線が、飲んだ感想を声高に喋っている人々へ向けられている。
「さって、仕上げだね」
そう言いながらヴィトワース大公が、酒壺の底、薄っすらと残っている神酒を長いスポイトみたいな器具で吸い上げ、グラスに注ぐ。
並んだ人に渡したのよりははるかに少ない、それこそひと口ぶんである。
「えー、この場にいながら運悪く並ぶ権利を得られなかった皆さん、『ハインズの息吹』でもいいって人は庭に集合!」
そう言って、神酒の入ったグラス片手に外へ出てゆく大公。
そして、「嘘だろ! ヴィトワース大公が!?」「そんな! 知ってたら並ぶ権利を誰かに――いや、譲らなかったか? だがしかし……っ!」「俺、生きてて良かった……」などと一気にボルテージを上げて後を追う人たち。
もちろんこれも事前の打ち合わせで決めていたことである。
『ハインズというのは、酒精の神ウィックディワイスを崇める宗教の開祖です。800年ほど前の人物ですね。あらゆる酒を飲み、自身も多くの名酒を生み出し、酒を単なる飲み物から文化へと至らしめたと言われています。生涯で大河に匹敵する量の酒を飲んだことにより、晩年にはその吐息が極上の酒の香りを放っていたという伝説があり、『この行為』はそれに由来しています』
とスピィが解説してくれた。
私もアルテナやナナシャさんたちと連れ立って庭へ見物に行く。ファガンさんとグランゼス皇帝は無言で首を振り、どっかりと椅子に腰を落ち着けていた。なんだか妙に仲良くなっているような……
日本庭園のような風情はないけれど、優美さが随所に見られる庭園の中央、お行儀の悪いことに野外テーブルの上に立ったヴィトワース大公と、それを囲む――わけではなく、前方扇形に密集している人たち。男女比7:3というところだろうか。
「ったくお上品な奴らが多いわねえ」
皮肉げに言った大公は、くいっとグラスを傾けて最後の神酒を口に含む。
そしてぷうっと頬を膨らませたかと思うと、
プッシュウーッ
と、クジラの噴水みたいな勢いで霧状に酒を吹き出した。
――ぅうおおおおおおっ!
それを浴びて一気にボルテージが最高潮になっている人たち。誰もが両手を天に突き上げて咆哮し、神酒の霧を浴びてその香りを堪能し、全開にした口で少しでも味わおうとし、熱を帯びた視線で大公へ歓声を送っている。
異世界の帝国の王宮庭園であるはずの空間が、まるでロックバンドかアイドルのライブ会場のような雰囲気になっていた。
「これはこれで宗教になりそうですね」
薄ら笑いを浮かべながらナナシャさんが言う。
「うん、あの人たちもう信者だね……」
「レイラ姫もやってみたらどうです? 信者が倍になると思いますけど」
「お断りします。っていうかアレがもう最後の一杯だったし」
にしても、あの神酒を口に含んだら99%の人はそのまま飲み込んでしまうと思うんだけど、ヴィトワース大公の精神力が凄まじい。
「やー、ほんと神様が2柱も降臨されたときはどうしたもんかと思いましたが、あのお酒を飲めたという1点だけで諸々帳消しにできるってものですねえ」
そう言って朗らかに笑うナナシャさんに対して、
「くっ……、何故私は自制できなかった……、フリューネ様に持ち帰るべきはずが、ああ……、どれほど嘆かれることだろう……、かくなる上は可能な限りの感想文を、いや、逆効果か……?」
劇的に身悶えしているアルテナがそこにいた。