ガソリンスタンドにて
冬の北風に落ち葉だけがからからと一般道に流される。そして、褐色の葉を追い抜かすのは、マフラーから白い煙をあげるシルバーメタリックの軽自動車だ。青く透き通った寒空に映える銀色の車は、黄色ランプが点灯中の制限速度を十キロメートル超過で潜り抜ける。そして茶枯れた街路樹がラインをなす道の彼方へとエンジン音の響きだけを置き去りにし、緩やかな坂道の先へと消えていく。背後に残ったのは、赤信号と自動車の列だけだった。
そんな景色を横目にしてガソリンの臭気に鼻を詰まらす学生スタッフが一人。平々凡々な高校三年生でスタッフが着用する緑のジャケットとキャップを身に纏っているぼさぼさヘアーのそいつだ。
緑一色尽くめの格好をしているのが、柊 寛太である。この十字交差点の角にあるガソリンスタンドにて、大学生活に向けた資金を貯めるべくバイトをしているところだ。
十字路のガソリンスタンドに、今日もこんな客が来た。
荒い運転のまま、一台の黄色いシャコタンのスポーツカーが来店。
「いらっしゃいませー」
まだバイトを始めてから一カ月ではあるが、手慣れてきた誘導でオーライオラーイと給油機までご案内。……ここまでは流れ作業なのですぐにマスターできた。この先が問題である。接客営業だ。窓を開けた客はこう言った。
「あんちゃん、ハイオク千円分な」
思わず眉間にしわを寄せたくなった。いかにも安っぽいグラサンをかけたエセヤンキー(二十代・無職)らしい安い注文だ。ワンコインよりマシだというべきか。しかし、頭をクールダウンさせ注文を受け付ける。
「ハイオク千円分ですね。今から窓ガラス、灰殻の掃除をさせていただきます」
あいよ、とぶっきらぼうな返事が返ってきた。給油口にノズルを差し込んだ後、雑巾と水切りで窓拭きをしていると車内の様子が見えた。ツーシーターの車内は埃やもう読まないであろう雑誌が散乱しており、育ちや人相が伺える。きっと金もないのに見栄で車を購入した輩だろう。
窓拭きと六リットル弱のガソリン給油が終わる。
「おまたせしました、お代は千円になります。」
客はいかにも安物の痩せた財布から札を取り出し、ほらよ、と言わんばかり右腕を突き出してきた。『仕事とは客が第一』と世間体の人々は提唱しているらしいが、こればっかりは自尊心を無視した理論であろう。そんな学生の反社会思想は胸の内にそっとしまい込み、手際よく千円札を受け取る。
しかし最後の山場が残っている。勧誘をしなくてはならないことだ。これは客からクレームをつけられるのでいちいち憂鬱になる。こちとら勧誘が面倒なのは承知なのだが、バイトである以上は致し方ない。
「ご利用ありがとうございました。ポイントカードはお作りに……」
そう言いかけた僕に予想通りの展開が訪れる。
「あぁなんだ? また愚痴々々五月蠅いんだよガキ。
いちいちガソリン入れるたびによぉ!」
この客だけしかいなかったことが幸いだった。甲高い怒号は静かだったスタンドいっぱいにいき渡る。さらに意味不明な日本語でこう続ける。
「ポイントカードはなんだとか、洗車しますかとかなぁ、めんどくさいんだよ! もうこの店には来ねえぇよ、馬鹿野郎!」
客の声など頭に入らず、『あぁ、またか』と心の声のみが頭の中に反響した。
その後。バイトの先輩であるベテランの荒木さんが来てくれて、怒り狂う客をなんとか落ち着かせ一般道路へと帰すことができた。黄色いスポーツカーは信号待ちでも狂ったように空転させてぶんぶんと吹かした後、迷惑甚だしいテクノミュージックを垂れ流しにして去っていった。車にも優しくできない奴だった。
迷惑ごとが去った後、ガソリンスタンドはスタッフしかいない静かな空間になった。
深いため息をつく。そんな僕を察してか荒木さんが二本の缶コーヒーを持ってきてくれた。めっきり寒くなったので一緒にコーヒーを飲もうということだった。彼はもう還暦を過ぎたというのにここでバイトに励み、親身になって僕にアドバイスをしてくれる優しいおじさんだ。
「いやぁ寛太君は高校生なのにこんなところでバイトとは偉いねえ。ここらへんはあんな客がたまに来たりするから大変なんだよね。はい、これは君の分のコーヒー」
「有難うございます。マナーの悪い客が来るたびにフラストレーションが溜まるばかりですよ」
若いのにご苦労さん、と頬笑みながら労いの言葉をかけくれた。
いただきます、と僕は飲み口を開け、喉に熱いコーヒーを通す。冷え切った体にはちょうどいい熱さだ。人の優しさは味にはならないが、この体の温まる感覚がそれを表しているのだろう。
「本当に荒木さんのような先輩がいなければ、このバイトは続けられる気がしませんよ」
そんな言葉を聞いて、荒木さんは嬉しいような困ったような顔で、
「いやいや、それは大袈裟すぎるんじゃないかい。こんな仕事慣れてしまえば一人で十分さ。むしろこんな老体がいるほうが迷惑だろう」
と謙遜気味に答えた。そんなことないです、と僕は答えるしかなかった。実際こういう貴重な人情味に溢れた人はいくら年をとっても世に必要とされるべきなのは言うまでもない。
ふと、さっきのヤンキーのことを思い出す。アルミ缶から立ち上る湯気を見ながら、現実の残酷さを噛みしめる。世界とはあんな愚暗な人で蔓延っているのだろうかとか、事実は小説よりも奇なりなど本当なのであろうか、と改めて問いたくなってしまうものだ。
柊寛太という人間は実にアヴェレージな人生を送ってきた。昔から何の障害物に出くわすことなく育ち、普通の現代人よろしくここまで成長してきたという経緯がそれを示す。加えて、特別な体験や心を動かす出来ごとにほとんど会ったことがない。自我とはどんな性質なのか、どんな生き方がしたいのかということが漠然としているのも、そんな人生を送ってきたからだろう。
僕が唯一として心を奪われる体験をしたのが映画であった。人生で初めて見た映画は家族で見に行った恐竜が主人公のCGアニメーションだっただろうか。あの静寂なシアターの雰囲気はまさにミスティックで、子供だった僕を夢の世界へ誘うのには十分すぎるほどだった。美しく創り上げられた世界、ダイナミックな音、繰り広げられるストーリー。少年心はすぅとスクリーンに吸い込まれた。
それからというもの、高校生になった今でも映画館にはしょっちゅう行くようになった。アクション映画を見ては手汗を握り、恋愛映画に感涙し、ホラー映画で肝を冷やし、ファンタジー映画の異世界に少年心を奪われたり……。洋画や邦画にとらわれず様々なジャンルにのめり込み、作品の世界を疑似体験した。現実世界の楽しみを忘れさせるほどだった。
そんな感じで一種の映画嗜好家だった僕は、高校で映像研究部に所属した。見るだけでは飽き足らなくなったのだ。少ない部員ながらも作品作りに取り込み、自主映画も作製した。しかし結果的に今まで自分の見てきた映画の質に及ぶわけもないレベルにしか到達できなかった。証拠に映像コンテストで賞を獲ることはなかった
思い通りにならないのが悔しかった。僕はさらに映像の研究に熱意を注いだ。将来にも映像を扱う仕事に就こうという決意もした。大学も映像学科に進学することを志し、あまり好きではなかった勉強にも熱心に取り組んだ。
そうしたこともあり、今年の秋に映像学科の大学へ推薦合格した。このことが僕の人生で今のところ一番努力した成果であり、これからの新たな胸躍るキャンパスライフも楽しみだ。
だが早くに進路の決まった僕は他の受験生の勉強に差し障りのないようにしなければならない。そこで自分も何かチャレンジするがてら、大学生活に向けての資金を貯めるのも兼ねてアルバイトをすることにしたのだ。
バイト先を探していると丁度学校への登校ルートにある十字路の角にあるガソリンスタンドに目処が立った。理由としては、映像研究部でちょっとした爆発物を取り扱うために爆発物取扱免許を取っていたので、バイト採用に活用できることが一つ。もうひとつは単純に家に近かったである。
そして、バイトの面接に合格してひと月経ったのが、今である。この一カ月で体験したことは今日のような出来事が大半で社会の汚らしい面ばかりが目に付いた。我儘な大人、態度の大きいおばさん、今日のような客……。創造物の耽美的な世界とは裏腹なリアリズムと醜悪な世界をまじまじと見せつけられた。決してこんな現実が社会の全てではないのは百も承知だ。事実、荒木さんのような人格者も僕の身の回りにいる。だがやはり映画を数多に見てきた僕にとっては、心無い人が人を傷つける世界が当たり前なのが許せなかった。日曜日を削ってこの仕事をしているのに、なんだか無意味だ。
そうだ。こんな世界、映画より無味だ。最近はこんなことも思い始めるようになってしまった。
僕も映画や映像の世界にどっぷりとつかっていたので青春を謳歌するような恋愛や友情といったものにあまり触れてこなかった。きっと、そんな情に触れた後に見る世の中はもっと残酷だっただろう。
そんな憂鬱を抱えた日曜の昼間。コーヒー缶はもうアルミの冷たさだけを残してスタッフルームのゴミ箱に捨ててある。時刻は昼休憩の十分前。欠伸をする荒木さんも暇そうだ。なんせ珍しく客の少ない日曜日なのだから仕方ない。
「やけに客が来ませんね」
道路を見渡しても別に交通網がまばらなわけではないようだ。
「あぁ、そういえば近くに新しいガソリンスタンドが建ったってチラシがきていたような。あっちのほうがリッター三円くらい安かったけな。こっちの仕事は減って暇が増えちゃうねぇ」
と荒木さん。どうやら近くにライバル店らしきものができたらしい。しかしそっちのほうが仕事が減って楽だ、と考える捻くれ者の自分がいた。
昼休憩五分前。荒木さんがコンビニまで昼食を買ってくるらしく早めに休憩へ。自分はおかか入りおにぎりを持参してきている。朝早起きして、寝ぼけながら作ったものだ。後五分の辛抱で昼食にありつける。
昼食休憩二分前。ここで早めにスタッフルームに戻ろうとしたときだった。
一台のパッションレッドをしたファミリーカーがウインカーを出してこちらのガソリンスタンドに入ってきた。あぁ、なんて無情なタイミングなんだ。後二分遅く来ればよかったのに。
ヤンキーといい、間の悪いこの車といい、運のない日はとことんついていない。なにしろ、この車のドライバーは明らかに外国人だ。いかにもラテン系で肥満体形、おまけにまたグラサンときた。家族連れらしく、助手席には金髪でこちらは色白の奥さんらしき人が搭乗している。後部座席にも子供が一人。三人家族か。しかし、職場放棄をするわけにもいかないので、とっとと自分の仕事を片づけることにした。……英語かスペイン語くらい話せたら楽なのだが。生憎、洋画で身につけた語学力は皆無だ。
いらっしゃいませー、といつもより少し掠れた声の調子で挨拶。少しビクビクしながらの接客だ。ウィーンと窓を開け無表情のままラテンおじさんは、レギュラーフルを注文。フルで頼むとは遠出でもするのだろうか。よかったことに、どうやら日本語は話せるらしい。声色は優しい感じを受けた。だが近くで顔を見るとマフィア映画に出てきそうな格好と顔つきだ。なんせ冬になろうかというのに、黄色と赤を基調としたアロハシャツに大きめのグラサン、腕にはゴールド色の腕時計だ。休日のシチリアマフィアと言ったらこんな格好だろう。おまけに奥さんの腕に蠍の入れ墨が彫ってあるのが見えた。なおさらどんな家族か不明である。
へまこいたら裏組織によってこの世から抹消されてしまうのではないかと勝手に思い込み、馬鹿みたいに作業が丁寧になる。変な汗をかいてきた。おかかおにぎりのこともあんな考えた暗い世の中の事も忘れて窓拭きに力を注いだ。
しかし、後部座席の窓に水切りを拭きかけようとしたときだった。ゴンっとなにか物が衝突する音。窓ガラスを伝ってその衝撃が伝わる。緊張状態で驚かされ、体に稲妻が走るようにビクつく。拳銃でも撃たれたかと思うぐらいだ。だが胸から血は流れていない。どうやら車内で何かがぶつかったらしい。
窓ガラスに目をやる。小麦色の肌をしたモブカットの少女がおでこを赤くしてこちらを見ていた。赤いセーター、緑と白のボーダー柄のニット帽の少女であった。
まさか頬ではなく、額を赤くした女の子に見つめられる日が来るとは予想できなかった。少女のダークブラウンの瞳は、一心不乱に僕の黒い瞳を見ていた。意味不明な状況下ではあるが、お互いに可笑しさからか頬が緩ゆるんだ。
このとき、初めて映画をみたときの気持ちのような、はたまた家のヒーターで暖まるときのような気持ちを感じた。さっきまでマフィアだのなんだの考えていたがそんなことを忘れてしまっていた。むしろ、なにか忘却していた感情がふっと返ってきたような気分だった。
気付くと少女は叱られていた。
「すみません、娘が急に窓にぶつかって。大丈夫でしたか?」
母親が窓を開けて申し訳なさそうに謝ってきた。見た目とは違って良識溢れる人のようだった
「ちょっと驚いただけで大丈夫でしたよ。お嬢さんにお怪我はないですか」
「このくらい、屁の河童だもん!」
少女は助手席のヘッドレストの横から顔を出した。
「こら、ちゃんとお兄さんに謝りなさい。もう小学生でしょ、なに窓に向かって体当たりしてるのよ」
そんな怒る事ことないでしょ、と言いたげに少女は頬を膨らましている。
「はは、そんな謝ることないですよ」
「ほらお兄さんも謝んなくていいって言ってるし!」
呆れながらも彼女の母親は少女に微笑を向けていた。
「そういえば娘さんは何て名前なんですか?」
「あぁ、この子はね……」
それからはこの家族以外に客がいなかったこともあり、勢いそのままで雑談に花を咲かしてしまった。
雑談の中で、彼らがどんな人物であるのかが分かって行った。
少女の名は茜といった。顔立ちは整っており、母親と父親のいいところを受け継いだ子の典型的パターンであった。丁度秋の茜空の日に生まれたからそう名付けられたそうだ。同年代の子と比べ背が高く、将来の夢を聞いたら『モデルさんになる!』と元気よく答えてくれた。
茜の父はジョニージョというメキシコ出身の人だった。通称ジョニー。クールなメキシカンダンディなおじさんらしい。あまり僕たちの雑談に参加してこなかったのを見ると、自分の話をされるのが好きじゃなかったからだろう。しかし、昔はスリムで地元のサッカークラブで活躍していたということが話ででてきたときには、自慢げに話してくれた。根はとてもいい人だ。マフィアとは一切関係なく、自動車会社勤務です。
茜の母は和子さんと言った。見た目は外国人と間違われるほど長身の色白で、アメリカ人である祖父の遺伝が強く現れていた。高校までは結構荒れた性格だったらしい。しかし独り身で育ててくれた母のために熱心に勉強し、留学してアメリカの有名大学に合格するまでになった。皮肉にも和子さんが大学に入学した年に再婚した母親と父親が旅行中に不慮の事故で亡くなってしまう。そのショックで一時期大学に通えなくなってしまうが、当時恋人だったジョニージョさんがなんとか元気づけようと、メキシコにある実家へ和子さんを招待した。これが和子さんの人生で一番の転機となった。メキシコの自然や家族の暖かさに感銘を受け、自分も後ろめたく悲観して生きていくのではなく、前を向いて生きる人生を決意。その後、二人は結婚し、和子さんは専業主婦へ。今は日本で働くことになったジョニージョさんと、一人娘である茜と、三人で暮らしているらしい。
今日は日曜日のドライブをしていて、このガソリンスタンドに立ち寄ったとのこと。普段はあまり通らない道だそうだ。
もちろん、彼らの話だけでなく僕の話もした。映画の話や高校の話、バイトの話。苦労話には共感して聞いてくれたり、面白い映画の話をしたときには楽しそうに聞いてくれた。今日初めて会ったとは思えないほど、僕はこの家族に交じって話をした。いつのまにかこの家族の虜になっていた。
時間が過ぎるのは早い。昼休憩が終わりそうな時間。僕らはサービスルームにいた。長話になりそうだったので、ここに移動して話していたのだ。
「あら、もうこんな時間になっていたのね。そろそろ行こうかしら。今日はごめんね、話が長くなっちゃたわね。貴重なお昼休みを潰しちゃって」
「いえいえ。こちらこそ、面白い話を聞かせてもらえて楽しかったです」
別れ際。茜ちゃんがあるものをくれた。
「これあげる。コスモスの栞とコスモス畑の写真」
メキシコで撮ってきた写真と押し花で作ったしおりだった。ありがとう、とお礼を言うとにっこりと笑いを返してくれた。
彼らを乗せた赤いファミリーカーは落ち葉が散漫する道路へと消えて行ってしまった。もう会えないと思うと物悲しさが残った。
荒木さんがお昼休みから帰ってきた。
「いやぁ、コンビニ行こうと思ったけど、途中にあったラーメン屋に寄ってきちゃったよ。……あれ、寛太君さっきより元気そうだけど何かあった?」
「ちょっとお客さんが来ましてね。人生捨てたもんじゃないって実感するような話をいっぱいしたんです。こんな写真や栞までくれたんですよ」
「それはいいお客さんが来たね。どれ写真を見せてくれないかい?」
僕はピンクの花で埋め尽くされた写真を手渡した。
「おぉ、綺麗な花だね。場所は外国かねぇ」
荒木さんは目を細めて写真を眺めた。
人生は映画の筋書きのようにうまくいかないし、華麗とは言えないかもしれない。でも時にはいろんな人に出会い、その人と世界を共有すると新しい世界が見えてくるものだ。だから、恐れずに人との出会いや広い世界を見れば、本当のハッピーエンドに辿りつくはずだ。