第四話 邂逅④
「うわっ!」
俺は思わず手に持っていた包丁を投げ捨てると、カランと乾いた金属音が俺たち以外いない廊下に響いた。なんだ、どうして刃があんな色になっているんだ。絵の具ではない、黒ずんだ赤。人間として生きていく中で一度は見たことがある血液の赤。この包丁にこべりついているのは間違いなく人間の血。
「貴方、唾をつけられたわね……」
初めて織神さんが俺に対して声をかけてくれた。吐き捨てる毒ではなく、どこか悲しそうに悔しそうな声色だった。彼女の言う、唾をつけられたとはどんな意味なのだろうか、俺にはまったく理解できなかった。
「そこの……たしか三部結……さんだったわね。貴方は今すぐ先生を呼んできて」
あれだけ他人と関わるのを嫌っていた彼女が包丁と俺の顔を見た途端、先ほどまで壁を作っていた三部に対して指示を出した。人が変わったように思えるが、これが本来の彼女の姿なのかもしれない。三部は彼女の言葉に黙って頷き、先生か警察のどちらを呼びに走った。
「香澄くん。右手を出して」
去った三部の背中を見送ると突然織神さんが俺に右手を差し出すように言ってくる。俺は彼女の言葉に従い、投げ捨てた包丁から距離を取るようにして右手を差し出す。というよりも、織神さんは俺の名前をしっかりと覚えておいてくれたのか、それに三部のことも。お互いに数分前まで言い争いをしていたとは到底思えないほど彼女に対する印象は変わった。
「やっぱり、間違いないみたいね。貴方、相当運が無いわね。思わず呆れちゃった」
俺の右手を見るや否や彼女はため息交じりでそう言った。
「なんだよ、運が無いって。そりゃあ自覚しているけど。それとこれとどう関係してるんだよ」
「関係大ありよ。この世界、運が無い奴から死んでいくんだから」
俺の質問に彼女は真面目な顔をして答えた。
「……今日から自分の家に帰らず私の家に来なさい。あと、事件が解決するまで私から離れないで」
は? 俺は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして目を開いては閉じてを繰り返していた。彼女は一体何を言っているんだ。どうして自分の家に帰ってはいけないのだ、どうして恋人同士でもない彼女と離れてはいけないのか。どれもこれも俺の理解の範疇を超えているため、彼女に質問するのは至極当然なのだが、彼女は今は出来ないと突っぱねられてしまった。俺が食い下がってもう一度質問しようとすると、保健室から片桐先生を連れてきた三部が現れた。
「先生、これ見て。ほら包丁! 絶対警察に連絡したほうが良いって!」
三部は廊下に転がっている包丁を指差して騒ぐが、片桐先生はそれを嗜める。
「きっと誰かの悪戯よ。もう先生を驚かせないで。血のついた包丁なんてあるわけないじゃない。さ、三人とも帰りなさい。あとは先生がやっておくから」
そう先生が言い終わると、俺の隣にいた織神さんが口を開く。
「片桐先生、私と香澄くんは家の方向が同じなので一緒に帰ります。先生はよろしければ三部さんを家まで送ってあげて頂きませんか? なにかと、最近物騒ですし」
彼女は二人に向かってにこりと微笑んだ。そうだ、先生たちにとって一番の不都合はあの死体を見られ事を更に大きくされることだ。だからこそ先生は彼女に不躾とも受け取れる提案を受け入れるしかなかった。俺は彼女の正体が余計に分からなくなってきた。
他人を遠ざけて生きてきたかと思えば、次に俺たちを言葉によって翻弄する。底が見えないのはたしかで、本当の織神響子すら分からない。
「え、ええ。分かったわ。三部さん、家の近くまで送るわ。この包丁のことも教頭に報告しておくから」
片桐先生が包丁を拾い上げようとすると、その前に織神さんが一緒に捨ててあった新聞紙を使って簡易的に包丁を包む。
「騒ぎになっても大変ですからこうしておきます。ほら、職員室から教頭先生もいらっしゃいました。あとは上手く私と彼から説明しておきます」
織神さんはしおらしく、よろしくお願いしますと頭を下げると何も言えない片桐先生は三部を連れて、正面玄関にむかって歩き出した。二人の姿が見えなくなったときに俺は彼女の行動について質問をした。今度は答えてくれるだろうか。
「なぁ、どうして教頭がきたって嘘ついたんだよ」
「嘘なんてついてないわよ。ほら、見てみなさい。教頭先生が警察を連れてこっちに来ているわ」
織神さんが横目でそう言うと本当に教頭先生がスーツを着た中年の男と一緒にこっちに向かって来ている。教頭の隣にいるのはもしかして警察だろうか。よし、これでこの包丁のことを報告して俺たちも帰ることが出来る。と思っていた。彼女が警察官にあいさつするまでは。
「貴方、警察の人?」
彼女は隣にいる教頭などどうでもいいといった様子で真っ先に警察の人間に話しかけた。すると、スーツの男は目を見開いて驚き、頷いた。
「ああ、そうだが。お嬢ちゃんは? 見たところここの生徒さんみたいだが……」
「織神響子。織神の人間って言えば分かるかしら?」
警察の男は独りでに納得してああそうかと呟く。
「あんたらのやりたい事は分かってる。俺は南方。ついて来い、早速捜査に協力してもらうぞ」
この短い間で俺の理解できない出来事が行き交っている。どういうことだ、どうして彼女は警察の捜査に加えられるのだ。どうして南方さんはただの女子高生である織神さんに協力を仰いでいるのだろうか。その答えは結果としてすぐに分かることになる。




