夢幻
君がいない明日の片手間に書いてました。
大きな大きな罪を犯してしまいました。
私は人を殺してしまいました。いえ、正確には死に追い込んだと申しましょうか。
ですが、殺したことには相違ありません。そうです、私が殺しました。
じわじわと体を這いずってくる蛇のように、罪悪感は私の身に絡みついてきます。
ああ、何と気持ちの悪い。
しかし、払い除けることはできないのです。
払っても払ってもそれは無限に湧いて来て、私の感覚を支配するのです。
ついに罪の重さに耐えきられなくなった私は、ここにすべてを書き記して、逝きたいと思います。
どなたでもよろしい、干からびている私の傍らに置いているこの遺書をどうか愛する人の墓前へと、持って行ってはいただけないでしょうか。
確証が持てない頼みごとをするのは、私の性分に反しますが、何卒よろしくお願い申し上げます。
*****
さて、事の経緯をどこからお話すればよろしいのでしょうか。
私の罪の人生を語るうえで必要な、男を一人紹介しなければなりますまい。
彼の名前は諏訪部。以前は名前で呼び合うほど仲が良かったのですが、こういう身分の故ですから名字で書かせていただきます。
彼とは同じ村の出身でした。
村一番の悪餓鬼の諏訪部と村一番の秀才の私。
こう顧みると、子どもの頃の悪行など現在の生き方には関わってこないものなのです。
村のガキ大将ですら、今はお役所勤め。秀才だった私の今は畳二畳の小さな部屋で、雨の音を聞きながら遺書を書いております。
どうしてこうも違ってしまったのでしょうか。
失礼、話が逸れてしまいました。
諏訪部と私は大変仲が良く、一緒に野を駆け、一緒に悪さをし、一緒の釜の飯を食べもしました。後にも先にも親友と呼べるのは彼しかいません。
諏訪部と私は大人に成り、十四を迎えたときでした。
彼は突然問いてきたのです。
――僕たちの絆は永遠なのか。と。
私は迷わず、そうだ、私たちの絆は死ぬでも永遠に続く。そう彼に告げました。
すると彼は安心しきった顔をしたのち、私に穏やかならぬ顔でこう言いました。
――僕は上京しようと思う。出来れば、お前にもついて来てほしい。
さながら愛の告白でも受けているかのようでした。
上京の理由は知っていました。彼の家は裕福ではなかったのです。
父は彼が幼い頃に村の外に女を作り、四人の子どもを残して蒸発。
母は過労に次ぐ過労で倒れてしまいました。
涙ぐましい話でございます。諏訪部は長男として男として、上京をして職を探して良い薬を買って、妹や弟たちに上手い飯を食わせてやるために、この慣れ親しんだ村から出て行こうと決心していたのです。
ですが、齢は十四。雇ってくれるところなど数が知れています。
彼にどうするのかと尋ねると、諏訪部はこう言いました。
――東京の良い学校に行って、良い職に就く。そうすれば叶わないものなんてない。
彼の願いに賛同したわけではありません。
私はもとより、上京して良い学校に行く予定でした。ですから、私たちは周りの者が女だ金だと騒いでいたときも、ぐっとこらえて机にかじりついてまでも必死に勉強し、見事に上京を果たしたのです。
諏訪部には高尚な夢がございました。
それは医者になって、困っている人を一人でも多く救いたいという夢でした。
その時点で、私は諏訪部に劣っていたのかもしれません。頭の良さも、人としても。
だからこそ私は、このような罪を犯してしまったのです。
私は学校に入ると、抑制していた欲が爆発してしまったのです。
ここに来るまでに沢山の苦労をした。少しぐらい自分に褒美を与えてもいいだろうと。ほんの些細な、甘い気持ちでした。
私は堕落していきました。綺麗に滑って、ずるずると。
まずは女の味を覚え、気前の良い先輩に連れられて美味い酒を飲み、美味い物を喰い漁りました。
同じ寮に住んでいた諏訪部には、どう思われてしたのでしょうか。
今となっては、聞くことすら叶いません。
私はまず初めに、人としての大事な倫理観と呼べるものを無くしてしまいました。
東京とは恐ろしい街でございます。私は欲にまみれて溺れてしまったのです。
ですが、諏訪部は違いました。
あくる日もあくる日も、夢に向かって勉強勉強の毎日。そんなことでは息が詰まってしまう。私は友人のつもりで、息抜きに夜の町に誘いました。
夜はなんと言ってもその儚さゆえに、人を惑わす夢や幻を見せてしまうのです。
その夢と幻に踊らされた私は、金を出せば抱けると噂の知り合いの女性のところに行きました。
諏訪部も女を抱けば、この私より難い頭を少しでもほぐすだろうと考えていました。
ですが、彼は一切柔肌の女体には触れず、夜の月を喘ぎ声とともに見上げていたのでした。
実は私はこのとき、彼に嫉妬をしておりました。
地獄の業火の如き、そしてなんと浅ましき黒々とした嫉妬を。
勉強をしている彼を見ると、腹の中で煮え湯が沸きかえるようでした。
夜の町に誘ったのも、そんな彼を少しでもこちら側に引きづり込みたかったのかもしれません。
私が次の日に酒に誘っても、彼は私に目線をくれるわけでもなく、かぶりを振りました。
それに苛立ち、私は彼が勉強をしている隣の部屋で連日連夜のように悪友と酒を交わし、夜が明けるまで女を鳴かせていました。
ああ、なんと愚かでくだらない人間なのでしょうか私は。このような人間が天才の足を引っ張るのです。
諏訪部にする嫌がらせにも飽きて、静々と一人身の夜に散歩に出かけました。
……失礼、先に訂正させていただきます。実は私の人生を語るうえでもう一人、忘れてはならない女性がおりました。
その女性の名は順子。物静かで気品のある素晴らしい女性でした。
六月の淡い月明かりの夜に、私と彼女は出逢いました。
まさに運命でした。体の芯からぼうっと熱くなったのは、あれが最初で最後でした。
黒く、艶やかな髪。整った顔に雪のような白い肌。彼女の美しさは筆舌に尽くしがたいものです。
ええ、私は彼女に恋をしてしまったのです。
何をしても上の空。酒の味さえも分からなくなっていたのでした。
あれくらいの気位のある方に恋をしてしまったのですから、私もそれに見合う男にならなければいけません。
私はそれ以来、酒と女をきっぱりと断ち、夢を立てたのです。
夢は役所に勤めて彼女と結婚すること。
理由こそ、下心の権化だとしてもこれで私は自堕落な生活から脱出できたのです。
それからというもの、彼女とまた出逢う日を待ちわびる日々が始まりました。
その邪念が、身をよじる日もありました。欲が頭の中を回る日もありました。ですが、それらに負けぬように精神を研ぎ澄まして、村一番の秀才と呼ばれていたあの頃に戻ったのでした。
そこから一年、いえあれはもう二年になっていたころでしょうか。
私はついに彼女と会うことができました。
そこで奇しくも同じ学校に通っていたと知りました。学校の廊下で再度あの美しい顔を確認し、反芻しました。
同じ教室で勉強し、外堀も埋めていった頃。ようやく私は順子と付き合うことが叶ったのです。
あれは人生で最良の瞬間でございました。
その喜びに身を震わせて、帰ってきた夜のことでした。
諏訪部の部屋からは、あのせわしなかった鉛筆が削れる音がしなかったのです。
どうしたことだろうと、私は部屋を覗きました。
彼は布団の上であぐらをかいて座っており、私の帰りを待っていたようでした。
私は尋ねました。どうして私の帰りを? と。
すると彼は、少々やつれた顔で私を見つめてきました。
そして一言。
――話したいことがある。こっちに来てくれないか。
低く鼓膜に響く声でぽつりと呟いたのでした。
久々に聞く彼の肉声。何を語ってくれるかと楽しみになって、酒でろくに頭も回っていないままで、彼の部屋に足を踏み入れました。
話したいことってなんだ。と私はあくびをしながら訊きました。
彼は、一呼吸おいて話し始めました。
大変真剣な眼差しをしておりましたので、私も思わず気を引き締めて話しに耳を傾けました。
――これから僕は、有り得ないことをきみに言う。最後まで驚かないで聞いてくれよ。……実は僕はきみのことが好きだ。おそらく、きみが女性を愛するように僕はきみを愛している。気持ち悪いだろう。だが、これが僕の気持ちだ。どうかこの切ない気持ちを受け取ってはくれないだろうか?
彼は私に愛の告白をしてきたのでした。黙っている私をよそに彼の話は続きます。
――僕は、小さな頃からきみが好きだった。だから一緒に遊ぼうとも誘ったし、きみを上京に誘った。一人だと心細かった。愛する人が傍らにいてくれるから、私はここまでやってこられたのだ。もう、きみの無しの人生は考えられない。
そう言って彼は酔った私を自分の布団へと押し倒したのです。
絡まる吐息、交わる視線。
私は意外にも嫌な気持ちなど、これっぽっちもありませんでした。
すんなりとあっさりと、彼を受け入れられました。
私もどうやら諏訪部のことを愛していたようです。
こうして私の二足の草鞋を履き分ける生活が始まったのです。
一度でも履き違えてはいけません。
不倫など気づかれてしまっては、両方の幸せを同時に失ってしまうからです。
彼に一緒にいるところは彼女に見られてもまだ良しとしても、私が順子と手を繋いで、ましてや接吻などしているところを彼に見られてしまっては、どうなるか分かりません。
ああ見えて諏訪部は純粋で一途で、嫉妬深いのです。
私は欲が深く、両方の花の蜜を交互に楽しんでは快感を得て、つまらない日常を抜け出していたのです。
このまま月日が流れて、私は順子の父と会いました。
順子の話によると、このまま結婚を考えているとのことでした。
そして、そのときやっと私がやってきた愚行を知ることとなったのです。
彼女は妊娠していたのでした。幸い、学校を卒業して互いに就職をしていたので問題は無かったのですが、彼女は一人娘として大切に育てられてきました。
そんな娘をわざわざと、役所勤めとは言えどどこの馬の骨とも知らない男に嫁がせるわけはいかなかったのです。
彼女の父が提示した条件はこうでした。
私が順子と一緒になるには、私が婿として籍を入れるのだというものでした。
私の家はすでに母も父も病で亡くしております。自分の名字になぞ、微塵も興味ありませんでした。
ですが、結婚をすることは重大な事です。おいそれと二つ返事をするわけにはいきますまい。
特に私が置かれていた状況を思うと、ますます返事が重くなる一方です。
時間を下さいと彼女の父に申し出ました。
彼女の父は三日間だけ、悩む時間をくださいました。
我が家に帰ると、諏訪部の姿はありませんでした。
彼は医者として、病院で働いているのです。
彼の診療は丁寧でとても良いと評判でしたので、仕事が重なり家にはほとんど帰ってこられないのです。
それに私の仕事もあります。家にいる日の方が少ないのです。
一ヶ月にどれだけ、彼がこの家にいるのか数えていましたところ、なんとたったの五日だけ。
そして私たちが食卓を囲んで飯を食うなど、たったの一度だけでした。
彼女との結婚に迷いなどありませんでした。
三日後。彼女との父と会い、条件を飲み私は順子さんと結婚すると申し上げました。
すると彼女の父はたいそう喜び、祝杯を上げました。
その夜は、朝が来るまで彼女の父と酒を交わして、孫が出来て良かったとか娘とこの家をよろしく頼むと何度も言われました。
結婚は決して良いことばかり起こるものではありませんでした。
妊婦となった彼女の世話。使用人だけでは至らない心の充足も夫として役割を果たさなければなりません。
たしかに面倒だと思う日はありました。そういう日に限って、私は平屋に帰るのです。
すると不思議と諏訪部も帰ってきているのです。
私は妻を抱けない代わりに彼を抱き、朝になる前に仕事があるからと彼の前から朝霧のように消えていくのです。
しかし、彼女の所に戻ると彼女は私が帰ってくるまでベッドの上で起きており、据わった目で私を睨みつけるのでした。
順子は鬼の如く騒ぎ立て、疲れ果てて寝てしまうのです。
私も疲れていますので、彼女の横で静かに眠るのでした。
そろそろ二足の草鞋を履き間違えないようにするのにも、疲れてきた矢先でした。
彼女に一緒に先生と会ってほしいと言われたのです。
それが私の運の尽きだったのかもしれません。
彼女のかかりつけの医者は、なんと……諏訪部だったのです。
病室で会ったときは、互いに絶句しました。
自分がどれほど恐ろしい状況にいるのか、理解するのにそれほど時間がかかるような、馬鹿な男ではありませんでした。
私が沈黙を貫いていると、彼は何事もなく診断を始めました。
平然と装い、仕事をしている彼の姿がかえって恐ろしかったのです。
病院から帰宅すると、私は急いで平屋へと行きました。
彼に彼女のことを説明する必要がありました。
帰ると、諏訪部の姿がありました。
今日はなんでも、私たち夫婦の診断が最後だったようです。
私は今さら弁明するつもりはありませんでした。ですが、何も聞かず彼は私の分まで夕食を作ってくれました。
それからというもの、彼はいつも以上に私に尽くしてくれました。
一ヶ月ほど経過して、私が平屋に帰るとしばらく見ていた彼の姿はありませんでした。
部屋を覗くと、彼は天井からぶら下がっていました。
力なく、呼びかけても揺らしても反応はありませんでした。
私が殺してしまった愛する人とは、諏訪部のことなのです。
どうして、私はこんな恥ずかしい人生をここに書き記しているのか。
数日前から死んだ諏訪部が、私の耳元でこう囁いているのです。
――僕はきみを愛していた。僕たちの絆は永遠だと言ったのもきみだ。裏切ったとしても、死んでもきみを愛しているよ。
気が狂ってしまいそうでした。いえ、すでに狂っているのです。
その狂気が、私をこんな行動に走らせているのです。
寝ても覚めても、夢かはたまた幻か、彼の姿は消えずじっと私を見つめているのです。
慈愛に満ちたその黒い目で。
私は諏訪部に呼ばれているのでしょう。こっちに来いと。
上京に誘ってくれたのは彼でした。だから私を死へと誘うのも彼なのが道理なのでしょう。
妻の順子へ。
きみと我が子を残して死んでしまうのは、唯一の心残りだ。
先に旅立つ私をどうか許してほしい。
彼が手招いて呼んでいるのだ。
私は行くよ、彼がいるあの世へ。どうか悲しまないでほしい。
きみに向けた愛情は本物だ。だが、それと同じくらい彼に向けていた愛情もまた本物なのだ。
わがままな私を許してほしい。
『すまない。こんな愚かな私で本当にすなまい』
祖父江 一
こういう作風も書くのが楽しくて良いね!