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綻びを繕う者 ~三十五歳の設備保全員、異世界で唯一の修繕師になる~  作者: のむ


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1/4

終わりと始まり

 四月の雨が、駅前のアスファルトを黒く濡らしていた。

 柏木遼一は傘も持たずに、ただぼんやりと改札の前に立っていた。スーツの肩が雨に染み、ネクタイの先から雫が垂れている。それでも動く気になれなかった。

 三十五年間生きてきて、こんなに空っぽな気持ちになったのは初めてだった。

 ポケットの中には、今日渡されたばかりの退職勧奨通知書が入っている。「会社都合による人員整理」——たった一行で、十三年間の勤務が終わった。

 柏木が勤めていた東邦精機は、かつては従業員三百人を抱える中堅の部品メーカーだった。しかしここ数年、海外からの安い部品に押されて業績は悪化の一途をたどり、ついに工場閉鎖が決まった。設備保全課の柏木は、真っ先にリストラの対象になった。

 「柏木さんの技術は素晴らしいんですが、もう直す設備がなくなるわけですから」

 人事部長の言葉が、頭の中でぐるぐると回っている。直す設備がなくなる。それは事実だ。工場がなくなるのだから。

 柏木の仕事は、工場の設備保全だった。旋盤、フライス盤、プレス機——あらゆる機械の面倒を見てきた。故障の予兆を察知し、部品が壊れる前に手を打つ。それが柏木の得意分野だった。

 同僚からは「柏木さんに直せないものはない」と言われていた。実際、メーカーの技術者が匙を投げた古い設備を何度も蘇らせてきた。しかし、いくら腕が良くても、工場そのものがなくなってしまえば、その技術に価値はない。

 妻の美咲とは三年前に離婚した。子供はいない。原因は仕事に没頭しすぎたこと。いつも残業ばかりで、休日も呼び出されて工場に駆けつけていた。「あなたにとって、私より機械のほうが大事なんでしょう」——美咲の最後の言葉は、反論できないほど的確だった。

 両親は柏木が高校生のときに事故で他界している。兄弟もいない。つまり、柏木遼一という人間は、今この瞬間、どこにも居場所がなかった。

 仕事もない。家族もない。友人と呼べるほど親しい人間も、いつの間にかいなくなっていた。

 ふと、雨脚が強くなった。

 駅前のロータリーを歩く人々は、みな足早に屋根の下へ逃げ込んでいく。柏木だけが、雨の中に取り残されていた。

 ——別に、濡れたっていいか。

 どうせ帰ったところで、待っている人はいない。一人暮らしのワンルームアパートに帰って、コンビニ弁当を食べて、眠るだけだ。明日からは、ハローワークに通う日々が始まる。三十五歳、特に目立った資格もない設備保全員を雇ってくれる会社が、果たしてあるのだろうか。

 ふいに、視界の端で何かが光った。

 柏木は反射的に目をやった。駅前の植え込みの奥、街灯の明かりが届かない暗がりに、淡い光が揺れていた。蛍のような、しかしもっと大きな光だ。

 ——なんだ、あれは。

 雨粒がその光の周囲だけ、不自然に弾かれている。まるで光が傘のように雨を遮っているかのようだった。

 柏木は、自分でも理由がわからないまま、光に向かって歩き出した。普段の柏木なら、見知らぬ光に近づくような真似はしない。慎重で、堅実で、冒険とは無縁の人間だ。しかし今夜は違った。何もかもを失った人間には、好奇心を抑える理由がない。

 光に近づくと、それが球体であることがわかった。直径三十センチほどの、青白い光球。その中心に、薄い線が一本走っている。

 ——ひび割れ?

 柏木の目が、無意識にその「ひび」の形状を分析していた。十三年間、機械の傷や亀裂を見続けてきた目だ。金属疲労による割れとも、衝撃による破損とも違う。まるで空間そのものに入った皹のような——。

 手が、勝手に伸びていた。

 長年の癖だった。壊れたものを見つけると、まず触って確かめる。指先で状態を把握する。それが設備保全員としての本能だった。

 指先が光球に触れた瞬間、世界が裏返った。

 視界が白く染まり、足元の感覚が消えた。雨の音が遠ざかり、代わりに風の唸りが耳を打つ。身体が宙に浮いているような、あるいは深い水の中に沈んでいくような、不思議な浮遊感。

 そして——。


 気がついたとき、柏木遼一は草原の真ん中に横たわっていた。

 雨はやんでいた。というより、ここには最初から雨など降っていなかった。頭上には、見たこともない星空が広がっている。ふたつの月が、青と琥珀の光を地上に注いでいた。

 「……は?」

 柏木は身を起こし、周囲を見回した。

 見渡す限りの草原。遠くに黒々とした森のシルエット。空気は澄んでいて、かすかに草と土の匂いがする。四月の東京とは明らかに違う空気だ。肌寒くはないが、スーツの上着はびしょ濡れのままで、夜風に当たると身体が震えた。

 「どこだ、ここは……」

 呟いて、柏木は自分の声が震えていることに気づいた。

 目の前に、半透明の光の板が浮かんでいた。

 ゲームのステータス画面のような、淡い青白い光で文字が表示されている。


 ——————————————

 名前:柏木遼一

 年齢:35

 種族:異界人

 クラス:修繕師リペアマスター

 レベル:1


 スキル:

 【鑑定眼】Lv.1

  対象の状態・損傷度を視認できる

 【修繕術】Lv.1

  破損した物体を修復する

 【構造理解】Lv.1

  対象の内部構造を把握する


 称号:なし

 ——————————————


 柏木は、その表示を何度も読み返した。

 修繕師。

 壊れたものを直す者。

 それは、柏木遼一という人間が三十五年間の人生で唯一誇れることと、寸分違わず一致していた。


 柏木は座り込んだまま、しばらくその表示を見つめていた。

 修繕師。壊れたものを直すクラス。

 なぜ、自分がここにいるのか。なぜ、異世界に飛ばされたのか。それはわからない。

 だが、この世界が自分に与えたのは、「直す力」だった。

 それだけは確かだ。

 柏木はゆっくりと立ち上がった。

 スーツはびしょ濡れで、革靴は泥だらけだ。ネクタイはいつの間にか緩んでいる。ポケットの中のリストラ通知書は、雨に濡れてふやけているだろう。

 もう意味のない紙だ。ここでは。

 柏木は通知書をポケットから取り出し、しばらく眺めた。そして——ポケットに戻した。捨てはしなかった。

 これは、柏木遼一が元の世界で生きていた証拠だ。たとえ意味がなくなっても、自分がどこから来たのかを忘れないために。

 草原の風が、濡れたスーツの裾を揺らす。ふたつの月の下で、柏木遼一の異世界生活が始まろうとしていた。


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