連作 『猫になる~ホラー編』
大きな風が通り過ぎるのと同時に、私は大きく息を吐いて目を覚ました。
……私は何をしているんだろう。
私はおそらく夢を見ていた。もう思い出せない、怖い夢を。
誰かの笑い声だけが、耳に残っている。
そして私は猫になっていることに気がついた。
いや、もうずいぶん前から猫だったか、それとも元から猫だっただろうか。
ああ、全く思い出すことができない。
寝起きだからなのか、猫にとっての思考の限界なのか、頭がぼんやりとしてうまく考えがまとまらない。
でも考えなければいけない、思い出さなければいけない。
目を覚ましてからずっと嫌な空気が私の周りに纏わりついて、肌がひりつく感覚が続いていた。
そういえば、ここはどこなのだろう。
目を覚ましてもたもたとしていたが、ようやく考えが一歩進んだ。私は辺りを見渡す。
背の高い草が私の周りを覆っている。草の隙間から曇り空がちらりと見えた。どこかの草むらにいるようだ。それくらいしかわからない。
ここはどこだろう、これからどうしよう、まず何をしよう。考えることは山ほどある。
また大きな風が通り過ぎて、草が私にかぶさり、反射的に目を閉じた。
考えてはいけない、思い出してはいけない。
私は一方でそう感じていた。
本能が、私を引き留める。
何か、嫌な予感がする。
ずっと吹いていた風が、少し強くなった。静かだった草むらは、目を覚ましたように動き出し、風に揺られ乾いた音を鳴らす。
考えなければいけない、思い出さなければいけない。
そうだ、このままではいけない。私は目を閉じた状態で何か考えようとした。が、意識が散らばっていて何も考えられなかった。
そうしている間にも、絶え間なく風が吹いていた。
風はますます強くなり、甲高い音をたてる。
考えてはいけない、思い出してはいけない。
私は目を閉じたまま風や草の音を聞いていた。胸騒ぎがする。
何か……何かが、おかしい。
狂ったように吹き荒れる風、騒ぐ草の音……それ以外に何か混ざっている。
ここに、何かが、いる。
全身の毛が逆立つのを感じた。本能が危険を感じていた。
恐い。
私は一刻も早くこの場を離れたかった。息苦しい感覚が続いている。
早く、少しでもここから遠い場所に、いかなければ。
得体のしれない焦りが私の中にあって、逃げ出したいのに、それはできなかった。
今私は誰かに強い力で抑え込まれているように、動くことができない。
そして私はもう一つ、気が付いていた。
ここに誰かがいる、その気配を。
『それ』は今はまだ少し離れた場所にいる。
姿は見えないが、少し離れた場所でじっと私のことを見つめている。
風が悲鳴のような声をあげた。
しかしこれは、この音は、本当に風の音なのだろうか?
がさり、がさりと草を踏みしめる音がする。
『それ』はこちらに向かって動き出した。
ゆっくりと近づいてくる。
それは距離をだんだん縮めて、とうとう私のすぐ後ろまできた。
もうダメだ。
逃げだすことはおろか震えることさえもできず、ただ私は恐怖につつまれていた。
がさり。
草をかきわける音がやんだ。
風の音のような悲鳴が聞こえる。私のすぐ側で。
来ないで、助けてと私は心の中で繰り返した。
しかし、ひやりと冷たく柔らかいもの……温度を持たない人間の手のようなものが、背中に触れた。
風が吹き荒れ、悲鳴が一段と高く響く。
やめて!
私は心の中で叫んだ。
すると叫びに共鳴するように一瞬耳鳴りがして、全ての音が鳴り止んだ。
起き上がると足元で草の乾いた音がした。
助かった、体を動かすことができるようになった。
ここから離れなければ、一刻も早く、少しでも遠くへ。
私はふらふらと慣れない足取りで、この場を離れた。
当てもなく走り続けた。
逃げなければと考えたが、どこに行けばいいのかわからず、ただ町中を走り回った。
走り回る中でおかしな点に気が付いた。
どこを走っても、人がいないのだ。
この街には見覚えがある。無人の町ではないはずだ。それなのに……。
私は人のいない町を走り回り、やがて疲れて足を止めた。
乱れた呼吸を整える。
少し落ち着き、そろそろまた動き出そうと考えていると、正面の角を曲がる後姿が見えた。
セーラー服を着た女の子のスカートが、角の向こう側にひらりと消えて、私は急いでそれを追いかけた。
これで助かる、そう信じて。
私が角を曲がると、またその女の子は角を曲がった。
くすくす……。
角の向こうから笑い声が耳に届く。一人ではないようだ。
私は安堵し、必死になって追いかける。しかし少しも距離が縮まらない。
私が角を曲がると、女の子も角を曲がる。同じことを何度も繰り返した。しまいには、私が或る時角を曲がると、女の子はいなくなっていた。どこに行ってしまったのか。
女の子の家がこの辺りにあるのかもしれない、私はそう考えて近くの家にはいりこんだ。
玄関の柵をくぐり、裏手に回ると小さな庭があった。庭にはささやかな菜園と少し大きめの犬小屋が置かれている。それを見て私は誰かが生活しているという気配を感じ、不安と恐怖から解放されたような気になり、また安心した。
がさり。
犬小屋から音がした。犬がいるのかと中をのぞくが、影になっていてよくわからない。
小さな犬が奥にいるのかもしれないと、私は中に入り込んだ。
しかしここには何もいなかった。
ぞくり、と寒気がした。何故だかとても恐ろしくなった。
そしてその瞬間、世界が真っ暗になった。
先ほどまであった出入り口から漏れていた光がなくなっている。出入り口がふさがれてしまったらしい。真っ暗な小屋の中に閉じ込められてしまった。
こんなこと、一体、だれが。
体当たりをしようと体を動かした。しかしおかしなことに、すぐ近くにあるはずの壁がない。大きな犬が入る程度の犬小屋だったはずだ。そんなわけがない、どこにも壁がないなどありえない。
その上体が水の中にいるように、うまく動かすことができず、私は小屋の中でもがいていた。
呼吸が苦しくなり、恐怖に毛が逆立つのを感じる。
助けて、ここから出して!
叫びたかったが、声は出なかった。
ドン! ドン!
突然音が鳴り出した。誰かが壁をたたいている音だ。
初めは一方からのみ鳴らされた音は、少しずつ数を増していき、今は四方の壁が叩きつけられている。
私はギュッと目を瞑って震えていた。
どれくらいの時間がたったのかわからない。何時間もそれに耐えていたような気がする。
音は突然鳴りやんだ。
鳴りやむ直前に、女の甲高い笑い声を聞いた気がした。
恐る恐る目を開けると、出入り口は元の通り開いていた。
急いでそこから抜け出すが、周りには何もいなかった。
まさかあれは夢や幻だったのではないかと、自分の記憶を疑ってしまう。
しかしそうではない。あれもまた現実だった。
私は顔をあげ、家の方をみると同時に、声をあげた。
数人の男女が、こちらを見て笑っていた。見たことがある、おそらくこの家の住人だ。
皆眼球のないぽっかり空いた目と、耳元まであるような大きく避けた口で、にたにたと笑っていた。
恐ろしさに動けずにいると、住人は手を伸ばしてきた。
私は反射的にそれを避け、走ってこの家を出て行った。
あの家を離れてもずっと、肌がひりひりする感じ、毛の逆立つ感じが続いている。
そして、体が重い。うまく自分の体を動かせない。
自分の異変に気が付いていたが、どうしようもなかった。焦りながらもがくように走ったが、走っても走ってもうまく進まず、まるで夢の中にいるようだった。
走る私の横を、音をたてて風が通り抜けた。
嫌な予感がする。恐ろしさに、胸がざわめく。
助けて!
何度目だろう、私は心の中で叫び声をあげた。
顔の右側に何かあたった。ひんやりとした、濡れたような感触だった。
助けて、助けて、助けて!
振り落とそうと走り回るが、じたばたともがくだけでうまくいかない。
風が悲鳴を上げる。私のすぐそばで。
右側から囁くような声が聞こえた。
「 死 ネ 」
心臓が凍りつく。
助けて、助けて、助けて、助けて、助けて。
笑い声が渦巻くように、私を取り囲む。
死にたくない、助けて!
いつのまにか、町のはずれにある川まで来ていた。これは少し大きな川で、隣の町と橋で結ばれている。
もしかすると、この橋を渡れば、助かるのではないか。
私はすがるような思いで、川の向こうを見た。
川の向こうへ行こう。この町を抜け出すのだ。そうすればきっと事態は好転する。
根拠はなかったが、とにかく希望が見えてきた。
私は震えでいうことを聞かない体を動かし、橋に足をかけた。
よたよたと進み、真ん中までどうにかしてたどり着くと、飛ばされるほどの一層強い風が吹いてきて、私は動かしていた足を止めた。
その時。
橋の両側からおびただしい数の手が、川から伸びてきて、私をつかんだ。
逃れようもなく、私は手に捕まってしまった。
そして、私はあっという間に川に引きずり込まれた。
水の中はたくさんの手や、私を見て笑う顔で埋め尽くされていた。
手から逃れようと私はもがく。空気がもれて、もがくほど苦しくなる。
苦シイ、怖イ、助ケテ
シニタクナイ………………!
苦しみの中、どんどん気が遠くなっていく。
私は薄れていく意識の中で、笑い声を聞いた気がした。
大きな風が通り過ぎるのと同時に、私は大きく息を吐いて目を覚ました。
……ここは、どこだろう。
私はおそらく夢を見ていた。もう思い出せない、怖い夢を。