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その日は月が妙に明るくて。
ふと外に出てみたくなった。
その夜はなかなか寝付けなかった。
佳乃は自他ともに認める健康体だ。
規則正しく生活し、まじめに、時に眠気と戦いながら勉学に励み、放課後は弱小テニス部の部長として頑張っている。
体を動かしているから、よく食べられるしよく眠れる。本来なら。
布団の中で頻繁に体制を変えながら、やっぱり受験の不安のせいか、と考える。
今や高校はほぼ義務教育も同然だ。
佳乃の希望する学校は、それほど難しいレベルのところではなく、同じ中学の生徒も多く行くような地元の学校だ。自身はまじめにやっているので、担任からも合格圏内だとさらっと言われている。
けれど、人生初めてとも言える試練に、佳乃も意識せずプレッシャーを感じているのかもしれない。それはきっと、クラスメイト達も同じなのだ。だから彼女もあんな風なことを言ったのだろう。
『佳乃は私達とはできが違うから。下の気持ちはわかんないんだよね』
佳乃は昼間の美宇の言葉を思い出す。
直接言われたわけではない。たまたまクラスメイト達と話しているのが聞こえた。
佳乃は美宇と帰ろうと思っていたが、教室を黙って後にした。中の彼女達に、佳乃の存在は気付かれていなかったはずだ。
帰ってから、何度もその場面を頭の中で再生した。本当に美宇の声だったか、せりふは聞いた通りか、意味は、佳乃の感じたままか。
表情はよく見えなかったが、声は美宇のものだった。ソフトボールの声出しで鍛えられた美宇の言葉はよく通る。いつも明るい彼女の声は、あの時一段低かったように思う。
冗談っぽく言っているのなら良かった。けれどいつになくまじめな口調は、美宇の思わずこぼれた本音のように思えた。
できが違うのは美宇の方だ。
彼女はスポーツ推薦で進学がほぼ決まっている、ソフトボール部のエースだ。朝早くから夜遅くまで、土日も休みなしで頑張ってきた。そんな状況でも、成績は学年で半ばくらいの順位を保っている。朝練もない、週末も半日くらいしか部活のない佳乃でさえ、中の上程度だ。
また布団の中で体制を変える。目の先に、時計の液晶部分だけが光る。11時50分。すでに三十分近くうだうだとしている。もう考えるのはやめよう。佳乃は無理矢理、思考を断ち切った。
次に目を覚ますと、辺りは暗闇だった。
目が慣れてくると、なじんだ自分の部屋の天井がわかった。閉じられたカーテンの外は、どうやらまだ日は出ていないらしい。枕元を探って携帯を見ると、2時12分だった。
はぁ、と思わずため息をこぼす。こんな時間に起きたのは初めてだ。普段は早起きしたくても、できたためしがないのに。
もう一度寝たいのだが、何となく眠れる気がしなかった。寝られても、ろくでもない夢を見そうだ。
佳乃は布団から起き上がった。室内は少々寒い。枕元のカーディガンを羽織り、布団から出る。立ち上がって、しばしどうするかぼうっと考えた後、特に思いつかず、窓を開けて二階からの景色を見てみた。
外は、昼間とは打って変わった静けさだった。
近所の家々はどこも明かりがついていない。あるのは弱い街灯の光と、遠くに微かに見える建物のあかり。コンビニだろうか。
目線を上に上げると、月の光が左端に見える。この窓からだと全体が見えないが、ずいぶん明るいように思える。
佳乃は窓枠に手をかけ、顔を外に出した。一瞬冷たい外気を感じたが、すぐに忘れた。
「何これ…すごい明るい」
月が、煌々と輝いていた。
ほぼ満月に近い白い月。雲はなく、周りにはさえぎる電柱や建物がなかった。
太陽とはまた違う、静かな強い光。
その光に、佳乃は吸い寄せられるのを感じた。しばらくの間、じっと月を眺める。
ふと寒気を感じて、佳乃は自分が薄着であることを自覚した。室内に目をやるが、布団に戻る気は起きなかった。
佳乃は月明かりの中、そっと部屋内を移動し、厚手のコートを羽織った。明かりはつけないまま靴下をはき、毛糸の手袋と耳当てのついた帽子を身につける。コートのポケットに携帯をつっこんで、音を立てないよう、静かに部屋のドアを開けた。
同じ階には両親や弟の部屋がある。
今は暗くしんとしている。
目が慣れず、佳乃は壁をつたいながら廊下を移動し、そろそろと階段を下りた。明かりをつけると気付かれそうなので、暗がりを歩く。
一階につくと、ふっと息を吐いた。下の階にくれば上まで明かりは届かない。スイッチを探して、玄関付近の電灯を点けた。靴は、少し迷ってひものないウォーキングシューズにした。玄関の明かりを消し、ドアをゆっくりと開けて外へ出た。
静かな暗闇。
月は二階で見るより少し遠いが、充分に光が届く。思ったよりも空は広く、冷気の中に星がちらほらまたたいていた。
自然と見上げる形になる。
空気は冷たいし、ルームウェアとコートで厚着とは言えない。けれど不思議と寒くはなかった。
こんな真夜中に外に出るのは初めてだな、と佳乃は思う。
佳乃は規則正しい生活で、休みの前日だからといって夜遅くまでテレビを見たり、出かけたりということはない。
家が厳しいわけではなく、特に興味がないのだ。なので真夜中の町がどんな風なのか、知る機会はなかった。
周りの家も明かりは点いていない。道に小さな街灯が等間隔で点いているだけだ。
けれど遠くで微かに車の音がする。この時間にも活動している人がいるのか。お世辞にも都会とは言えないこの町でも。
少し寒さを感じ、我にかえった。そろそろ家の中に入った方がいいという気持ちと、立ち去りがたい気持ちがある。
変わらず白く輝く月。
「…少し、歩こうかな」
ため息のようにつぶやき、佳乃は月を追うように歩き出した。動けば体も暖まるだろう。
足取りは、軽かった。




