とあるハンターの逡巡
本編五月中旬当たりの出来事。
間章の話を移動してます。
内容は全く同じです。
ざくざくと下生えの草を踏みしめ、進んでいく。
先日振った雨の影響か、足元はぬかるみ歩きづらいが無視して歩みを進める。
最近人が入ったと言うが、もともと人が来ない土地なのだろう。
所々に出っ張った木の枝が進路を阻む。
それを払いながら慎重に進んでいくと、鬱蒼と茂った木々が突然開けた。
「……ここか?」
平戸琢磨はその日、一人で森の中にある洋館の前に来ていた。
その姿は普段の制服姿ではない。
普段の真面目ぶった委員長然とした雰囲気はなく、その顔にはメガネもない。もともと伊達なので問題はなかった。
濃いグレーのジーンズにベージュのトレッキングシューズ。薄手の長袖のシャツにダウンベストという出で立ちだ。
頭に被った鳥打帽も相まっておそらく学園での琢磨しか知らない人間にはよく見ないと彼とはわからないだろう。
事前に森に入ると聞いていた故の姿なのだが、覚悟していたほど森の奥に入らず、正直拍子抜けした。
雨が降ったあとの湿気も相まって初夏も近い気温から吹き出た汗を拭いつつ、洋館を観察する。
まだ、森の木陰から外には出ない。
一見洋館は立派だが、ところどころ屋根や壁に老朽化のためか穴があいているのが見えた。
おそらく長い間人の手も入らず、放置されていたのだろう。
装飾も見事な洋館だというのに勿体無いことだと、状況を忘れてのんきにそんなことを考える。
琢磨がなぜこの場所にいるのかといえばハンターとしての仕事だ。
実は先日ハンターの一人がハンターの規約違反でギルドから処分された。
その男は最近頭角を現したという新人ハンターだった。
新人といっても琢磨より年上だ。親がハンターだったため、中学生でハンターになった琢磨の方が異例で、通常は高校を卒業してからその職に就く。
その男はあろうことか、功を焦るあまり普通の人間を吸血鬼として仕立てた挙句、それを狩り手柄にしようとしたらしい。なお悪いことにその相手がギルドの出資者の近親者だったようで、それがギルドの怒りに触れた。
彼の業績は過去にも不信な点は多いようで、前に狩ったという吸血鬼に関しても本当に吸血鬼だったか疑わしいとのことだった。
ギルドが調査する中で、どうやら彼には仲間がいたらしいことがわかった。
仲間は男と女の二人連れらしい。
名前は『バレット』と『ブルーローズ』。
明らかに偽名だが、これ以外のことをハンターだった男は知らないらしい。
ただ彼らの言われるまま、吸血鬼を狩っていたのだと、供述したと聞いていた。
あまりに短慮な話に琢磨ですら呆れた。
服の内ポケットから電子端末を取り出すと、そこに記録された画像を呼び出した。
そこには件のハンターの仲間と思しき男女の絵姿が記録されていた。
ハンターの供述から描き起こされた二人の似顔絵だった。
だが、男は目出し帽、女は仮面をつけたままという素顔のわからないものだ。
ハンターは彼らの素顔を知らないらしく、そこまで引き出すので限界だったらしい。
自白剤まで使われたが、結局本当に知らないことだけが判明しただけだった。
自白剤のあたりには少し眉をひそめたものの、世間的に極秘事項となっているハンターズギルドのことを考えればやむを得ない。
結局件のハンターは資格の剥奪となった。
表向きの原因は部外者にギルドのことを漏らしたことになっているが、ギルド以外の情報網から事の裏側はほぼすべてのハンターに知れ渡っていた。
ハンターの規約違反は重い。
記憶を剥奪の上で、持ち物全て焼き捨てられ新たな戸籍を与えられた上で放逐される。
そのあとは生きようが、野垂れ死のうがギルドは関知しない。
場合によっては重すぎるともとれる刑だが、彼には間違って吸血鬼を狩った可能性が示唆される。
狩るという言葉を使うと実感はわかないが、それが人間であった場合間違いなく殺人だ。
表立って警察に突き出すわけにもいかないため、自然に刑が重くなる。
ギルドによって殺される刑もあるため、まだこれは軽いほうだ。
それほどハンターの仕事は重いものだ。
吸血鬼は一見してわかるほど醜い容姿をしている。
普段なら見間違えるはずもない。
どうやらこの新人はこの二人に誑かされ、吸血鬼に見えない相手を狩ろうとしていたという報告を受けている。
そして事件の発覚後ハンターのみが捕らえられ、二人の犯人は姿を消したとのことだった。
琢磨が来ていたのはそのハンターの愚行が明るみに出た事件の現場だった。
犯人は現場に帰るではないが、もしかしたら同じ場所に犯人グループが姿を見せるかもしれない。
そんな淡い期待と新人にしては目端の聞く琢磨が現場で何か手がかりを見つけてくれることを期待しての現場派遣だった。
本来であれば、そんな空振りに終わる可能性の高い案件を受けたくはなかったが、ここ最近ハンターとしての仕事をしていない琢磨はギルドからの依頼を断りにくかった。
琢磨はそっと周辺を探った。見える範囲に人の気配はない。
だが視認できない位置にいる可能性もあるため、念入りに周囲の気配を探る。
ふと、洋館の二階部分の窓に目を止めた。
長い間風雨に晒された窓ガラスはお世辞にも綺麗とは言い難く、白く汚れていた。
クリアとは言えないそのガラスに動く影を見つける。
まさか、と琢磨は思った。
正直この仕事で琢磨は何らかの報告をギルドに提出できるとは思っていなかった。ギルドもさほど期待しての案件ではないのだろう。
だがどう見ても確かに動く影がある。あれが犯人かはわからないが、何かしら事件の関係者である可能性はある。
どちらにしても確かめる必要はあった。
琢磨は人影を追って木陰から飛び出した。
洋館に近づけば、もともとホテルだったと言う建物には広い玄関があった。
脚を踏み入れれば、長年の風雨で朽ち果てかけ廊下がぶよぶよとした感触を足裏に伝えてくる。
今にも抜けそうな様子に慎重になりながら、極力急いで二階に上がる。
人影を見たあたりの部屋の扉の前に来た。
流石に犯人かもしれない相手がいる可能性のある部屋に飛び込むような真似はまずい。取っ手に手をかける直前に思いとどまる。
老朽化によるものか扉と壁のあいだに僅かな隙間が生じており、そこから中の様子を覗くことができた。
そっと扉越しに中の様子を伺う。
中の人物は窓の外でも見ているのか、こちらに背を向ける形で立っていた。
その後ろ姿に違和感を覚える。
(……あれは。裏戸学園の、制服?)
後ろから見た人物は見慣れた裏戸学園の女子生徒の制服を着ていた。
長い黒髪の長身の女の後ろ姿に不意に最近関わることになった女子生徒のことを思い出す。
後ろ姿だけだがなんとなく似ている気がする。
だが、どうして彼女がこんなところにいるのか。
数週間前、琢磨の名を語って、ギルドのサイトにアクセスしていた女だ。
まさか今回の事件に何らか関係があるとでも言うのか?
思いがけず知り合いに似た姿に考え込んだ琢磨は、背後に迫る人影に気付かない。
がっ!
突然後頭部に走った衝撃に琢磨は一瞬で意識を闇に奪われた。
****
闇夜にきらめく白銀の光ははっきりと琢磨の目に焼き付いた。
月光を受けてきらめくその光は、例えようもなく美しい螺旋を描き、宙を舞う。
振るわれるたび、闇を切り裂く白銀の輝きが忘れられない。
――――それは古い記憶。
琢磨はその頃、基礎訓練を終え、ようやく父親のサポートとして実際の吸血鬼狩りに参加していた。
参加していたとはいえ、メインで狩りを行うのは父親の仕事だったため、彼は狩りの最中に関係のない 人間が場所に踏み込まないように現場の周囲を見張ったり、吸血鬼の情報を集めたりとおおよそ直接吸血鬼に対することはなかった。
しかし、その日琢磨は父親に内緒でこっそりと吸血鬼狩りの現場に足を踏み入れた。
父親の仕事を手伝っているというのに、一度も父親が吸血鬼を屠るところを見たことがなかった。それが琢磨には不満だった。
そこでこっそりとその現場を見学しようと思ったのだ。
その日の狩りには従兄弟の大翔も一緒だった。一緒に行けば足手纏いでしかない彼を置き去りにして琢磨は吸血鬼が追い込まれてくるであろう場所の木陰に隠れていた。
一人、物音を立てないようあたりを伺う。
琢磨の父親は慎重に作戦をねるタイプのハンターだった。
綿密に計画された獲物を追い込む作戦で、まるで操られるように獲物がその場におびき出されるため、仲間内からは傀儡師と異名を取るほどだ。
父親から予め作戦を聞いていたため、おそらく父親が戦闘を想定した場所で待っていれば、吸血鬼を滅する現場に居合わせることができると考えたのだ。
しばらくすると、ガサガサと葉擦れの音がしたと思うと、知らない男の姿が現れた。
フラフラと進むその姿は二足歩行しているが、おおよそ生きている人間には見えなかった。落ち窪んだ眼孔、血色が悪すぎ土気色の肌、表情は抜け落ち、鋭い犬歯の見える口は半開きでまるでどこかのゲームに出てくるゾンビのようだとぞっとした。
琢磨とてハンターの息子だ。吸血鬼の姿は知らないとは言わないが、現実に目の当たりにしたのは初めてだった。
予想より醜悪な姿に本能的な恐怖を感じる。
だが、物音を立てるような真似はしない。
息を殺して見つからないよう、その動向を見守る。
おそらく追い込まれているのだろう。
その身は傷つき血が滲み、足取りもフラフラと重そうだ。
落ち着き無くぎろぎろと光る赤い瞳をさまよわせ当たりを伺いながら、草をかき分けている。
おそらくハンターから逃げている途中なのだろう。
しかし、その進行方向は作戦を知る琢磨からすれば、おびき寄せられているようにしか見えなかった。
さすがは父親の仕事だと胸を高鳴らせその光景に見入っていた時だった。
「……琢磨。見つけた!」
突然、聞こえた声に琢磨は心臓が飛び出そうなくらい驚いた。
慌てて振り返ったそこに美少女のような従兄弟の姿があった。
この頃の大翔は本当に少女のようにしか見えない容姿をしていた。
街を歩けば、スカウトに声をかけられ、一人で歩けば変質者に付け狙われる。
少しだけ伸びた髪がなお彼の美少女振りをさらに上げており、もはや男に告白されるのは日常茶飯事で、それが女子の反感を買い、クラスでも孤立無援となっていた。
それ故にか大翔は何かと琢磨の後を追って来たがる。
おそらく、いつものように琢磨を追いかけ、探し回っていたのだろう。半べそをかきながら、泥だらけのその姿に目を見開く。
「大翔…、お前」
なんで来たんだ?と続ける前に琢磨はぎくりとした。
背後に強烈な視線を感じた。その視線に冷や汗が流れる。
おそらく大翔の声でここに人が潜んでいることを感づかれた。
しかし、状況がわかっていない大翔はこちらに駆け寄ってきた。
「もう!探したんだよ。こんなところで何やってんだよ。持ち場を離れちゃダメでしょ?拓人さんに怒られ……」
「大翔!」
琢磨は体当たりし大翔を突き飛ばした。
次の瞬間、二人がいた場所に何かが通り過ぎた。
転がりながら、見えたのはいつの間に距離を詰めたのか。腕を振り下ろした吸血鬼の姿だ。
その姿をよく確認する前に琢磨は立ち上がった。
「大翔、走るぞ!」
「ちょ、琢磨?なにを…?ひいっ!き、吸血鬼?!」
その時になって初めて状況を理解したらしい従兄弟の悲鳴に構わずその手を引っ張り走り出す。
しかし、一人で走るのと違い、運動神経の鈍い大翔を引っ張りながらでは速度も出ない。
あっという間に追いつかれる。
吸血鬼が手を振り上げたのを見た瞬間、琢磨は持っていた荷物を思いっきり顔面に投げつけた。
思わぬ攻撃だったのか、一瞬だけ動きを止めた吸血鬼だったが、投げつけた荷物をあっさり叩き落とされた。
だが、その間に琢磨は護身用に持たされていたナイフを抜いた。
その白銀の光に気づいたのか吸血鬼は一瞬動きを止める。
しかし、それを構える琢磨の姿に気付いたその視線は一瞬にして残忍な色が浮かぶ。
対する琢磨は奥歯を噛み締めた。
圧倒的に不利な状況だった。
琢磨は基礎修行が終わったとはいえまだハンター候補でしかなく、しかも大翔というお荷物がいる。
どう考えても逃げきれる状況でなはい。
その手にあるナイフもただのお飾りで、ただのナイフでしかないこれで吸血鬼を滅するどころか、傷をつけることさえ難しいものだ。
「た、琢磨ぁ…」
ガタガタと震える大翔を背後に庇いながら、ジリジリと後退する。
おそらくこちらが反撃できる状況にないのを分かっているのだろう。
吸血鬼は余裕のある足取りでこちらに近づいてくる。
その瞳は弱い獲物をいたぶる残虐性に溢れている。
絶望的な状況に流石の琢磨も泣きたい気分になった時だった。
「おいおい、お前の相手は俺だろ?」
声と共に白銀の一閃が闇夜にひらめく。
下段からの振り上げる一閃の煌きに琢磨は状況を忘れて見入った。
その光の正体を琢磨は知っていた。
鬼切丸。
昔語りにおける伝説のものとは異なる。
特別な呪法で作られとされる刀で、その美しい等身は細い月の明かりを一身に集めたような白さでそれが琢磨の目に焼き付いた。
「ぎゃああああああああああああああああああ」
闇夜を切り裂くような悲鳴が夜の森に木霊する。
琢磨の前に圧倒的な威圧感を持っていた吸血鬼が悲鳴を上げながらあっさりと膝を付く。
その切られた場所から血とともに瘴気のように黒い煙のようなものが吹き出てくる。
だが、吸血鬼もタダやられはしないと無事な腕を横振りに叩き込む。
吸血鬼の力は普通の人間の何倍もあり、その力で振るわれた暴力は人を一瞬で肉塊と化す力を持っている。一撃でも受ければ無事では済まない。
……攻撃が当たれば、だが。
吸血鬼の腕はあっけなく宙を掻いた。
驚愕に顔を歪ませる吸血鬼に、つまらなさそうな無表情の男が最後の別れを告げた。
「…こちらも仕事だ。悪く思うな」
風のような軽やかな動きで相手の懐に潜り込んだかと思った瞬間、吸血鬼の頭と体は別れを告げていた。
今度は悲鳴すらあげられずに、崩れ落ちる吸血鬼の体。
その体が地面に触れる前に、一瞬で灰と化す。
着ていた服だけがその場に残され、乾いた音を立てて地面にだらしなく広がった。
その光景を呆然と見ながら、琢磨はただハンターのその手にある白銀の煌きから目をそらすことができなかった。
美しい日本刀だ。実用主義らしく装飾などはないが、むしろそこが刃の美しさをより際立たせている。
「……つっ……」
瞬間ハンターの顔がしかめられた。
ふとそれを持つ手が血に濡れていることに気がついた。
吸血鬼のものかと一瞬思ったが、吸血鬼の血液は触れただけで人間を吸血鬼に堕とす危険なものだ。
であれば、これは目の前のハンターの血だ。いつの間に怪我をしたのだろうか。吸血鬼との実力差ははっきりとしていたため、琢磨でも彼が吸血鬼から怪我を負わされたとは思えなかった。
不思議に思っていると、吸血鬼を屠ったハンターがその手の武器を鞘に収めながらこちらへ来た。
その白銀の煌きに見入っていた琢磨はそれが少しだけ残念に思っっていると、突然大翔がハンターに向かって泣きながら抱きついた。
「た、琢人さーん!わーん、怖かったよぉ!」
「おう、大翔。すまんな。遅くなって」
ハンターである父、琢人の刀を持たない方の大きな手がクシャリと大翔の頭を撫でる。
その暖かさにおそらくさらに涙腺を刺激されたのだろう。さらに泣きじゃくる従兄弟の姿に思わず、先ほどの恐怖が思い出されて琢磨自身も泣きたくなるが、自分が泣くのはお門違いだと思ってぐっと唇を噛み締めた。
中々泣き止まない大翔を抱え上げ、父親がその場にしゃがみ込み、琢磨に視線を合わせてくる。
その視線は決して親が子に対するような甘いものはなく、厳しい師の色をしていた。
今回のことは明らかに言いつけを守らなかったこちらの失態だ。
琢磨は跋が悪くて俯いて視線を逸した。
「で?言い訳は?」
しゃがんでもなお琢磨より視線の高い位置からそんな声が降ってくる。
状況を見れば明らかに琢磨が悪いのにそんな風に聞いてくる父親に怒りが湧く。
だが答えないわけには行かず、渋々答えた。
「…ない。」
「…琢磨、俺の顔を見て言え」
言われて渋々顔を上げると父親の半眼が見えた。
明らかに怒っているその視線に思わず縮み上がる。
だが、父親は黙って琢磨を睨みつけている。
「俺は森の入口で関係ない人間が入らないように見張っとけと言ったよな?どうしてここにいる?」
わかっているくせに。と思わなくもない。
琢人は琢磨が吸血鬼を見たがっていたのを知っているはずだ。
何度となく戦闘に参加させて欲しいと頼んでいたのだから。
「……吸血鬼、見たかったから。言い付けを守らなくて悪かったよ。」
「そうか」
突然頬を殴り飛ばされた。
まだ幼い琢磨の体は呆気なく吹き飛ばされ、背後の木の幹に叩きつけられた。
一見優男にも見える細い体であり、片手に大翔を抱えたままだというのにとんでもない力だ。
あまりの衝撃にずるずるとその場に崩れ落ちる。
頬に走る痛みに思わず涙が浮かんだ。
痛みから恨みがましい視線を頭上の仁王立ちの影に向けてしまう。
「……痛い」
「…そりゃよかった。生きている証拠だ」
半眼で見下ろす怒りに満ちた父親の姿に項垂れる。
「いつも言ってるよな?琢磨。すべての状況と要因を読んで行動しろ。勝手な行動は慎め」
もはや耳にタコができそうなくらい聞いたセリフが繰り返される。
そんなことは琢磨だってわかっていた。
だが、最近芽生え始めた反抗心が素直にそれに頷くことを拒否する。
「ご、ごめん。琢人さん、琢磨。ぼ、僕が声をかけなければ……」
グズグズと鼻を鳴らしながら、謝る従兄弟の姿にイライラする。
確かにその通りだった。大翔がいなければ、琢磨自身は獲物から見つからずに済んだ。
思わず彼を睨むと次の瞬間頭に拳骨が飛んできた。
ごん、と小気味いい音と共に目の奥に星が散る。
痛みに悶絶していると、頭上で溜息が聞こえた。
「お前のせいじゃない、大翔。琢磨が勝手な行動を取らなければこうはならなかった」
父親の言葉はその通りだったので流石にここは反論しなかった。
だが、少しだけ納得がいかない。
持ち場を離れたのは大翔だって同じなのに、どうして自分が二度殴られなければならないのか。
思わず大翔を睨みつけようと視線を上げると、冷たい父親の視線にぶつかる。
「……まだわかってないみたいだな?」
流石に三度殴られたくないため、慌てて防御の姿勢を取ると、深い溜息を吐かれた。どうやら殴られはしないようだが、いつの間にか大翔を下ろしていた腕を組まれて半眼で睨まれた。
「琢磨、俺は何時も言っているな?
状況を正確に理解できない人間はハンターになれない。
慎重に慎重を重ねて、最も失敗の少ない方法を選びとれ。
……そうでないハンターは早晩倒れることになる」
琢人の言葉は正論過ぎて反論ができなかった。それは琢磨にはわかっていた。
父親は正しい。彼の言うことを聞いてれば、間違いはない。
なにせ傀儡師の異名をとるほど、相手の行動を翻弄し確実に仕留めるのが父親だ。
怪我一つ負うことも危機に陥ることはなく、無事に狩りは終了するだろう。
だが悔しかったのだ。
琢磨は基礎訓練を終えた。さらにまだ幼いとは言え訓練も座学も続けており、同世代にはもとより下級ハンターより実力はあると言う自負はある。
だが、それでも父親は決して琢磨を狩りに参加させなかった。
いつだって見張りを言い付け、狩りからは遠ざける。
琢磨だとて自分がまだ幼いことも経験不足も認める。
しかし、だからこそ参加したかったのだ。少しでも早く実力をつけ、経験を積んで父親に認めて欲しかった。共に狩りがしたかった。
それなのに父親は頑なに戦いの場から琢磨を遠ざける。
確かにそれが安全で確実な方法であることは琢磨にはわかる。
狩りは危険だ。死ぬことだってあるのは知っている。
だが、ハンターを目指しているのだからそれは承知の上だ。
琢磨は死ぬことは怖くなかった。それより怖かったのはこのままでは父親を超える日どころか、経験不足で並び立つ未来すらなく終わっていくことだ。
琢磨の父、琢人は伝説クラスのハンターだった。
今でこそ傀儡師の異名をとるほどの頭脳派で慎重派の彼だが、若い頃はかなり無茶なことをやっていたらしい。
父親の様々な武勇伝聞くたびに、琢磨は胸を躍らせた。
そしていつの日か父親と並ぶ、いやそれ以上のハンターになることが琢磨の夢となっていた。
ハンター仲間から聞いた話で盛り上がり、幼い頃の琢磨がハンターになりたいと言うたびに琢人は照れながらも嬉しそうにしていたが、その決意が本気だとわかった途端渋面を作った。
それから父親はハンターがいかに危険な職業であるかを琢磨に言い聞かせた。
だが、そんなことは百も承知だった。
いくら幼いとは言え、伝説クラスのハンターの息子だ。
母親を早くに亡くし、実家と絶縁状態の琢人は幼い琢磨を仕事があるときはギルドに預けていた。
ギルドほどハンターに関する情報が入るところはない。
琢磨はハンターがかっこいいだけの職業だとは思っていなかった。
ハンターに関する知識は現役のハンターに引けをとらないと自負していた。
琢磨がハンターになりたいのは憧れだけではないのだ、と何度も説得を続けた結果、琢人が折れた。
「決して危ないことはしない」「琢人の命令には従う」ということを約束させられてのことではあったが、琢磨は嬉しかった。
しかし基礎訓練を終えて、ハンター候補生になっても琢人は任務に参加させてくれなかった。
自分は若い頃はかなり無茶をしたくせにと思う。
様々な武勇伝を聞いた琢磨だが、一番好きなのは琢人が今その手に持つ刀に纏わる話だ。
鬼切丸。
刀を父親がそう呼んでいるのを聞いたことがあった。
由来はわからないが、かつてギルドが止めるのも聞かず、僅かな情報を元に見つけ出した強大な吸血鬼狩りを行った際、激闘の末吸血鬼から奪ったそれを琢人は愛刀としていた。
その刀身は人間相手には鈍らだが、人外のモノに対しては絶大な切れ味を誇ると聞いていた。
琢人が何時も肌身離さず持ち歩いているため触れるどころか、実際にその使用された光景を見るのは今日が初めてだったが、全く噂と違わずすごい武器だと思う。
その時の激闘の名残で今は片腕がやや不自由なため、最前線からは琢人は退いていたのだが、緊急の狩りが入り、今回は参加していた。
その際琢磨はかなり無理を言って参加させてもらっていた。
緊急な内容だったので、琢人は案外簡単に折れた。
しかし、決して持ち場を離れないこと、大翔の面倒を見ることを言いつけられ吸血鬼がいるという森の入口に待機を命じられた。
琢磨は不満だったが、渋々応じた。
拒否すれば、参加さえさせてもらえないことはわかっていたからだ。
しかし琢磨は今回は最初から森に入ることを計画していた。
見つかった際に怒られる覚悟もできていた。
しかしまさか、大翔まで巻き込んで危険なことになるとは思っていなかった。
その点の反省はあるので、黙って父親の小言を聞く。
「わかっているのか?無謀と勇敢は違う。
浅慮な結果が自分の命だけでなく他の人間の命も危険にさらすんだ。
戦場では何があるかわからないんだ。子供の我儘を聞いている暇はない。
そんなことではすぐに死んでしまうぞ?」
全くの正論だが、素直に琢磨は謝ることができなかった。
人間正論を言われすぎると、否定したくなるというのは本当だと思う。
何も言わない琢磨に何を思ったのだろう。
「……どうやら、まだ分かっていないみたいだな」
ため息と同時に冷たい声が降ってきた。
再び殴られると思って目を閉じた。
しかし、痛みは襲ってこない。
恐る恐る、目を開くとそこに信じれらない光景が広がっていた。
いつの間にか雨が降っていた。
降りしきる雨の中、下生えの草に雫が跳ねる。
その中でなぜか父親が倒れていた。
首から血を流し、それが地面にシミのように広がっていた。
ピクリとも動かない父親の体を呆然と見下ろす。
どのくらいそうしていただろう、不意に父親の体がぴくりと動いた気がした。
慌てて父親に駆け寄ると、小さなうめき声が聞こえた。
「親父!親父?」
揺すると、顔色の悪い父親の双眸がゆっくりと開く。
「……琢磨、か?」
珍しくぼんやりした様子の父親に不安が募る。
首から流れ出る血はいつの間にか止まっていたが、血だまりができるほどの量で無事とは言い難い。
「なにがあったんだよ。いきなり倒れて…!あ、いやすぐに助けを…!」
早く医者に見せないとまずいと思って立ち上がったが、すぐにその足を引っ張る存在に気がついた。
いつの間にか父親に腕を掴まれて動けなくなっていた。
「な、親父、離せよ!ふざけている場合かよ!早く助けを呼ばないと…」
だが父親の手は緩むどころか、さらに琢磨の腕に痛いほど食い込んできた。
琢磨は流石に様子がおかしいことに気がついた。
普段は目を合わせず話すと怒るのに、今は父親とまるで視線が合わない。
不安が募って父親の顔を覗き込んだ。
「親父?どうし…」
「…バカが。何時も言っているだろう?慎重に動けと」
突然の言葉に理解が追いつかない。
気づけば地面に叩きつけられていた。
琢磨の首に琢人の大きな手が握りつぶさんとばかりに掴んでいた。
息苦しさにもがくが、その力は緩まることはない。
訳が分からず、首を締める父親の顔を見上げて、琢磨は後悔した。
「そうじゃなけりゃ、俺の二の舞だ」
落ち窪んだ眼孔、鈍色の肌。赤く禍々しく光る相貌。
にいっと大きな犬歯をのぞかせ笑う瞳に既に理性の色はない。
驚愕と恐怖に動けない琢磨に父親だった化物はさらに腕に力を込めて…。
◆ ◇ ◇
そこで目が覚めた。
勢い込んで飛び起きる。
息が上がっていた。心臓がうるさかった。
寝汗をかいているのか全身が冷たいのに頭の芯は熱かった。
生理的なものか目端から流れる水滴を額の汗とともに袖で乱暴に拭った。
夢見の悪さに目の奥が傷んだ。
この夢は実は琢磨にとって初めてではない。
ある時期、何度となく繰り返し見ていた。
その度に汗だくで飛び起きるのも同じだ。
最近は見なくなっていたのに、どうして今になってあんな夢を見たのか。
夢の出来事は前半は実際にあった過去の記憶だが、最後は完全に琢磨の妄想だ。
確かに父、琢人は吸血鬼と化し死んだ。
琢磨の参加しなかった任務中、吸血鬼に襲われた少女を庇い、その血を浴びた。
吸血鬼の血は他の生き物を吸血鬼化し、人間を化物に変える。
琢人はまだ理性のあるうちに、自ら命を絶った。
その時に一緒だったハンターがそう教えてくれた。
琢磨は琢人の死に目に会えなかったのだ。
だが今はそんなことを考えるべき時ではない。
頭痛と夢を振り払うように首を動かし、当たりを見回す。
見覚えのない場所だ。殺風景な部屋で掃除はしてあるようだが、どこかかび臭い室内には琢磨が寝ていたベットしかない。
どこだと、考えた瞬間精神的なものとは異なる痛みを後頭部に感じた。
触れたそこはコブができて腫れていた。
それで現状を思い出した。
(そうだ。…たしかギルドの依頼を受けて…)
全くなんたる失態か。
いくら普段抑え役の大翔がいないとは言え、人影を見つけた途端走り出し、後ろ姿を伺うのに夢中になっている間に背後の仲間に気付かず、昏倒させられるとは。
見回す部屋には誰もいない。
気を失う前に見た女も自分を殴った犯人の姿も。
殴られはしたが、ベッドに寝かせられていたところから見ても自分を襲った犯人はすぐに自分をどうこうするつもりはないように感じた。
室内と窓から見える様子からして洋館の中らしい。
体の様子を確かめると、持っていた荷物はなく、体中に仕込んでいた武器も取り上げられているようだった。
防刃性のあるベストも脱がされており、まさに丸腰だ。
武器になりそうなものも室内にはなく、そっと溜息を吐いた。
(ベスト、高かったのにな)
そのことにがくりと肩を落とす。
場にそぐわないとは思うが、今はない武器や防具は本当にコツコツお金を溜めて買ったものだっただけに気が滅入った。
ハンターは仕事の成功報酬以外に定期的に報酬がある。
ギルドに属している限り、もらえるもののそれを管理しているのは大翔なのだ。
琢磨は一度武器や防具へ生活費を使い込み、生活を困窮させたことがあった。
それ以来、報酬の受け取り口座を押さえているのは大翔なのだ。
琢磨は彼の許しがなければ、武器も防具も満足に買えない。
外では引っ込み思案な大翔だが、琢磨に対してはまるで母親か姉のごとく世話焼きだ。
小姑よろしく、今回の失敗を「だから慎重にいけ」と怒るのだろう。
それを考えると憂鬱で仕方がない。
何にしてもここからでなければとベットから降りようとした時だった。
突然外に通じるだろう扉が開き、男が一人入ってきた。
おそらく自分を殴った相手だと感じ、丸腰ながら構えをとった。
琢磨が起きていたのが意外だったのか、男が驚きの表情を浮かべた。
三十後半くらいの男で縮れ気味の黒髪を伸ばし後ろで縛り、傷だらけの顔は無精ひげが生えていた。
どこかで見た気がして、記憶を探り行き当たった顔に琢磨も驚いた。
「い、井上さん?」
我が目を疑う。それは父親の友人であった井上だった。
琢磨の言葉に男はにやりと笑った。
「いよぅ。琢磨。久しぶりだな。元気だったか?」
その場にそぐわない軽い様子に混乱する。
井上はかつて傭兵という異色の経歴を持つ男だ。
琢磨の父が海外で知り合ったという男は、たまに日本に来ると琢人を訪ねてきていたため琢磨とも面識があった。
少々下衆なところはあるものの、気がよい男だ。
とはいえ、数年前に父親が死んでからは全く会うこともなくなっていた。
「え?どうして。…いや、なんで?こんなところに」
「それはこちらのセリフ、と言いたいところだが、大体わかってるな。
ハンターズギルドとかいうとこの仕事だ?違うか?」
にやりと笑われさらにぎくりとする。
どうしてギルドのことを知っている?
井上は父親の友人ではあるがハンターではない。
一般人と言うには語弊がありそうな男だが、それでもギルドの存在を知る立場にはないはずだ。
それなのにどうして彼は知っているのか。
嫌な予感に心臓が大きな音を立てた。
「……井上さん。ギルドってなんのことだよ?」
「……しらばっくれるか?まあ、いいさ。お前さんならどちらでも。
俺たちに手を貸してくれるんならな?」
「なんの話をしているのです?」
聞こえた女の声にひときわ心臓が跳ねた。
井上の背後から裏戸学園の制服を着た少女がなにか細長い袋のようなものを手に現れる。
その顔半分は白い仮面に覆われていたが、女子にしては長身ですんなりとした今時珍しい漆黒の長い黒髪に先日その存在を認識した女子生徒に重なり、思わずつぶやいた。
「……多岐環?」
琢磨の言葉に少女が足を止める。
顔で唯一覆われていない口元が一瞬だけ歪んだのが見えた。
「違いますよ。……平戸琢磨さん」
平静を装っているが、どこか怒りに満ちた声に琢磨は訝しむ。
琢磨は人の顔を覚えるのが得意ではない。
なんとなく似ているかと思ってうっかり口走ったが、顔は仮面で見えないが、イライラと肩にかかった髪を後ろに跳ね上げ、睥睨してくる様子に彼女が多岐環と別人であることはわかった。
あの琢磨の従兄弟が何らかの思いを寄せる不思議な少女は確かに怪しい存在だが、こんなふうに相手を見下すような視線はしない。
そうであれば、人からの視線に敏感な従兄弟が良い感情を抱くわけがない。
そうであっても不思議があった。
(この女は多岐を知ってる?)
先程名を呼んだときに感じた感情。
嫌悪、憎悪。そんな嫌な雰囲気を感じた。
普通聞き覚えがなければ、ただ戸惑うだけだろう。
しかし、はっきりとした敵意を感じた。
まるであんな女と一緒にするなと言わんばかりに。
(…多岐環、本当に何者なんだ?)
思わず考え込む琢磨を尻目に女は話を続ける。
「まさか、貴方がハンターだとは思いませんでした」
女の口調にどうやら琢磨自身も知っているようだと感じる。
だが仮面越しに見る女の姿は琢磨の記憶にない。
覚えていないのか、琢磨にそもそも会ったという認識がないのか微妙なところだった。
女の制服を見ればラインから同学年と知れる。
しかし、近しい交友関係にあるならともかく同学年であるという程度であれば、琢磨には相手を認識できない。
「……お前は?」
「まあ、貴方は知りはしないでしょうね。所詮名前も出てこない端役のことなど」
女の言葉に思わず首をかしげる。何を言っているのだろうか?
「まあ其の辺はよいです。私の名前のことは知っているのでは?ギルドにおそらく手配されているでしょうから?」
「ついでに俺のこともな?」
ニヤニヤと女の言葉に追従する井上の言葉に顔を顰める。
あまり考えたくないことだったからだ。
「ブルーローズとバレット?」
「ご名答!」
笑う井上の声に頭が痛くなる。
手配犯が既知の相手などなんという皮肉か。
だが、手配されている凶悪犯であることに変わりはない。
そっと相手を伺う。ブルーローズを名乗る仮面の女はともかくバレットを名乗る井上が問題だ。
かつて遊びで稽古を付けてもらったことがあるが、一度たりとも勝てたことがなかった。
体格差もあるが、井上の攻撃は一々卑怯で、どんな手を使っても勝てればいいという何とも下衆な戦法が多い。
いくら数年経って、こちらも強くなったとは言え、丸腰で戦える相手ではない。それにブルーローズもどんな武器を隠し持っているのかわからない。心の中で琢磨が焦っていると、それに気づいたのか井上がにやにやと嫌な笑みを浮かべた。
「おいおい、いくら現役から退いたといっても、まだまだお前相手にやられる俺じゃないぞ?
…まあ、化物相手には遅れをとったが…」
「…やめなさい。バレット。私は戦いたいわけじゃないの」
女の言葉に琢磨は思わず怪訝な顔をした。
「どういうことだ?おとなしく捕まると」
「いいえ、もちろんそんなわけではないです。ただ、貴方も私の話を聞けば多分わかってくれると思うから。私の目的が。……ギルドがどれだけ醜悪な組織か」
女の言葉に顔を顰めた。女の言葉ではまるで琢磨が話を聞けばあっさりギルドを裏切り、彼女たちの仲間になるとでも言うようだ。
ギルドには幾度となく世話になっており、裏切るつもりなど琢磨にはない。不義理な存在なのだと言われているようで黙っていられなかった。
「馬鹿にするな。いくら知り合いとは言えギルドの敵に俺が耳を貸すか?」
「硬いねぇ?ああ、お前は確かに琢人の息子だな。あいつも頭硬かったもんなぁ」
「バレット黙りなさい」
女の言葉に井上は肩をすくめて口を閉じた。
琢磨は不思議に思った。明らかに女は井上よりかなり年下だ。
それなのに井上が彼女の言葉には素直に従う。
こんな男だっただろうか?
琢磨の知る井上という男は、気は良いが暴力的でよく琢人と対立していた。
強い相手に喧嘩をふっかけたかと思うと、戦った相手を次の瞬間に酒に誘ったりする。
意味がわからない相手ながら、琢人が呆れながら酒に付き合っていた姿を思い出す。
だがいつだって傍若無人で一匹狼だった彼が誰かの言うことを聞いていた記憶はない。
金で雇われていたが、途中で飽きて依頼主を伸して、金だけ奪ったと本人から笑いながら話されたときには、どんな顔をしていいのかわからなかった記憶すらある。
井上の様子を訝しむ間もブルーローズの話は続いていた。
「……私たちが信じられないのはわかりますけど、話を聞かないのは浅慮の極み。……お父様にも言われませんでした?」
言われて、思いがけず怒りを覚えた。
夢見が悪かったせいもあったかもしれない。
井上はともかくとして、知りもしない女に父親のことを言われカッとなった。
「お前が、知りもしない親父の話をするな!」
睨みつけた際、僅かに仮面の隙間から覗くその瞳が一瞬痛そうに閉じられたのが見えた。
「……知ってますよ。お会いしましたから」
女のどこか後悔に満ちた声に耳を疑う。心臓が跳ねた。
「いつ?」
「三年前、………吸血鬼から助けてもらいました。」
女の言葉に琢磨の心臓が大きな音を立てた。
三年前といえば父親が死んだ年だ。
思い出す。あの日は雨が降っていた。
三年前のあの日、父親はギルドからの依頼を受けて狩りにいったまま帰ってこなかった。
その日は急な呼び出しだったので、学校に行っていた琢磨と大翔はその狩りに参加できなかった。
そして出かける旨の電話を琢人から受けたあと、二度とその声を聞くことはなかった。
人伝てに聞いた話によれば、吸血鬼を狩るのはさほど難しい仕事ではなかったという。
しかし、吸血鬼に襲われていた少女を庇った際に父親は吸血鬼の血に触れてしまった。
吸血鬼の血に触れたものはその血に狂わされ、同じ化物と化す。
父親はそれを知っており、琢磨たちのことをその場にいた他のハンターに言付けると自ら命を絶った。 まさか父親が死ぬなんて思っていなかった琢磨は学校から帰って話を聞いて呆然としたのを覚えている。
父親の体は既に変質しかけていたため、ギルドによって既に処理されており、遺体に対面もできなかった。
現実を受け止められない琢磨に変わって、ギルドが琢人の葬儀を取り仕切ってくれた。遺体のない柩と小さな位牌だけ置かれた祭壇の横で呆然としていたとき、弔問に訪れたハンターの一人に不思議な話を聞いた。
父親が命を賭して守った少女がいつの間にかいなくなっていたという。父親が持っていたはずの鬼切丸と共に。
嫌な予感に胸の音が不規則になる。
ブルーローズを名乗る少女が深々と頭を下げた。
「あの時は本当に助かりました。
ですけど、琢人さんのご遺族には申し訳なく……」
「黙れ」
聞きたくなかった。
父親が命を賭して助けた少女。
ハンターを騙して殺しをさせる目の前の女。
父親はハンターであることを誇りに思っていた。
人を守る存在なのだと言う誇りを大切にしていた。
そんな父親が救った存在がギルドに、人間に仇なしたなど。
そんなのが同一人物だなんて認めない。
「謝罪など聞きたくない!ギルドの敵を親父が救ったなんて聞きたくない!親父の名前を呼ぶな!」
「…落ち着け。琢磨」
「井上さんだって!なんでこんな女と!」
突然現れた父親を死に追いやった原因に混乱する。
未だに琢磨は父親が死んだことが、納得できていないのだ。
遺体を見れなかったのも原因かもしれない。
琢磨は葬儀のとき一度も泣けなかった。ずっと泣き続ける大翔をなだめながら、ただ呆然としていた。
そんな琢磨を周りは心配したが、葬儀後も普段通りに振舞う琢磨になにも言わなかった。
だからだろうか。
たまに父親がひょこりと帰ってくる気がしてしまう。
頭では理解していてもいつの間にか作ってしまう三人分の食事。
今父親がいないのは、長い旅に出てしまっているだけなのだと。
この女を認めてしまったら、認めなくてはいけない気がしてしまう。
本当に父親が帰ってこないことを。
そんな弱い自分がいることを琢磨は認めたくはなかった。
そんな琢磨にブルーローズは冷たい感情のこもらない視線で、すっと何かを差し出してきた。
見ればほっそりとした少女の手に似合わない太いナイフだった。
一瞬それで攻撃でもされるのかと思ったが、ブルーローズはその柄を琢磨の方に差し出し、そっと告げた。
「もし私が許せないというのなら、これで殺してくださっても構いません」
女の言葉に耳を疑った。
絶句した琢磨の横で焦ったように井上が声を上げる。
「な、何を言ってんだ?お前…」
「いいのです。バレット。先程あなたから彼が琢人さんの遺族だと聞いたときから覚悟は出来ていたんです。彼にはその権利はある。
ですが、その前に私の話を聞いていただきたい」
あくまでも話し合うことを望む女の姿勢に流石に琢磨も疑惑が擡げてくる。
どうしてここまで話を聞いて欲しいのか。
戦いたくないと言った女の真意がわからない。
ギルドで聞いた話では、この二人はハンターを騙して、誘拐や人身売買、さらに享楽のために人間を襲わせていた極悪人だ。
だが、バレットが井上だと知った今、その説明も少しだけ疑わしく感じる。
確かに井上は下衆なところはあるが、なんの理由もなしに無差別に人の命を奪おうとするような人間ではない。もちろん会わない間に変質した可能性はあるが、それでもこの二人がただ金や快楽のために殺人を強要していたとは思いたくなかった。
甘い考えであることは承知だった。
だが父親が救った命が無意味に殺人を犯す鬼だとはどうしても認めたくなかった。
琢磨はブルーローズが差し出したナイフを押し返した。
「……話くらいなら聞いてやる。聞くだけなら」
「……ありがとう」
ブルーローズが再び深く頭を下げ、語りだした。
その内容は琢磨には信じられないことばかりだった。
すべてを話し終えたブルーローズを前に琢磨は何も言えなかった。
あまりの荒唐無稽、フィクションだと笑い飛ばしたい内容だった。
だが、それを共に聞く井上の眼差しはいつになく真剣で、ただ琢磨を騙すだけにしてはあまりにも現実とリンクする部分も多い。
正直混乱していた。あまりにもここに来ていろいろなことが重なりすぎていた。
井上との再会、父親の死に関するできごと。ブルーローズの話。
どれをとっても琢磨の頭の許容量を超えていた。
「……それを全て信じろと?」
「……すべてを信じてもらうことはすぐには不可能だとわかっています。
ですが、全ては私がこの目で見た真実です」
そこで一旦ブルーローズが目を閉じたと思うと、再び目を開いた。
それから、その手に持っていた細長い袋を差し出してきた。
「…これを」
差し出されたモノに困惑しつつもそれを受け取る。
受け取って気付く。長いものに巻かれた少し泥が付着したその布が、吸血鬼ハンターが使う姿隠しの布だ。
吸血鬼は人間の匂いに敏感で普通に近づくとすぐに逃げられてしまう。
どういう理屈かは知らないが、この布をかぶると、なぜか吸血鬼の鼻をごまかすことができるのだ。
主に護身用として開発されたその布は性能の割には比較的安価でハンターたちの必需品になっている。
しかし、いくら安価といっても吸血鬼に関する道具は安くはない。
なんの変哲もない代物を包むにはあまりに高級な布だ。
その中身が吸血鬼に関するなにかでない限りは。
「……まさか」
ひとつだけ思い当たるモノに慌てて布を解く。
予想はあたっていた。それは数年前には毎日見ていたもの。
だがそれは大きくあるものが欠けていた。
「……鬼切丸、の鞘……?」
そこに入っていたのは泥だらけの鬼切丸が収められていた鞘だ。
中身はない。白銀の煌きを想像していた琢人は愕然とした
「すみません。ある場所に隠してあったんですが、いつの間にか盗まれてしまって…」
鞘だけは見つかったのですが、と言うブルーローズの言葉に期待していだただけに落胆する。
だが、ずしりとくるその鞘は確かに父親のものだ。
生前決して触ることのなかったものが、この手にある。
それの意味することに琢磨は唇を噛んだ。
涙は出ない。中身がないからだろうか。
だがこんな場所で泣きたくない。だから問題はなかった。
「……今日のところはお帰りください」
「いいのか?帰っても」
「…構いません。ギルドに報告するかもお任せします」
流石にその言葉には目を見開く。
「俺が報告したら、あんたらは捕まるんじゃないのか?」
「…それならそれで、私たちはそれまでの存在なのでしょう。
ですが、私の話を少しでも聞く耳がありましたら、ここに連絡を」
言って、小さな紙片をブルーローズが渡す。
開くと番号が書いてあった。おそらく携帯の番号だろう。
「……どうかよく考えてください。できればこのことは誰にも内密に」
女の様子に困惑する。
やはりギルドの手配された人物にはとても見えなかった。
高圧的な部分はあるものの、その目は力強い意思に彩られ、決して揺るがない。
高潔にも見える凛とした様子に琢磨の中の大きな支柱が大きく揺さぶられる。
どうすればいい?
ハンターとしてどうすればいいのかははっきりとわかっている。
だが、琢磨という人間の気持ちとしてどうすればいいのか大きく揺れていた。
すぐに出そうにない答えに疲れを感じた。
やはり一度帰ったほうが良さそうだ。
差し出された刀の鞘といつの間にか用意されていた荷物を受け取り、洋館を出ようとしたとき、不意にブルーローズが声をかけてきた。
「…最後に、一つ」
「なんだ?」
女の目を何気なく見返し、その冷徹で深い憎悪の視線にゾクリとした。
「……貴方が先程口にした多岐環。あの女には気をつけて。」
囁くような小さな声に、疑問が浮かぶ。
多岐環。あれは確かに言動が怪しいが、人間だ。
しかも特別な様子もない、地味な存在。いったい彼女の何に気をつければいいのだろうか。
困惑する琢磨の様子に気付かず、女は緩やかに笑った。
底冷えのする笑みがあった。
「あの女は吸血鬼の手先。あちら側の人間。決して気を許さないよう」