断章:秘密のおしゃべり
◇◇◇
「よろしいのですか?」
イオリの寝支度を手伝い、彼女が自分の馬車へと去ってから、ターニャがそう尋ねた。
「――えっ?」
声をかけられたフリューネは、愕然とした様子でターニャを見つめる。
「……このまま、流れに乗られていることは」
主の様子に構わず、言葉を続けるターニャ。
しばらくの時を置いてから、ようやくフリューネは復活した。
「いつ以来かしら。あなたからそんなふうに話しかけられるなんて」
ターニャがフリューネの側仕え筆頭になってから、随分になる。
ターニャには彼女なりの信条があるようで、それはフリューネの見る限り、例えば『平時は主の視界に入らず、黙々と仕事をこなす』ことであったり、『主が自分に用向きのときは、声を発される前にその時点の仕事から手を離しておく』ことだったり、なにより『主のお世話に必要な事以外、無駄口を叩かない」ということだったりする。
そんなわけでフリューネは、少なくとも2年は確実に、「おはようございます」「こちらへ」「御髪を」「本日のご予定は~」「おやすみなさいませ」などの最低限必要な言葉以外を、ターニャの口から聞いたことがなかった。
この旅に連れて行くと告げたときも、何も問われず「かしこまりました」でお終いだった。
その彼女が主の、フリューネの意向について自ら質問してくるなど、完全に不意打ちだった。
それほど、危険な状況ということかもしれない。
なにしろこの先は、他国の中枢に直接介入するのだから。
「……」
ターニャはそれ以上は何も言わず、じっとフリューネを見ている。
フリューネは、彼女が手入れしてくれた髪を一筋、指先で弄ぶ。そして、
「ええ、構わないわ」
はっきりとそう答えた。
「……当初の想定とは、だいぶずれているというか、色々と諦めさせられているけれどね……」
続いて口に出たのは、だいぶ弱気混じりの言葉だったが。
「それでも、良き方向に成長なされておられることだけは確かですよ」
そうした意見もまた、普段のターニャからは絶対に発せられないものだった。
ぽかんとした後、フリューネの口から吐息のように言葉が流れる。
「今日は、ほんとうに驚かされるわね……」
――そして、不意にその瞳が輝いた。
「そういえば、先ほどの食事ではカゲヤ様と一緒だったでしょう。何か話したの? 何か言われたの? あなたの心境が変わるような」
楽しそうに尋ねるフリューネ。
けれど、残念ながらその後に彼女の口から流れたのは『おやすみなさいませ』の一言だけだった。
◇◇◇
馬車の外で、酒宴は続いている。
少し離れたところから焚き火を眺め、肴もなしに酒杯を傾けているのは2人の女。
倒木に腰掛け、足元に酒瓶を転がしているその様は、当人たちの流麗な騎士然とした姿と一見似合わないようで、妙に馴染んでいるようでもあった。
視界の先、焚き火で干魚を炙っているリョウバが、隣のカザン王子に何やら話しかけ、赤面させている。周囲の男たちとエクスナは、それを見て大声で笑う。
そんな賑やかな集団を眺めながら、
「お前も仕える相手を見つけたんだな」
度数の高い酒精を、こともなげに喉の奥へ放り込むアルテナ。その口調は、イオリどころかフリューネさえ聞いたことのないものだった。
「そうですねー、アルテナさんの方も初めて見ましたが、ああいう感じなんですねー」
もうひとり、同じ酒を噛むように味わってから飲み下しているのはナナシャ――イオリが言う『弓使いのお姉さん』である。
切れ長の目が印象的で、しなやかな身体はネコ科の獣を思わせる。深々と黒い髪はショートで、両耳に銀の飾りが下がり、矢を1本、片手で弄んでいる。
「治療がてら里帰りしたと思ったら、『理想の主を見つけた』なんて手紙だけ送られて、ほんとどうしてやろうかと思いましたよ」
「……悪かったな」
「腹いせにアルテナさんが何度かやり合ってた奴ら、『轟猿』とか『地舐め』とか、仕留めちゃいましたよ」
「殺ったのか!? あいつら」
それは、かつての大荒野で戦場を大いに荒らしていた魔族の通り名だった。
アルテナにとっては幾度か死闘を演じた、言ってみれば好敵手だった。
「はい、おかげで一皮むけたってもんですよ。――あれ、あのアルテナさんたちが持ってきた装置、『レベルが上った』って奴ですか? どうせなら上がり幅知りたかったですねー」
アルテナは、しげしげとナナシャの全身を見る。
「だいぶ強くなったとは思ったが……、そうかー、死んだかー、あいつら」
言葉の後半はぼやくように、天を仰ぐ。
「そりゃもう、アルテナさんに振られてからも1年ぐらいあそこにいましたからねえ。今じゃ逆転してると思いますよ?」
「……そうだな、お前のほうが強い」
アルテナは少し嬉しそうに言った。
「なんですか大人になっちゃって……」
ナナシャは不貞腐れた顔で手酌をする。
「ところで、何が決め手だったんだ?」
周囲の酔っぱらいたちにからかわれているカザン王子を眺めながら、アルテナは訊いた。
「えー、それはまあ、あの未成熟な硬さに尽きるっていうかー」途端ににやにやし始めるナナシャ。瞳も輝きを増している。「なんていうんでしょう、こう、きったない泥沼の真ん中で、それを必死に掻き出そうとしている水晶のシャベルみたいな? 泥に染まらず、ひたすら硬くて真っ直ぐで、でも泥の重さに耐えきれずに折れちゃうかもしれなくて、けどもしかしたら柔軟さとか靭やかさとか粘り強さとか、そういうのを足しながら鍛造されてく可能性もありますし? いやもう、その変わっていく真っ最中をすぐ側で見てられるなら主に据えるのも全然構わないというか大歓迎な感じで――」
めっちゃ喋る。
「そ、そうか……」
アルテナさん、引いている。
「で? で? そっちはどうなんです?」
ナナシャが逆に尋ねると、
「そうだな、やはりあの可憐さと健気さ、聡明かつ謙虚な振る舞いながら時折見せる大胆さ、清濁呑まんとする意志、それでいて失わない純粋さ、それらの総体として輝かんばかりの御姿、その傍らにありたいと願うのは人として当然のことだろう。お前のように例えるならば、強風吹き荒ぶ大地に芽吹いた蕾といったところか。四方八方から絶えず向きを変える嵐に散るまいと懸命に根を張りながらも、外から見えるのはいずれ咲き誇る花弁を想わせる愛らしさのみ。私はそれが無事に成るまで、この両掌でそっと包んでいたいだけだ。ああ、願わくば強い嵐であればあるほど良い。私が代わりに傷ついた分だけ、その花はこの目に絶景を映してくれることだろう」
引いた波が寄せ返すように、これまためっちゃ喋るアルテナ。
その言葉も口調と同じく、イオリやフリューネが聞いたことがないというか、むしろ聞いちゃいけないものであった。
「……ちょっと、変態っぽいんですけどアルテナさん」
「何を言う。お前の方こそだろう」
残念ながら、この場には彼女たち2人しかおらず、放たれるべき突っ込みはどこからもやって来なかった。
◇◇◇
――同時刻、酒宴の場からまだ遠いバストアク王城で。
一匹の虫が、城壁を越え、城の一角にある小さな窓から内へと入り込んだ。
そして、
「ビィ、ビィ、ビィ、ビィ――」
と、都合10回、鳴き声を上げてから息絶えた。
それを聞き取ったのは、ひとりの青年。
虫の音は、彼の自信作たちが全滅したことを知らせていた。
「……どんな、化け物だ」
薄暗い室内で、青年は驚愕と畏怖を込めた呟きを漏らし、それから足早に部屋から駆け出ていった。