断章:選手入場
コルイ共和国の軍人であるガイナンは、どことなくそわそわとしながら、眼下に広がる闘技場を眺めていた。
今いるのは4階の1等席。個室となっている特等席の次に豪華なもので、普通席に密集している観客を見ると申し訳なくなるほどゆったりと座れている。なるほど、これが貴族の水準なのかと感心するばかりだ。
「試合が待ちきれないですか? ガイナン殿」
隣に座る男――ジルアダム帝国の軍人にして高位貴族の次男であるタイレムが、明るい表情でそう尋ねる。
身分からすれば平民出であるガイナンのことなど呼び捨てにして当然なのだが、大荒野で回復薬を譲ったことを随分と感謝しているようで、態度も歓待ぶりも逆に恐れ多いと思ってしまうほど丁寧だった。
ガイナンは慣れぬ作り笑いを浮かべながら、
「ええ、そうですな、それにこの席も身に余る豪華さで――」
などと答えながら、実際に座り心地の良い椅子の手すりを撫でてみせる。
(……恨むぞ、イオリ)
先日、偶然に再会したあの傭兵から思わぬ爆弾発言を投げつけられ、今日も密かに心労を蓄えているガイナンである。
まあ、仮に何も知らぬままこの席にいた場合、確かにこの瞬間は平和な気持ちで試合を待ち望めたのだろうが、いざあの奇妙かつ強烈な娘が会場に出てきたら、まず間違いなく驚愕の声を上げることになったことだろう。
最近、とみに王族や貴族の間で噂になっているという人物に対して。
この、貴族や富裕層がひしめく1等観戦席の真っ只中で。
そうなれば、情報や当人との仲立ちなどを求めて囲まれるのは目に見えている。他国の軍人がこの階級の方々相手に問題を起こせるわけもなく、かといって本国の許可なく有益な情報を漏らせるわけもなく、苦境に立たされるのは目に見えている。
――ということを考えれば、当のイオリから事前に聞かされたのは幸運だったと考えるべきなのだが。
――いかんせん、あの小生意気な娘が「ね? 私のおかげでしょ?」などと言いつつ得意げな笑顔を見せる様がありありと脳裏に浮かび、どうも腹立ちが先に来てしまう。
……しかしながらそうした心境の一方で、タイレムに答えたように今日の試合観戦を楽しみにしているのも、また事実ではあるのだが。
「本日は、皆様ご期待の特別試合でございます!」
そして、闘技場に朗々とアナウンスが流れる。
「試合に臨まれるのは、バストアク王国より来訪された精強にして勇敢なる方々! もちろん各試合にご希望の報奨が設定され、それぞれに我らがジルアダムの精鋭がお相手致します! 凡庸な対戦組みなど一切ないことをお約束致しますが、各戦士のご紹介に先立ち、重要事項を1点ご案内させて頂きます」
焦らすようにアナウンスが一拍置かれる。
「本日は、『とある試合』で振るわれるであろう超力絶技を鑑みて、1階と2階の観客席を封鎖させて頂いております。――これにより席数を大幅に制限させてしまったこと、改めてお詫び申し上げます――。また、会場にはジルアダムの術士を多数配置し、3階席にまで達するような衝撃や破片などの余波を防ぐよう努めておりますが――誠に遺憾ながら、『あの伝説的戦士』を思えば万全とは言い切れません。開催国として恥を晒すようですが、観客席の皆様方におかれましては自衛をお心がけ頂くようお願い申し上げます」
かしこまった説明に対して、会場内に笑いが漏れる。
もちろん、今告げられたことは事前に説明され、それに同意した者達だけが普段より相当高額かつ高倍率なこの試合のチケットを買っている。加えて、実際には『万全』と言い切れるだけの体制を敷いているはずなので、これは一種の盛り上げなのだろう。
――しかし、今の説明を冗談だと笑えない者たちも相当数いるだろうとガイナンは見ていた。
……自分も含めて。
地上に広がる闘技場には、2ヶ所の出入り口がある。そこを塞ぐ頑丈な格子戸が、ガラガラと音を立てて上がっていった。
観客席からそれに合わせるように歓声が増していく。
「それでは順にご紹介させて頂きましょう! まずは第1試合――バストアク王国の出場者は、大荒野の英雄にしてバストアク王国カザン王子親衛隊、かの有名な『血風姉妹』の妹、『狂風射手』ナナシャ戦士! そしてあのレイラ・フリューネ特別自治領の術士、シュラノ戦士でございます!」
バストアク側の入場口から闘技場へと、ふたりの戦士が出てくる。
片方は黒髪を短く揃えた女。短弓を手に、矢筒を背にしている。闘技場で用いられる木製の鎧は、前腕や脛、胸部などを最低限守る軽装だ。
あれが噂に名高い狂風射手かと、ガイナンは唸る。
戦域が被ったことがないので初めて見るが、その武名は折りに触れ届いていた。これは初戦から楽しみだ。
……しかしもう片方の術士は、なんとも特徴のない男である。
名前も聞いたことがないし、立ち姿にも気迫や風格が感じられない。視線も、どこを見ているのか定かではないといった様子だ。
無手で鎧もなし。街なかを散歩しているかのような風情で闘技場に立つその有り様に、もしや肝の太さだけで選ばれたのではと疑念を抱く。
当然ながら、歓声の大半はナナシャに向けられていた。
「おお! 流石に見て取れる歴戦ぶりだな! 会場でのドレス姿も実に良かったが、やはり戦闘用の装いはなんとも様になっている!」
隣のタイレムも、大はしゃぎでナナシャへと熱い視線を送っていた。
「さて、迎え撃つジルアダムの戦士は――いきなり頂点の一角が登場です! 昨年度の闘技場最多勝利者にして、第3軍1大隊隊長、『紅の颶風』カゾッド戦士と、その相方であるソフィナト戦士!」
上限を知らぬように強まっていくばかりの歓声に包まれながら出てくるのは、縮尺が狂ったような大男と、その後ろを静かについて行く女。
「……これはまた、尋常ならざる体格ですな」
思わずため息をつくガイナン。
相方の女戦士が、既に平均的な男の身長を上回るぐらいなのだが、カゾッドという男はその1.5倍ぐらいありそうな上背なのだ。
嬉しそうに顔を向けるタイレム。
「そうだろう? ジルアダムの長い歴史でも稀に見る巨漢だ。あやつにかかれば試合用の武器でも一撃必殺となるし、相手の武器ではろくに有効打とならん。よって試合は短時間で終わるし、怪我も少ない、ゆえに連戦を苦にしない。最多勝利も頷けるというものだ」
ガイナンはじっと男を観察する。
「戦場では、術士や弓兵の良い的になってしまいそうですが」
「ああ、なので強弓でも貫けないほど厚い全身鎧を纏うのだそうだ。常人では身動きできないような代物をな」
「なるほど。魔族からすれば意思を持った巨岩か巨木が襲ってくるようなものですな」
魔族は大半が身体変化の技能を持っているが、巨大化するような者は記憶に少ない。それこそ大型の獣や魔獣のほうが比較対象になるだろう。
闘技場が幾分か小さく見えるような大男のカゾッドが会場中央まで進み、狂風射手と正対した後に、アナウンスが続く。
「続く第2試合、バストアク王国側は――これまた『血風姉妹』の姉、ラーナルト王国王女直属、『血煙纏い』アルテナ殿! そしてレイラ・フリューネ特別自治領警備隊隊長、リョウバ殿です!」
出てきたのは、流麗な女戦士と、逆髪の美丈夫だ。
リョウバという名前はこれまた聞き覚えがないが、先に出てきた男とは違い、動きに力感がある。……そして、内に秘めているようだが、相当に修羅を潜ってきた風情を感じる。できれば間近で眺めたいものだとガイナンは思う。
今度も高名なアルテナへと歓声の大半は向けられているが、リョウバという男はそれを気にしたふうでもない、余裕を感じさせる。
まさか、あの血煙纏いよりも強いとは思えないが、少なくとも肩を並べて笑われない程度の力量は有しているのだろう。
しかし気になるのは、
「随分とその、女性客から声が上がっておりますな」
そう、アルテナが出てきた瞬間、特にこの1等席に座る淑女令嬢たちから凄まじい嬌声が巻き起こったのだ。
タイレムは苦笑しながら口を開く。
「実は、彼女が懇親会に来た当日から、貴族お抱えの絵師たちが工房に閉じこもっているのですよ」
「……それは?」
「アルテナ殿の肖像を描くためですな。……ナナシャ殿や、ヴィトワース大公もなかなかの人気ですが、アルテナ殿は頭1つ抜けています。ことに、貴族の女性たちから」
「なる、ほど……、そうなのですか」
無骨なガイナンとしては、ただ頷くしかできない。
「ええ。強く、美しく、凛々しく、名高く、そして部屋に肖像を飾ったり枕元の本に綴じたとしても、夫や恋人から無駄な嫉妬や疑念を持たれない女性の戦士です。加えて、これまで前線やラーナルトにいたため風聞ばかりで、まず見ることのできなかった相手とくる。絵師たちは、それはもう凄まじい勢いで、肖像を描けと命じられているのでしょう」
「それはまた……、なんとも……」
そうした女性の熱量に口を挟むべきではないことだけは、ガイナンにも理解できた。
「さあ、対するジルアダムの出場者は――なんと伝説が帰ってきました! 15年前に闘技場を引退し、現在は軍の第1教導隊長である『千魔斬滅』トウガ戦士! そしてその孫にして最年少1級戦士、『不抜の守り手』フユ戦士、本日限りの編成で登場です!」
今度の歓声には、驚きが多分に含まれていた。
姿を見せたのは、見事な総白髪の老戦士と、小柄な黒髪の少女。
「なんと……、本当に伝説ではないですか」
ジルアダム帝国のトウガといえば、剣の扱いにおいては大陸一とも謳われた達人だ。全盛期にはあの魔族最強『紅銀女帝』と渡り合ったとも聞く。
「ええ、まったく、皇帝も大盤振る舞いですねえ」
目を輝かせているタイレムは、要するに英雄狂いである。高名な戦士に目がなく、武勇伝を集めたり闘技場でその業を見るだけでは我慢できず、自ら軍に入って実際に戦場での活躍を見届けるのが何よりの幸福、と言って憚らない変わり者だ。
その彼にとって、今日の試合はまさしく夢見るような組み合わせなのであろう。血風姉妹にしろトウガにしろ、そしてこの後出てくるはずの『彼女』にしろ、今はもう大荒野を去った者たちだ。その戦いぶりを目にできるのは今日が最後になるかもしれない。
「教導隊ということは、指南役ですか……。流石にお歳を召されたようですが、今のお力は如何ほどでしょう?」
「訓練でお会いした時には、すっかり体力が落ちたと仰っていましたよ。もっとも、その日の模擬戦では3合までで大抵の兵士がやられていましたが。もちろん私も含めて」
体力を減らす前に蹴散らされたということか。
さて、あの血煙纏いならばどうなるか。
「さあ、続く第3試合です! こちらは急遽参加が決まりました、バストアク王国預かりの客分とのことです」
「おや、これは初耳ですね」
興味深そうにタイレムが呟く。
「客分ですか……、今日に備えて、バストアクが勧誘したということですか?」
「いえ、別に勝敗数で何かが決まるわけでもなし、どういう事情でしょうか……」
ふたりそろって首を傾げているうちに、当人がその姿を現す。
溢れる気概を隠そうともしない、獰猛な表情。
衣服越しからも見て取れる鍛え抜かれた体躯。
沈んだ茶色の髪の下、強く輝く瞳が先んじて闘技場に並ぶ戦士たちを睨めつける。まるで、そこにいる戦士たち全員を相手取るかのように。
「これまた話題の戦士です! つい先日まではローザスト王国の客分、レベル1にして各国の強者を下してきたという噂が広まり、その正体を確かめたいというお客様も多いことでしょう。 『零討百勝』スタン戦士!」
おおっ、と会場のあちこちから驚きの声が上がる。
もちろん、隣の席からも。
「あれがそうか! 戦場に出ない達人、スタンザフォード! はっは、まったく、今日は最高ですね!」
生憎とガイナンはスタンという名を聞いたことがなかったが、紹介された内容とタイレムの言葉から推察はできる。
つまりは、魔族を殺したことがない戦士なのだろう。
なのに、おそらくは、強い。
確かに、今日は楽しめそうだとガイナンは口元を緩ませ、
……次の試合に出てくるアレのことを思い出し、思わず胃を擦った。