『追放された荷運び係は、誰も信じなかった青い布の道で村を救った』
シオンが南の旧道の枝に青い布を結んでいると、背後で草を踏む音が止まった。
「……またそれか」
乾いた声だった。振り返らなくても、北柵の見張りをしているハルトだとわかる。
「今、それ見せるのやめろよ」
「夜に崩れたら、道が見えない」
「崩れるって言うな」
「崩れてからじゃ遅い」
短く返した途端、背後の気配が少し固くなった。
「そういうとこだよ」
ハルトは低く言った。
「お前の話は、先に倒れた後のことを言う」
広場では剣士が刃を研ぎ、弓手が矢束を揃え、治癒師が薬草を分けていた。
村中が、いま来るかもしれない何かに向けて、前へ立つ支度をしている。
その横でシオンだけが、水を小樽に移し、干し肉を袋に分け、納屋の奥から古いソリを引っ張り出して縄を巻いていた。
戦えないからではない。
立つ者が倒れたあと、残る者をどう生かすか。
それを考える役目が、最初から誰にも割り当てられていないことを知っているからだ。
雪解けの山は、静かな顔で人を殺す。
固く見える地面ほど、中から抜けていることがある。
雨を吸った斜面は、崩れるその瞬間まで何も言わない。
だからシオンは備える。
夜でも見失わないよう、旧道の枝に青い布を結ぶ。
怪我人を乗せるため、ソリを出す。
水は大樽のままにせず、小分けにする。
板と縄をまとめ、仔馬の蹄に挟まった小石まで確かめる。
荷車の車輪に手を触れる。
乾いた木のひび。
車軸の軋み。
縄の毛羽立ち。
水袋の残り。
干し肉樽の重さ。
ひとつ確かめるたび、生き残れる人数が頭の中で少しずつ動いた。
広場当番の若者ふたりが、小樽とソリを見下ろした。
「北柵、手が足りてない」
「今二人回したら、運ぶ備えが薄くなる」
「……またそれか」
苛立ったのは、言葉より先に顔だった。
ひとりは何か言い返しかけて、足元の小樽に目を落とした。
意味がわからないわけではない。
ただ、それを今認めれば、北で立っている自分たちの拠り所まで揺れる。
「今はいい」
若者はそう言って目を逸らした。
「そういう話をする時じゃない」
井戸端では、背に子どもを負った女がやり取りを見ていた。
子どもの片足には履物がなかった。冷えた土の上に、むき出しの足指がのぞいている。
シオンがそちらを見ると、女は迷うように視線を揺らした。
「……こういうの、あった方が」
かすれた声は、横にいた男に遮られた。
「やめとけ。今広げる話じゃない」
女は口を閉じた。
納屋番の老婆だけが、青い布を裂くシオンの手元をじっと見ていた。
「そんな細いもんで、人は動くかね」
「夜は形より色です」
シオンは布を枝に結ぶ。
「明かりがなくても、見えた方へ寄る」
老婆はしばらく黙っていたが、やがて低く言った。
「……昔、逃げ遅れた夜も、道が見えんかった」
それだけ言って納屋の戸を開ける。
中には、前日までにシオンが寄せていた小樽、板、縄、乾いた袋がそのまま積まれていた。
老婆は一度それを見て、何も言わず戸を閉めた。
昼前、広場に村長の声が響いた。
「誰が南の旧道に布なんぞ結んでいいと言った!」
怒りより先に、焦りの混じった声だった。
若い衆が何人か集められている。北柵の補強材を運ぶはずだった者のうち数人が、シオンの準備を手伝っていたらしい。
「守りの手が減っている。女や年寄りまで顔色を変えている。今、村に退く支度を見せるな」
「退くためじゃない」
シオンは言った。
「崩れた時に、守りながら救うための備えです」
「同じだ」
村長はすぐに返したが、その声は強すぎた。
「今その話を前に出せば、人の足が止まる」
誰かがシオンの結んだ青い布を引きちぎった。
泥の上に落ちた布を見ても、村長は止めなかった。
「……お前の備えが無駄だと言っているんじゃない」
村長は言う。
「だが、今は村の外へ出ろ。お前がいると、人の目がそちらへ寄る」
その一言で、広場の空気が決まった。
誰も賛成とは言わない。
だが誰も止めない。
ハルトが一歩だけ前へ出かけて、やめた。
喉元まで来た言葉を、飲み込む顔だった。
シオンは泥に落ちた青い布を拾った。
冷たく濡れて、土の匂いがした。
「……わかりました」
それだけ言って、広場を出た。
夕方、村を離れる時、納屋の前に老婆が立っていた。
「置いとくよ」
小さな声だった。
「小樽も、ソリも、板も、布も。見つからんようにな」
「見つかったら捨てられます」
「年寄りの納屋なんざ、誰も丁寧に見やしないさ」
シオンは少しだけ目を閉じた。
礼は言わなかった。
言えば、本当に終わる気がした。
南の旧道を半里ほど下った、朽ちた祠のそばで荷車を止める。
本当は、そのまま遠くへ行くつもりだった。
追い出したのはあの村だ。
見ないふりをしたのも、止めなかったのも、あの村だ。
助ける義理など、どこにもない。
荷車の向きをさらに南へ変える。
明日の飯も、水も、寝床も、この荷車に積んである。
仔馬に鞭を入れれば、それで終わりだ。
だが、空気が重かった。
昼からずっと水音が鈍い。
北斜面の土は嫌な湿り方をしていた。
鳥がいない。
風も妙に止んでいる。
「……知るか」
吐き捨てた声が、自分で嫌になった。
戻れば助けられるかもしれない。
戻ったところで、礼など言われないかもしれない。
また都合よく使われるだけかもしれない。
それでも、泣き声は届いてしまう気がした。
シオンは祠の石段に腰を下ろす。
一晩だけ見る。
何もなければ、朝には去る。
そう決めた。
夜半、岩山が鳴った。
低い地鳴りだった。
遠雷に似ていて、それより重い。
次の瞬間、北の空に鳥の群れが黒く跳ね、村の鐘が鳴った。
続いて、山が崩れる音がした。
雪解けで緩んだ斜面が裂け、岩と泥が一気に流れ下る。
北柵の向こうで何かが折れ、悲鳴が重なった。
シオンは立ち尽くした。
助けたくなかった。
本気で、助けたくなかった。
なのに、風に乗って届いた子どもの泣き声が、知らなかったことにはさせてくれなかった。
井戸端で見た、片足だけ履物のなかった子どもの顔が浮かぶ。
シオンは目を閉じた。
一拍。
二拍。
「……くそっ!」
怒鳴って手綱を掴む。
仔馬が跳ねるように駆け、荷車が石を打って火花を散らした。
村に着いた時には、北端の家々がもう泥に呑まれはじめていた。
「道を空けろ!」
シオンの声が、濁流と怒鳴り声を裂いた。
振り向いた村人たちの顔が、月明かりに白く浮く。
後ろには空の荷台。
両脇には縄と板と油布。
今度は誰も、それが何のためか聞かなかった。
「北の旧道はまだ生きてる! 二列で歩くな、沈む! 青い布の見える方へ流れろ! 歩けるやつは水と子ども! 担げるやつは怪我人! 泣いてるだけのやつにも袋を持たせろ! 一度に抱えるな、小分けにして運べ!」
村長が目を見開いた。
「シオン……!」
「話はあとです! 人を割ってください! 動ける者、担げる者、水を回す者で分ける! 止まってるやつから死にます!」
言葉に押されるように、村長が息を呑む。
その顔にはもう怒りではなく、判断を待つ者の色が浮かんでいた。
「……聞いたな!」
村長が振り向いて怒鳴る。
「歩ける者は青い布を追え! 担げる者は怪我人へ回れ! 子どもを一人にするな! 動け、止まるな!」
人が一斉に動き出す。
まず青い布が役に立った。
夜道の枝から枝へ続く青が、怯えた村人たちの足を迷わせなかった。
暗闇の中で、何を信じればいいかわからない者たちが、ただその色だけを追って進んでいく。
「青いのを見ろ!」
「そっちだ、そっちへ寄れ!」
次に、小分けにした水が効いた。
大樽のままでは転がせず、奪い合いになっていただろう。
だが小樽なら子どもでも抱えられる。ひとつ落としても全部は失わない。
「水がある!」
「ひとりひとつでいい、回せ!」
ハルトが崩れた戸板のそばで倒れていた。
脚が石材に挟まっている。
血より先に、骨の座り方が悪いとわかった。
「引くな! そのまま引けばもっとずれる!」
シオンは飛び込み、板を差し込み、縄を通した。
「三人、こっちだ! 頭側を支えろ! せーので浮かせる!」
「な、なんでわかる!?」
「荷を壊さず運ぶ側だからだ!」
てこの要領で石材を浮かせる。
ハルトの脚が抜けた瞬間、悲鳴が夜を裂いた。
「噛め!」
シオンは丸めた布をハルトの口へ押し込み、折れた脚を板で挟んで固定する。
「歩くな。お前はソリだ」
その時、納屋の戸が勢いよく開いた。
老婆だった。
「隠しといたよ! さっさと持っていきな!」
奥には小さなソリが並んでいた。
小樽、板、乾いた袋、巻いた縄。
そして戸口には、夜でも見える青い布。
老婆は張りのある声で叫ぶ。
「青い布の見える方へ行け! 北端は捨てろ! 集会所裏へ寄せるんだ! ソリを回せ!」
その一声で、人の流れが変わった。
怯えた顔のまま、それでも布の見える方へ進んでいく。
昼には不安の印だった青が、今は命の道しるべになっていた。
途中、土壁の崩れかけた家の前で女の声がした。
「こっち……! お願い!」
井戸端にいた女だった。
子どもを胸に抱え、膝まで泥に沈んでいる。
片脚が梁の下に食われていた。
シオンは荷車を止める。
後ろには怪我人を乗せたソリ。
前には今にも落ちそうな梁。
ここで足を止めれば、後ろの流れも止まる。
「その子、寒がりなんです」
女は震える声で言った。
「置いていかないで」
シオンは子どもを抱き上げた。
軽かった。
驚くほど軽かった。
女の手が、泥だらけの指でシオンの袖を掴む。
一瞬だけ、引き上げられるかもしれないと思った。
その瞬間、頭上で木が軋んだ。
「離せ!」
シオンが叫ぶのと同時に、女の指から力が抜けた。
梁が落ちる。
泥が跳ねる。
シオンは振り向かなかった。
振り向けば足が止まるとわかっていた。
荷運び係は、全部を運べる仕事じゃない。
運べないものを、その場で選ばされる仕事だ。
「行くぞ!」
怒鳴って荷台へ子どもを乗せる。
車輪が泥を噛み、荷車が軋む。
三度目の往復で、片輪が石を噛んだ。
鈍い音とともに荷車が傾く。
「板だ! 板を入れろ!」
シオンは即座に荷を下ろし、板を噛ませ、油布をかぶせて無理やり泥を越えさせる。
事前にまとめていた板と油布が、また人を生かした。
ハルトがソリの上で顔を歪めながら叫んだ。
「次の布、右だ! 左は浅く見えて中が抜けてる!」
シオンが一瞬だけハルトを見る。
「見てたのか」
「……見てたよ」
歯を食いしばりながら、ハルトは言った。
「わかってたわけじゃねえ。でも、お前がやってたことが、捨てるようなもんじゃねえのは見えてた」
その時、車軸が悲鳴を上げた。
最後の荷を乗せたところで、とうとう車軸が折れる。
荷車が横倒しになり、片輪が泥に沈んだ。
もう直らないと、一目でわかった。
それでも、その荷で最後の子どもを運びきれた。
夜明け前、避難した村人たちは旧道の先へほぼ逃れ終えていた。
北端の納屋は潰れ、畑の半分は泥に沈み、シオンの荷車は折れたまま道端に転がっている。
助かった者がいる。
助からなかった者もいる。
湯が沸き、怪我人に布が当てられ、泣き疲れた子どもたちの声も細くなった頃、村長がシオンの前まで来た。
何か言おうとして、一度、言葉を飲み込む。
それから村長は、壊れた荷車を見た。
折れた軸。泥に沈んだ片輪。結び直された青い布。
「……お前を外へ出した」
それだけ言って、しばらく続けられなかった。
「わしは、見えていなかった」
深く頭を下げたのは、そのあとだった。
だがその姿を見ても、失われたものまで戻るわけではなかった。
シオンは何も言わなかった。
答えれば、喉の奥に詰まっているものまで出そうだった。
ハルトが松葉杖代わりの棒を突きながら前へ出る。
その手には、泥にまみれた青い布があった。
「……これ、戻していいか」
誰に聞くでもないような声で言って、ハルトは折れた荷車の残った車輪へその布を結びつけた。
一度失敗し、指が震えてほどけ、もう一度やり直す。
今度はきつく、固く結ぶ。
それを見ていた子どもがひとり、またひとりと立ち上がった。
納屋から運び出された残りの布を手に、旧道の枝へ結んでいく。
「こっち」
「青いの、見える」
「ここならわかる」
荷台で助けた子どもが、毛布にくるまったまま座っていた。
母を探すように何度か顔を上げて、それでも泣かず、小さな手で青い布だけを握り締めている。
村長はその子を見て、それから旧道の先を見た。
「あの道を、残したい」
かすれた声だった。
「備えを笑ったことまで、消えるわけじゃない。だが、あの布まで無かったことにはしたくない」
少し間を置いて、村長は続けた。
「戻れとは、今は言えん。そんなふうには言えん。ただ……お前が結んだものを、ここに残していいか」
シオンは壊れた荷車を見た。
木のひび。
潰れた車軸。
泥に沈んだ片輪。
一晩で壊れたものは多い。
戻らないものもある。
泥の中へ消えた女の手も、まだ目の裏に残っていた。
しばらく黙ってから、シオンは子どもの握っていた青い布を受け取った。
そして折れた荷車の軸へ、もう一本きつく結ぶ。
「……すぐには決めません」
村長はうなずいた。
それでよかった。
朝の風が吹く。
旧道の枝から枝へ、青い布が一本ずつ揺れた。
夜に見失わないために結んだものが、夜を越えたあとも、まだそこに残っていた。




