起き抜けの遭遇
魔王城の最奥、玉座の間の背後にある扉から、隠された転送魔法陣を経てたどり着く魔王の私室は、選ばれた数名しか立ち入りを許されていない。
室内は最高級どころか、値のつけようもない極上の品々で飾られていた。
たとえば壁際に飾られているのは、五百年に一度、しかも一輪だけ咲く花を永久凍結魔法で保存した逸品であり、その魔法を行使する際には最高峰の魔術師三名が息絶えるまで魔力を絞り尽くしたという。
その花が活けられた壺は、とある秘境の断崖から滴る雫でしか変形しない金属を二百年かけて加工したものであり、その彩色には世界で最も長生きした龍の爪――武器に加工すれば魔王自身の命にすら届くだろうそれを、砕いて顔料に使われている。
もちろん、調度だけでなく居住性や安全性も比類なきものである。この部屋は外部からのあらゆる影響を遮断する結界で固く守られていた。
仮に人類が全軍を率いて外からここを攻撃しても、部屋の中はホコリひとつ立つこともないだろう。
その部屋で、私は、
「――だからジャンプはBボタンですって。それX」
「なぜだ、上へ飛ぶのだから上のボタンではないのか」
「さては十字キーと混乱してますね。いいですか、左が方向、右が行動です。――いちいち手元を見ないでください。ほら死んじゃったじゃないですか」
魔王相手に、ゲームの講習をしていた。
私は魔王の家族でもないし、魔族ですらない。
ただの女子大生である。
三年になり、単位も揃ってきて、そろそろ就活という難関が近づいている今日この頃である。
授業が少なくなった分、バイトのシフトを少し増やした。このご時世にチェーン展開もしていない街のゲームショップで。
私はゲームが趣味だ。
というか生き甲斐といってもいい。
さすがに学校へ行かないような廃人レベルではないにしても、土日は最低限の睡眠と家事食事以外ずっとコントローラーを握っていても疑問に思わない域には達している。
兄から譲られた分も含めて、主要メーカーのここ4世代ぐらいのハードは常に配線され、いつでも電源がつくようになっている。天井までの高さをほこる本棚も、その半分以上はお気に入りのソフトが占めている。残りはクローゼットの中だ。
友達がいないわけではないが、広い世界に羽ばたいているとは決して言えない。
間違っても違う世界の魔王なんかに知り合うはずもなかった。
なのに。
――――1週間前
朝起きたら、私は天井付近に漂っていた。
視線を下げると、ベッドで寝ている私自身が見える。
……こうして見ると、間抜けな寝顔してるな、私。
夢――だとは思うけれど、私は夢を見ながら「ははーん、これは夢だな」などと気づくことが今までなかった。どんなに突拍子もない内容でも、それが夢だと思うことなく浸り続け、朝起きてからしばらく夢のストーリー展開に呆然とすることもよくあった。
もしかして、夢じゃなくて幽体離脱とかいうやつ?
オカルト系は苦手だけど否定的ではないので、そういうこともあるかと思っていると、目の前――つまり天井付近の空間が、ゆらゆらとし始めた。
そしてうっすらと、薄紫の靄みたいなものが滲み出てくる。
それは私の目前で、だんだんと濃くなっていき、やがてひとかたまりの巨大な綿飴みたいな質感を持つようになった。
うん、やっぱり夢だね。
薄紫の綿飴は、ふいにその一部をにゅうっと伸ばし、私の額に触れた。
私はといえば、空中に浮かんでいるもためにうまく動くことができない。もちろん避けるのも不可能だった。
うひぃ、ぞわぞわする。
無防備に額を突っつかれたまま、何秒か経過すると、綿飴の触覚的なそれはするすると引っ込んでいった。
そして、綿飴全体が、形を変えていく。
人型に。
「……うそ」
あ、声は出せるんだ、と言ってから気づく。
その人型は、やがてきっちりと細部を型取り、色彩を変え、質感も変わり、見事に外見を整えていった。
茶色の短髪、高い身長と長い脚、縁取りを白くアクセントした、黒ベースのライダースーツみたいな服。高い鼻筋と意思の強そうな瞳。
それは、私が今絶賛ハマり中の、某大作RPGで「ガラの悪い主人公」と評されるキャラクターであった。
ちなみに1はクリア済みで、現在2をプレイ中。眼の前の姿も2を踏襲していた。
「たぶん、伊織ちゃんのツボだから」
そう教えてくれたバイト先の先輩に従って2世代前のソフトを買い求め、みごとにのめり込んだ。
ひゃっほう。
そりゃ脳内も一気にスーパーハイテンションになりますって。
まず2Dじゃなくしっかり立体な時点でクリティカルヒット。しかもゲームのモデリングそのままじゃなくて絶妙に生きた人間ぽくアレンジされてて弱点特効。目線の揺れや微妙に揺れ動く手足や首筋の血管とかもう、もう!
さすがゲーム自体をプレイして数時間で「これは半年ほど持っていかれるな……」と私の脳天を貫いた、【魅了:大・長期】スキル持ちのキャラである。
さて、そんな彼の口が動く。もう今となっては夢だろうが幽体離脱だろうがなんでもいい。というか夢じゃないほうがずっと良し。さあ何を話すんだあなたは。
「こんにちは……、でいいのですよね? その、私は他の世界で神様と呼ばれている存在なのですが――」
「ふざけるなあぁ!」
うん、叫びもしますよ。
ゲームどおりのあの声で、スピーカー越しじゃない肉声で、なのに思い切り女性の仕草かつおっとり口調で話されたら激怒ぐらいするじゃあないですか。
「ええと……、あら? 私なにか間違えていますか?」
可愛らしく小首を傾げるんじゃねえ!
「口調口調口調。違うそれ。女の喋り方」
地を這うような音程が私の喉から漏れていく。
「ああ、そういうことですか。この世界ではそこまで苦しめてしまうほど違和感のある事象なのですね」
そうじゃないけど、改善してくれるならそれに越したことはないので突っ込まない。
そして目の前の野性的なイケメンは、話し方を――変えることなく、また薄紫の靄に戻ってしまった。
そして再び形を成したのは、同じゲームの、ヒロインである。
「これでいいでしょうか?」
……そうだけどっ、そうじゃないんだ……っ。
絶望にまみれた私は、もう何も言えなかった。
無言を肯定と捉えたようで、目の前の美女は話を続けようとし、ふと自身の姿を見下ろしていた。
そう、美女である。
赤毛の強そうな印象の美女。
そして、薄手でぴったりして色々短い、相当際どい衣装に身を包んだ美女。
「……そう、あなたはこういうのが趣味なのですね。ええ、構いませんよ。同性愛は思考が発達した証明でもあるので――」
「違う!」
話はなかなか進まなかった。