断章:第1試合
親の顔はもう覚えていない。
ナナシャが生まれたのがたまたま大荒野の近くにある村で、たまたま当時のその地域が激戦区だった。
5歳で大きな傭兵団に買われ、武具の洗浄に炊事や洗濯、傷の治療に陣地作成の手伝いにとこき使われた。合間にはひたすら走らされたり、素振りをさせられたり、死体を埋めさせられたりした。
8歳になると、戦場に放り込まれた。
最初の仕事は補給部隊。弓兵に矢を届け、術士に薬を届け、どちらにも水と食料を届ける。限界まで荷物を背負って、後衛のさらに奥を往復するだけだが、それでも流れ弾であっけなく死ぬ。死ななかった子どもたちは、最低限の体力と、戦場の空気への耐性を身につけた。
戦場は、そこにいるだけで五感を圧倒する。
嗅覚は血と臓物、土と煙の匂いで。雨の日は救いだった。
聴覚は怒声と悲鳴、金属のぶつかる音や爆発音で。
味覚は呼吸のたびに入ってくる砂埃と、自分の胃液、運が悪ければ血の味で。
視覚は、そうしたあらゆる刺激を生み出すもの――すなわち人族と魔族の死闘と、その結果で。
そして触覚は、もちろん痛みで。
3ヶ月が経つと、体格や欠員状況に応じて武器を渡される。ナナシャに支給されたのは弓矢一式だった。そのまま弓兵同士の隙間を埋めるように配置される。子供の腕力では前衛が戦っている場まで到底届かないため、そこを突破してきた魔族に向けて射るのが仕事だ。
相変わらず流れ弾で死ぬこともあるし、後衛に攻め入る魔族の手によって直接殺されることもあった。誰かと親しくなることを避けるようになった子もいれば、その逆の子もいた。
半年ほど生き延びると、弓兵見習い程度の技量が備わる。
早ければそれまでに、放つ弓の威力と精度が『致傷』から『致命』にまで上がる。
ナナシャはその時点で、既に50体ほどの魔族を射殺していた。無傷の相手を一撃で仕留めることも少なくなかった。才能があると、上官から評価された。
その頃から、妙な手応えを覚えるようになった。
矢の鋭さと重さ、弓力――弓の張力とそれを引く腕力、急所を狙う精度、撃つタイミングと角度、そうした要素とは別の『何か』が、自分の放った矢に込められているのを感じた。
「魔族を殺した成果だ。ガキの頃は基礎体力に上乗せされるもんだが――武器に乗せられる奴は、少なくとも適性があるってことだ」
部隊でも有数の弓兵は、ナナシャにそう言った。
「術士が持ってる力や、頭ひとつ抜けた前衛が持ってるのと、本質は同じだ。俺らはそれを矢に込める」
前衛を張る戦士は刀身に。
術士は行使する法術に。
そして弓兵は矢に。
人族は法力と呼び、魔族は魔力と呼ぶ、神に授けられた普遍的にして超常なる力――敵を殺すほどに蓄えられてゆく、物理を超えた作用――ナナシャはそれを、急速に高めていった。
「――お待たせ致しました! それではいよいよ、第1試合となります!」
会場にアナウンスが流れ、ナナシャはシュラノと共に控室を後にする。
「がんばってね!」とレイラ姫が朗らかに声援を送り、
「殺すなよ」とアルテナさんが冗談めいた口調で言う。
「任せといてください」と返しながら闘技場へ。
先ほど突如降臨された神、アランドルカシム様が天より落とした光によって、闘技場には深く大きな穴が空いてしまっていた。土の操作が得意な術士がその修復を行うため、暫く待ち時間ができてしまったが、会場の熱は下がっておらずナナシャたちに熱い歓声が降ってくる。
「おっと、これはナナシャ戦士、大量の矢を用意してきたようです」
アナウンスの通り、ナナシャは背負った矢筒だけでなく、さらに予備の矢を詰め込んだ木箱を持ち込んでいた。矢の本数について上限は定められていないので、試合用の装備を借りる際に用意してもらったのだ。
木箱は闘技場の端に置き、その隣にシュラノが立つ。ナナシャは弓矢に加え、弓兵用の左側が厚い鎧も借りているが、彼は何も借りず、おまけに素手のままだ。
「それじゃ作戦通りに、お願いしますね」
そうシュラノに言うと、無言で頷きだけが返ってくる。まったく愛想のない男だとは思うが、バストアクの政変で共に闘い、その力量は十分に知っているので心配はしていない。
本当に、このシュラノといい、リョウバやカゲヤといい、底の知れない強者揃いだ。これだけの戦士を抱えているローザスト王国へ修行に行くのもいいなと思うこともある。
……だが。
そっと視線を上げる。
そこには、神がいる。
天空のさらに彼方にいるのを想像しているのではなく、視界の内に、厳然と。
普通に生きていればまずお目にかかることのない神の降臨に、この短期間で2度も立ち会うという奇跡。
その奇跡を起こした人物が、背後で「がんばれー」と自分に声援を送っているというこの状況。
「ま、しばらくはお近くで、がんばりますかねー」
呟きつつ、相手を見据える。
というか、見上げる。
カゾッドという名の巨漢。
母親は出産時に死ぬ思いだっただろうなとか、父親は食費を稼ぐの大変だったろうなとか、ついつい余計な背景を想像してしまう。大荒野で数多の戦士を見てきたナナシャにとっても、ここまで巨大なのは人族でも魔族でも見たことがなかった。
武器は戦斧。鎧は全身を覆っており、兜も目元しか覗かせていない。その目は静かに冷えている。油断は見えない。
スピィに聞いたところ、闘技場で許可される装備は指定の木材や布を用いたものに限られるそうだ。男の纏っているものは、一応、それに沿っているらしい。
大きさ、重さ、厚さが規格外ということを除けば。
同素材の装備でアレを破るには、同じぐらいの質量を持っている必要がある。
あの男の体格が唯一無二である以上、それはほぼ不可能という話だ。
加えて、カゾッドの足取りは鈍重に見えない。少なくとも体格を持て余すという、あの手の戦士によくある弱点は突きづらいだろう。
ナナシャは視線を横にずらす。
後衛は、ソフィナトという名だったか、これまた長身の女だ。軽鎧に短杖、おそらくは術士だろう。
――身長・体重・筋力・装備では大きく劣っている。
――技術面は未知数。
――後衛、術士の力量は、おそらくこちらが上。というかシュラノ以上の術士だったら正直勝ちの目は薄い。
あとは、踏んだ場数と、相性か。
ナナシャは短弓を手に、開始位置へ立つ。
アナウンスが響く。
「これは――やはりナナシャ戦士、弓兵のまま前衛に立つようです。シュラノ戦士は術士として後衛を――実質、後衛同士ということになります!」
会場にどよめきが起きる。
まあ実際、これは下策だとナナシャ自身も思う。これだけのデカブツを相手にするなら、3名以上の前衛で押さえつけるか、隠れ潜んだ状態で狙い撃つか、遠間から射殺すか、いずれにせよ十歩程度の間合いで正面から戦うべき相手ではない。
だが、戦場では往々にして、これに似た状況に陥ることもある。
そして、
『相手はたぶん、レベル50ぐらいあると思う――あ、いや、勘だけどね! ほら私、測定器を開発したラーナルトの出身だからさ!』
先ほど言われたことを思い出し、内心でそっと苦笑する。
もはや突っ込む気の起きないほど異常だらけなあのお姫様に比べれば、カゾッドの巨大さも常識の範疇だ。
「それでは第1試合――始め!」
合図とともに、向かい合う巨漢が前傾姿勢を取る。体格に物を言わせて突進しながら戦斧を振る、単純にして強力な戦法だろう。
ナナシャも応じる。
カゾッドの右足が地を離れたときには、矢筒から1本目を抜き取り、
その足が宙に浮いている間に、矢をつがえ、肘までの引きで放ち、
1歩目が地を踏む寸前には、一の矢が命中し、既に二の矢をつがえるところだった。
――大多数の観客の目に映ったのは、
試合開始とともにカゾッドが踏み込もうとし、ガガンッ、と耳に響く音がし、帝国史上随一の巨漢が仰向けに倒れたという結果だった。
「――いっ、今のは、速射、でしょうか……?」
アナウンスの目にも捉えきれなかったらしい。
矢で吹き飛ばすってのは新鮮だなあ。
とナナシャは思う。
試合用の矢は、鏃の代わりに重く硬い木の球が取り付けられていた。
同じく試合用の弓は粘りのある木材を貼り合わせた複合弓で、弓力は限界まで強めた。
それを、ナナシャの筋力で引き、法力で威力と速度を上乗せする。結果としてそれは、例えるならば体重400キロの武道家が放つ打撃というところだった。
片足状態でその2連撃を食らったカゾッドが地に伏すのもやむ無しと言ったところか。
「けどまあ、終わらんよねえ」
言いつつナナシャは3本目を引き抜く。
カゾッドの鎧は、亀裂が入っているものの全壊は免れていた。
咄嗟に身体を捻り、鎧の丸みで矢の威力を減らしたらしい。
追撃を放とうとする寸前、今度は相手から光弾が撃たれた。
後衛のソフィナトか。
けれどその弾は、ナナシャの背後から撃たれた炎弾で相殺される。
それを確認したときには、カゾッドは立ち上がっていた。
――やっぱりアルテナさんとのようにはいきませんねえ、私。
シュラノを信頼しきっていれば、ソフィナトの攻撃を無視して矢を放てていただろうが。即席のコンビではこんなところか。
立ち上がったカゾッドは、戦斧を盾のように構え、どっしりと腰を落とした。その陰にソフィナトが入り込む。
――それなら耐えられるってか?
ナナシャは構うことなく、再度矢を連射する。
再び、重なってひとつに聞こえそうな衝撃音。
「へえ……」
カゾッドは、今度は倒れなかった。兜と鎧に新たな亀裂を作りつつも、すり足で一歩、ナナシャへと近づいている。
さらに連射。
が、今度の衝撃音は先ほどより軽かった。
「鎧の硬化、それと恐らく肉体の耐久力強化」
背後から、シュラノがぼそりと言う。なるほど、ソフィナトの補助術か。
矢筒にはあと4本。
間合いは、9歩。
1歩下がる。
それに合わせ、相手も大きく1歩。
その瞬間に1発放つも、肩口で受けられた。
『弓兵は、視線を合わせた相手と戦う道具じゃねえ』
かつての上官が言っていた言葉を思い出す。
まったくその通りだ。
どれだけ速く撃とうと、弓の予備動作自体はなくせない。存在を認識された状態で急所に当てられるのは格下か間抜け相手のときだけだ。
それを承知で、ナナシャは残りの3本を放つ。
ついには留め口が壊れ左腕の装甲が剥離していきながらも、カゾッドはそれを受けきり、5歩までの間合いに入った。その体格に合わせた戦斧が届く距離だ。
「さあ、矢の尽きたナナシャ戦士、しかし後ろには大量の予備があります。果たして!?」
アナウンスの声に、会場の視線は壁際の木箱と隣に立つシュラノへと向く。
しかし、シュラノが木箱から矢を取り出すような動きはない。
ナナシャはカゾッドに向けて不敵な笑みを浮かべ、不意にこちらから接近すべく身を傾け――それをフェイントとして、背後へ振り向きざま駆け出した。
「ああっ!?」
アナウンスの驚きは、何に対するものだったか。
駆けるナナシャは、背後からの気配に横へと飛んだ。
轟音とともにそこを突き抜けたのは、カゾッドの戦斧。
足では追いつかないと判断した男は即座に得物を投擲したのだ。
避けたナナシャが目指していたのは、予備の矢が詰まった木箱。
第一の標的を失った戦斧は、第二の標的へと、狙い違わず命中した。
爆発したような破壊音と共に、木箱が砕け散り、中の矢もほとんどすべてがへし折れた。
武器を手放し、左腕も先ほどの攻防で動かなくなったカゾッドは、しかし右の拳に確信を宿して笑う。
「これはっ、もはや決定打でしょうか!」
アナウンスも半ばカゾッドの勝利を疑わなかった。
そしてナナシャは――短弓を放り捨てた。
1試合目はジルアダム側の勝ちかと観客が沸き、降参とみなした審判も試合終了を宣言しようとしたとき、
「じゃ、シュラノさん」
まるで平然としたナナシャの声に合わせて、闘技場に風が舞った。