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夜の月に笑われて  作者: 宮城まこと
顔剥ぎ兎
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第八話 異変③

 じりじりと焦げるような太陽の下、俺は何の目的も無く立っていた。時間は経つばかりで何の役にも立たない。どうして自分がここにいるのかなんて思い出せない。


「――くん」


 名前を呼ばれた気がした。懐かしさと切なさが混じった感覚を胸にしたまま振り向くと、そこに織神さんがいた。彼女が何故俺の下の名前を知っているのか分かりはしなかったけれど、嬉しくなって俺は彼女の元に駆け寄った。今日は何を作ろうか、今日はどんな話をしようか。そんな楽しいことばかり頭に浮かぶ。


 彼女の誘うために伸ばした手を掴むため俺も手を伸ばすと――。



「いって……」


 見知らぬ天井を見上げていた。


 ここは彼女の事務所のような部屋の天井だ。どうやら俺は寝ぼけて横になっているソファーから転げ落ちてしまったようだ。情けない話だ、こんな歳にもなって変な夢を見て転げ落ちるとは。どうやら自室のベッドで寝ている彼女には気づかれていないらしい。この体たらくを見られてはなんと言われるか分かったものではない。


 床に寝っ転がっているのを早々に止め起き上がろうとする。が、カーテンの隙間から零れる月光に照らされ、自分自身に覆いかぶさっている影に気が付く。


「ああ織神さん、ごめん。寝ぼけてソファーの上から落ちちゃった。もしかして起こしちゃった?」


 何故。という問いが俺の脳裏を過る。おかしい、どうしたって俺がソファーから落ちてから来るのが早すぎる。それに彼女の場合、必ず落ちた俺に対して皮肉を言うはずだ。黙って見下すことはしないはずだ。


 くるりと影の正体を探るため振り返ると、それは織神響子ではなく真夏の夜だというのにレインコートを着た人間だった。


「誰だ、あんた……」


 俺の問いかけにレインコートは答えるはずもなく、その右手に握られていたぎらぎらと光る包丁を振り上げた。フードを深く被っているために顔は確認できず、男か女かも識別できない。俺の視線は包丁の方へと向き、刹那の間に身体を翻して包丁の振り下ろしを躱す。


「!」


 包丁により穴の開いたソファーを見つめて夢ではないと思い知らされる。逃げなければ。徐々に湧き上がる恐怖心と緊張感が本能にそう叫ぶ。硬直した筋肉を無理矢理動かして玄関のドアに向かって這い寄るように向かう。腰が抜けている、このままではいずれ追いつかれてしまう。


「くそ!」


 俺は必死に抵抗した。足を延ばしてレインコートをありったけの力で蹴ると、偶然腹部に直撃したのか体勢が僅かに崩れる。この隙を逃してはいけない。俺はなんとかドアノブにしがみつき捻って外に逃げようとするが、案の定鍵が閉まってある。そうだ、織神さんが閉めたはずなのだ。ならこいつは一体どこから入ってきたのだ。


 頭の中の疑問に答えるのはまだ先だ。鍵を開けて二度目の攻撃を未然に回避するため外に逃げる。無様な格好だが壁を伝ってなんとか立ち上がり、言うことを聞かない足で階段を滑るように降りた。後ろを振り返るとまだ奴も懲りずに俺を追ってきている。


 時刻はすでに深夜と呼べる時間帯。こんな時間に外をうろついている人間など俺とレインコートぐらいなもので、助けを乞おうにも人がいない。こうなったら大声を出すしかない。外に出た途端、息を吸い込んで叫ぶ準備をしたが非情にも奴に追いつかれた。


 肩に手を置かれ、その手を振り払おうと暴れたがその甲斐虚しく俺は首の根を掴まれて地面に倒され、馬乗りの形を取られてしまった。


「ッ……!」


 死ぬ。


 この二文字だけが俺の脳内を支配する。短い人生を振り返り母に先立つ不孝を謝罪し諦めかけた時、重なった身体が急に横に飛んで行く。


「私の目の前で人を殺そうだなんて、どいつもこいつもいい度胸しているじゃない」


 鞘に納められた刀、それを握っている織神響子の姿が目の前にあった。手に持っている刀が堂に入っている彼女の姿に思わず見惚れてしまったが、今はそんな場合ではない。一刻も早く警察を呼ぶために逃げなければ。


「香澄くん、貴方は下がってて。ここは私に任せてちょうだい」


 かけようとした掠れ声よりも先に彼女のいつにも増して強い視線は絶えずレインコートに対して敵意をぶつけている。ふっ飛ばされたレインコートは、包丁をぐっと握り切っ先を俺では無く織神さんを向ける。


 刀を抜かず鞘に納めたまま、彼女は鞘尻で猛進してくるレインコートの顔面を殴りつける。奴の顔が勢いよく横に捻じれるがダメージはまったく感じられないままだ。


「なるほど、実体はあるけど本体ではないってことね」


 彼女は何かに気が付いたのか奴が持っている包丁に目標を移して行動を始める。振り下ろされる包丁を狙い澄ましたかのように刀の鞘で叩き折って、そのまま突き刺さるような鋭い蹴りでレインコートを突き放す。


「そろそろ時間切れでしょ、大人しく本体の元に帰りなさい。そして告げなさい、貴方を必ず捕まえるとね」


 彼女の言葉通り、レインコートは足元からどす黒い霧となって消え始める。辺りから緊張感は消え失せただ融けるような夜が続く。


「立てるかしら?」


 彼女は刀を携えたまま俺に向かって手を差し伸べた。昼間とはまるで逆の立場に俺は情けなくも心の底から彼女と俺の無事に安堵した。

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