1話
もうすぐ陽が落ちて、ようやく一日の仕事が終わる。
六つの鐘の音が鳴り始めた頃、リフィーは服の裾を繕う手を止めて、窓からの夕日を見上げた。
外で走り回っていた子供たちが、互いに別れを告げて家へ帰っていく。
露店を出していた女性たちが次第に店じまいを初めて、天幕を下ろしていた。
白い石畳が夕日に照らされて、橙へと色を変える。
窓から差し込む光が、リフィーの金色の髪や碧眼も染めていく。
外をぼうっと眺めていたら、ドアを開けて中年の女性が部屋に入ってきた。
「リフィーちゃん、そろそろ帰らないと。ライ君が待ってるんじゃないかい?」
「ありがとうございます、マリアさん。もう帰りますね」
すでに止まっていた手を動かして、糸を切り針を仕舞う。
凝り固まった背筋を逸らして伸びをすると、リフィーは思い切って立ち上がった。
「今日の分だよ。いつも悪いね。破れた服の繕いなんてやらせちゃってさ」
「いいんです。マリアさんがわざわざ私に頼んで頂けて、助かっているの。ありがとうございました」
リフィーは小袋に入れた小銭をマリアから受け取りながら、深々と頭を下げた。
またお願いします。そう言って、家路へと急いだ。
「ライー、ただいま! すぐお夕食を作るから、待っててね」
勢いよく家のドアを開ける。
大きくギシリと嫌な音を立てたが、なんとか無事に閉まることができた。
薄暗い家の中を、テーブルの上に乗った頼りなげな蝋燭が細々と照らしている。
「お帰りなさい、リフィー姉さま」
古いテーブルの上に小さな手を置いて、ライが座っていた。
リフィーを待ちくたびれたのだろう。
いつもは元気よく出迎えるライも、今日は声が力無い。
「今日はお野菜をたくさんいただいたから、暖かいポトフを作るわね」
「ほんと!? 僕、姉さまの作るポトフ大好き!」
夕食のメニューを伝えた途端、目を輝かせて立ち上がるライに、リフィーは微笑んだ。
「ふふ、すぐできるから、良い子で待ってるのよ」
「はーい!」
元気よく返事をしたライの頭を撫で、リフィーは台所へと体を向けた。
ベッドで眠るライの傍らに座り、リフィーは窓から見える夜空を見上げた。
粗末なベッドに、薄いぼろきれを何枚も重ねた掛布を首まで掛けて眠るライは、穏やかな寝息を立てている。
床下に隠したお金は、あと数日したらなくなるだろう。
何かあったときのためにと、亡き母から譲り受けたペンダントは、ずっと前に行商に来ていた旅人に売り渡してしまった。
それも家や生活に必要な家具を買うのに使い、残りはライの毎日の食費に消えていく。
自分の両手を見下ろす。
昔とは比べものにならないほど、傷だらけになっている。
昔のリフィーが今のリフィーの姿を見たら、卒倒するのではないだろうか。
夜空を見上げていた視線を下ろして、リフィーは自嘲した。
豪奢な屋敷は、すべてが一つの部屋におさまっている小屋に。
たくさんの綺麗なドレスは、流行を過ぎた使い古しのワンピース。もちろん宝石なんてない。
柔らかなベッドは、固い木に布を布いたただの板。
がむしゃらに働かなければ今日食べるものもない。
そんな生活を送っている未来なんて、どうして予想できただろうか?
母も父もいなくなり、親類は皆リフィーから遠ざかって行った。
遺産は没収され、残っていたのはライと自分の身一つ。
不安げな目でリフィーを見上げるライを、ただ抱きしめることしかできなかった。
「姉さま……」
「……ん?」
ライが薄く目を開けて、リフィーを見る。
目が覚めてしまったのだろうか。
リフィーは優しくライの胸をとんとんと叩いた。
「明日は早く帰ってきてね……」
それだけ言うと、すうすうと寝息を立てて、ライは眠りについた。
胸を叩く手を止め、リフィーはライの寝顔を眺める。
利発な子だ。
将来が約束されていたはずの子。こんなところで寝なければならない子のはずがない。
リフィーは伸ばしていた指を握り込み、強く目を瞑る。
悔しかった。
何がいけなかったのだろう。何があったのだろう。
リフィーの瞼の裏には、城の窓から見下ろす少女の姿が焼き付いていた。
「シナリオが始まっちゃう前に、あんたを潰しておけば……私は死ななくて済むのよ。悪く思わないでね」
声は聞こえなかった。
何か呟いていたのは、口の動きで分かったけれど、リフィーは首を傾げてそのまま城内から立ち去ったのだ。
父に付いて城に行ってから数日後、父は身に覚えのない罪で投獄された。
父は最期まで抵抗していたけれど、数々の汚職が明るみに出てきて、領地の民からも非難された。
豊かな領地だった。
貧しい民などいない理想郷を作り上げることができたと、父が日ごろから自慢していた領地は、すぐに王家に没収された。
その数日後に、父は処刑。
公開で行われたそれは、信頼していた民から罵倒されながら、無数の剣で突き刺される残酷なものだった。
「決して、お父様を恨んではなりませんよ」
リフィーの母は、父が処刑されてからすぐに病に倒れ、残されるリフィーとライを案じる。
ペンダントをリフィーに託すと、母は喋る体力を失った。
何もない部屋で、治療してくれる医師もなく、母はリフィーとライに見守られながら寂しく亡くなったのだった。
それからは、坂道を転がり落ちるかのように、リフィーとライは落ちぶれていった。
誰からも手を差し伸べられることなどなく、逃げるようにして領地から旅立つ。
国境を超えるのにも、平民では多額の金が必要になる。
貴族の位をはく奪された身では、特権も使えない。
馬車を乗り継ぎ、リフィーとライが辿り着いたのは、王都の程近くにあるスラム街だった。
皮肉なことに、貴族が住む街のすぐ近くだ。
ただし、間には見上げるほどに高く分厚い壁が建っている。貴族以外が中に入ることは決してできない、閉ざされた空間。
逆に、スラム街に貴族が入ってくることもできない。
完全に途絶された街だった。
「リフィーちゃん、読み書きができるって聞いたけど、本当かい?」
リフィーがマリアの家の裏で芋の皮むきをしていると、マリアが追加の芋の入った籠を持って勝手口から顔を出した。
山となっている芋の横によっこいしょと籠を下ろすと、リフィーに話しかけてくる。
「得意というわけではありませんが、一通りは」
「いまどきスラムや平民街に住む若い娘にしてみれば、大したもんだよ。ちょっと頼まれてくれないかい? 勿論、給金は出すからさ」
マリアは笑いながらリフィーの背中を軽く叩く。
芋の皮をむいていた手を止め、リフィーはきょとんとマリアの顔を見た。
「読み書きのお仕事でしょうか……?」
「そうさ。代筆をしてほしいんだよ。ちょうど旦那が行商から帰ってきてね。手紙を大量にしたためなくてはいけないんだけどさ、手が足りなくてね」
「そんな大事なお仕事、私には」
マリアの夫は、世界中を飛び回る豪商だ。
平民街にこの大きな屋敷を建て、毎日忙しく働いている。
夫妻は大らかな人柄で、よくスラムに住む子供の働き口を世話してやっていた。
リフィーもその好意に甘えて、こうしてよく雑用を手伝っている。
繕い物や皮むき程度とは言い難い、思いがけない話に、リフィーは困惑した。
「どんな仕事にも一生懸命なリフィーちゃんだから、頼むんだよ。使える手は多い方が良いからね。この仕事が上手くいけば、もっと給金の良い働き口を紹介してやれる。悪い話じゃないと思うよ」
「マリアさん……」
失敗すれば、もうこんな風に信頼を寄せてくれることなどなくなるだろう。
けれど、上手くいけば、もっとライに楽をさせてやれるかもしれない。
リフィーはライの顔を思い浮かべ、頷いていた。
リフィー
金髪碧眼の元お嬢様。料理の腕はほどほどに上がっている。裁縫は淑女の嗜み。
ライ
金髪碧眼の元お坊ちゃま。まだ幼い。普段は家で内職をしている。