僅かな
時間には間に合わない、そう冷静に思った。
逃げてるだけなのだから、当然か。
練兵長から開会の報告を受けてから、どのぐらい経ったんだ?
だというのに、体は動こうとしない。
【実に、無様かつ身勝手。そうなったか。ホホ。おれは嬉しい】
ずっと昔から、ここに留まっているような。
「あ……」
今の自分は、あの死体みたいだ。心の方は、そうなんだろう。
木に背を預け、両足を前に伸ばした体勢。肌の寒さは、時々吹く冷風のせいか。
「……あ」
視界にある、自分の両足。つま先が、土で汚れて。片方の革靴が、なくなっている。どのタイミングで、迷子になっちまったんだ。
どうでも、いいや。
「そうだ。靴なんて」
今の僕には、必要ない。人間ですらない珍獣野郎には、似合わない。負け犬に、そんなもの不要だ。
「あ、あ」
何の為、ここまで来たんだったか。それを考えながら、目の前の泉をぼうっと眺める。
ゆらりゆらりと、揺れる水面に浮かぶ満月。きれいだな。とても。めちゃくちゃに、こわしたくなるほどに……物騒だ。なにを、考えて。
「ああ」
ゆらりとしているのは、僕もだから。自身を見ている気分にでも、なったのか。
あんなに綺麗なもんじゃないが。夢見ちゃって朽ち果てた、ただの落ちぶれ野郎。
「……最初から、そうだろ」
落ちぶれたんじゃない。ちがう、それはよ。
僕は生まれた時からそうであって、今までもそうだったんだ。
努力して、頑張って、変わった気になっていた、アホすぎる勘違い人生。周りから見れば、些細な違いでしかないのにな。
それでも僕は、信じていたけれど。
僕から見ても、何も変わってないと思ってしまったんだ。
「は……」
どれだけ、積んできただろう。来る日も来る日も、目的に向かって走り続け、決意は固まっていった筈。
必ず、優勝すると。僕なら、出来ると。
「……思い上がりだ」
自信があって結構。自分なら出来ると暴走して、周りを期待させ、友を巻き込み死地へと突進。
行ける、やれるぞ、僕ならきっと。
結果はどうだ。現実はどうなった。
「こうなった」
阿呆か?何で、折れてるんだよ。
なにもしなくても、常に負荷は掛かっている。度重なる、精神負荷のせいだ。ジン太の奴が、ミスしなければなぁ。たまたまだ、たまたま。
言い訳重ねても、僕が無能なことには変わりなく。
自信は、保てず。諦観し、逃走。みじめな姿を晒し、ここで朽ちるのを待つと言わんばかりじゃねぇか。
「立ち上がれよ……ロイン」
ここで終わって良いはずがない。やってきた努力が、無駄になってしまう。お前の苦しみが、無価値になっちまう。
立ち上がってくれ。
「お……おっ……」
体に力を入れ、右腕を使い、立ち上がろうとする。
鉛のように、ずっしりと重い。修行によって受けた傷が、痛む。久しぶりに、まともに動いた気がする。
それらの理由は、関係なく。
「お、あ」
ただ心が、立ち上がるのを拒否した。
もう、充分だろうと言って。
「あ」
すとんと、元いた底辺に落ちる。土の感触が、戻ってきた。安心もある。
「……は……ハ」
なにかの糸が、切れたような。
もう、良いんじゃないか?
「そうだな」
か細い呟きは了承の合図。僕は、認めた。
「……くだらねぇー」
やめだ、やめ。全て放り出して、かまわねぇ。悩む必要なんて、ない。
「どうでもいい。ことだ」
諦めて、ここで終わりにしよう。なにもかも、なにもかも。
【スカイラウンドっ!優勝っ!見ててくれよっ!メイっ!】
輝いていた、あの日の情熱も。誓いも、願いも。ごみのように、放り投げてしまえば良いじゃないか。
どうせ、糞のような人生だ。そんなもん、下らないんだよ。
【ちくしょう……!なんで……!こんなっ……!】
変に夢見ちゃった馬鹿が、一匹死ぬだけ。どうやったら優れた者に勝てるかを、必死に考えて。落ちこぼれが、自信満々に玉砕。それだけの結果じゃねぇか。問題なんてない。
ないんだよ。もう、なにも。
「……ぼくは」
信じる僕は、もうどこにもいない。
ここが、ただの――の死に場所だ。
――奴は、キミを待っているぞ。
「あっ……?」
声が頭の中で反響し、ほどけていた意識が再び固まっていく。
止めろよ。なんで、幕を閉じさせてくれないんだ。また、お前かジン太。僕に、もっと苦しめっていうのかよ。冗談じゃねぇ。
「キミを探していたし、まだ戻ってくると信じてるようだ。ホホホ」
「あ、あ、あ……」
それでも鳴り止まない、僕を進ませようとする声。それは、僕を殺そうとする毒だ。だってよ、ここで立ち上がるということは、あの苦痛をもっと味わうということだぞ。あの狂える世界に堕ちていくのを、決断するのかよロイン。
今度は本当に、心を砕かれるかもしれない。廃人になって、最悪の結末を迎えるかもだ。精神負荷によって、脳はぐちゃぐちゃになって、五体を引き裂かれるような苦痛を味わい、糞な人生に相応しい糞な結末を。
正気じゃない。考え直すんだ。まだ、こっちの方がましだろう。
「おれは嬉しい。が、リンダは悲しい。あれで中々、脆い部分があるからね。熱血ぶっているのも、そのせいだろう」
「あああ、あァ……」
僕にそんなことを聞かせて、何が目的だ?てめぇ。それでどうしろって言うんだよ、僕によ。
彼女の悲しむ顔だって?
想像してみた。吐き気がした。自分を殴りたくなった。
だけど。
これ以上は、無理だって。限界なんだよ。
「失礼。キミには身勝手で、迷惑なものだったか。……現実逃避しながら、後悔して堕ちていけ。戻れない場所まで、さようなら」
「……」
周りの音が、聞こえない。静かすぎる、場所に来てしまった。
「先生……」
自然に、漏れた。
リンダ先生は生徒の為に、いつでも一生懸命。悩みを、親身になって聞いてくれる。嬉しい時は、素直に柔らかく微笑むんだ。本当は、ここに行くのは反対だったのかも。苦いものが好きで、可愛い動物に目がない。熱血一直線で、悩みなどなさそうに見えるが……僕が戻らなかったら、悲しむよな。自惚れか?
「……ジン太」
続けて、出た。
ロマンとか、青春とか、やたらと求めたがる男。嬉しい時は変にクールぶって、時々ちょっと気持ち悪い笑顔になる。自分の鍛錬の為だとは言っていたが、なんだかんだで心配してくれているのだろう。ジン太の野郎は、この瞬間も鍛錬を行っているだろうな。いつだって己を高めることを忘れず、突き進む。熱血努力馬鹿。
全てを認められるわけじゃないが、その姿に救われたことだってあった。
「……」
頬を冷たく伝う涙は、止め処なく。
ただ静寂の中で、僕は大切な人達のことを考える。
「……また」
会いたいよな。二人に。
信頼に、応えたいよな。
「……まだ」
終われないだろ、それなら。
「……」
体の震えも止まらない。恐怖で、頭がどうにかなりそうだ。幻聴が、聞こえている。
【また、あそこへ?】
このスカイフィールドが見せる、連続する悲惨な光景。あり得る、いくつかの可能性。勝手に、想像してしまう自らの負の思考。悲鳴・絶叫・失意。後悔しながら、止めておけば良かったと嘆いて死んでいく自分。同様に砕かれる、友の姿。人生最悪の気分を味わいながら、結末を迎える。
【アそこで、引き返しておけば。良かったのにナ】
だから言ったんだ、もう良いだろって。痛い、辛い、苦しい、助けてくれ、こんなのののっ。
無茶だ、止めろ、後悔するぞ、よく考えろ――巡る思いは消えずに。
「ハ……は……」
それでも体だけは、既に立ち上がっていた。
暗闇の中で、僅かに灯った光を頼りに。