第2話
「いやあ。森さん、ほんと可愛い!」
「ねえ、その髪、マジで染めてないの? 地毛でこんな綺麗な色なの?」
「……あ、えっと。はい。……いえ、そんなことないですよ」
サークルの新入生歓迎会が始まって、もう一時間近くが経つ。
私は初対面の先輩たちに半円状に囲まれ、さっきから壊れたレコードのように同じ質問と謙遜を繰り返していた。
頬の筋肉が強張り、貼り付けたような愛想笑いが引き攣り始めているのが自分でもわかる。
グラスの水滴がテーブルに輪じみを作っていく。
それを見つめている私を、別の私が、少し遠くから見つめているような感覚になる。
小学校から高校まで、私の背中には常に「近寄りがたい美少女」というラベルが貼られてきた。
過度に持ち上げられ、期待され、そして『意外とこうなんだね』『もっとこうかと思ってた』と、一方的に失望されることもしばしばあった。
実際の私は、人見知りで、少し子供っぽくて、よくドジもする。
周囲の瞳に映る「森美絵」と、ここにいる「本当の私」の乖離に、私はいつも居心地の悪さを感じていた。
「森さんはさ、こんな綺麗なのに野球好きなんて意外だね! 絶対サッカー部のマネージャーとか、テニスとか似合いそうなのに」
『意外』という言葉に、少し身構えてしまう。
私は曖昧に微笑んで、烏龍茶に口をつけた。
地方から上京し、知り合いもいない東京での生活。
この「スポーツ観戦サークル」に入ったのは、人付き合いの少ない私が孤独を極めないための策であり、そして何より、私が野球観戦を好きだから。
好きになったきっかけは、大の野球好きである父の影響が大きい。
けれど、本当にそのスポーツに夢中になったのは中学時代。
マウンドという、グラウンドで一番高い場所。
たった一人でボールを握り、打者と対峙する「彼」の背中を見てからだ。
その孤独で勇敢な姿は、言葉にできない引力で私を惹きつけた。
(……今日は、帰りたいかも)
ふと、そんな本音が漏れそうになる。
賑やかな笑い声、アルコールの匂い、煙草の煙。
自分の居場所を作れたら嬉しいと思い、参加させてもらったけれど、心のどこかでは、この喧騒から逃げ出して布団に潜り込みたい自分がいる。
体調不良と言って、少し早めに帰らせてもらおうか?
そう考え、幹事の先輩の姿を探していた時だった。
ガタガタガタ、と入り口の引き戸が開く音がした。
澱んだ店内の空気を切り裂くように、春の夜風がふわりと流れ込んでくる。
現れたのは、入り口の鴨居に頭が届きそうなほど背の高い青年だった。
少し日に焼けた肌。
穏やかだが、どこか意志の強そうな眉。
それが、記憶の中のピースにピタリとはまる。
あの頃よりずっと大人びて、線の細かった肩幅も広くなっている。
けれど、その纏っている静かで優しい空気ですぐにわかった。
「………瀬川、くん?」
思考するより先に、名前が唇からこぼれ落ちた。
――瀬川 祥太郎くんだ。
あの緑豊かな中学校で、いつもマウンドに立っていたエースピッチャー。
私に気づいた彼が、驚いたように瞳を大きく見開く。
視線が絡み合った瞬間、ドクン、と心臓が大きく跳ねた。
時間が止まる、というのは比喩ではなくこういうことなのだと知った。
周囲の雑音が遠のき、世界には私と彼しかいないような錯覚に陥る。
天井にある安い居酒屋の白い蛍光灯が、私の一瞬の記憶の中で、あのグラウンドに降り注いでいた強い西日のオレンジ色に塗り替わった。
◇
「え、ちょっと待って。整理させて」
正人がジョッキをテーブルにドン、と音を立てて置いた。
その勢いで中身が少しこぼれたが、彼は気にする様子もなく、僕と、目の前の彼女――森さんを交互に指差した。
「つまり、祥太郎と森さんは、福島の同じ中学出身。お互い同じ大学に入ったことも知らなかったのに、今日この東京のど真ん中、しかも同じサークルの新歓で再会したってこと?」
森さんは、小さく頷く。僕も烏龍茶を飲みながら答える。
「……そうだな」
「すっげー! なにそれ! ドラマじゃん!」
正人の大声に、隣のテーブルの学生たちが何事かとこちらを向く。
森さんは少し居心地が悪そうに、手元のアイスティーのストローを触っている。
もしかして、こういう場は、苦手なのかもしれない。
それか、人見知り?
いや、正人の声がでかすぎて驚いているのかも……。
「正人、声でかいぞ」
「すごーい! それって運命じゃない?」
近くで話を聞いていた先輩たちの冷やかしに、森さんが慌てて手を振る。
「あ、本当に偶然で……!」
その否定の仕方がやけに一生懸命で、僕は少しだけ胸がチクリとした。
わかってる。彼女にとって僕は、ただの同級生Aに過ぎない。
そこは、きちんとわきまえている。
「二人は接点あったの?」
周囲の問いに、僕は喉の渇きを覚悟して口を開いた。
「いや、ほとんどなくて。森さんはなんていうか……有名だったから、俺は知ってたけど」
『ずっと目で追っていたから知っていた』という事実は、手元にあったキンキンに冷えた水と一緒に飲み込んだ。
焦って汗をかいているのか、やけに喉が渇く。
すると、森さんが顔を上げて僕を見た。
透き通った瞳が、居酒屋の薄暗い照明の中で揺れている。
「……瀬川くんも、有名だったよ」
予想外の言葉に、心臓が跳ねる。
「え?」
「地元でも話題になるくらい、すごいピッチャーだったし。……私、瀬川くんの練習、友達とよく見てたから」
ドクン、と脈が耳の奥で鳴った。
(……本当に、見ていてくれたんだ)
二度目に彼女と話したあの日。
夕暮れの公園で、怪我をして絶望していた僕に、彼女は似たような言葉をかけてくれた。
けれど、当時の僕はそれを「自分を励ますための彼女なりの精一杯の優しさ」、あるいは「ただの気休め」だと思い込もうとしていた。
でも、今。彼女の言葉に宿る確かな実感に、僕は息を呑んだ。
本当に、あの「高嶺の花」の視線の先に、泥だらけの僕がいたのか……。
その事実に、今更ながら激しい動揺が押し寄せる。
「マジかよ祥太郎! お前、隅に置けねーな!」
正人がニヤニヤしながら僕の肩をバシバシと叩く。痛い。
けど、今はその痛みがありがたかった。
でなければ、顔が熱くなっているのを悟られてしまいそうだったから。
「あ、でも!」
森さんが慌てて付け加える。
「そういうんじゃなくて、なんていうか、尊敬……みたいな? ひとりで投げててすごいなって。……あ、ごめん、変なこと言っちゃった」
シュン、と小さくなる彼女。
「ハハ! いずれにせよかっけーな祥太郎! あ、森さん。枝豆食べたら?」
正人はカラッと笑いながら、さりげなく枝豆に話題をすり替えた。
「……うん。ありがとう」
差し出された枝豆を、森さんがリスのように小さく口に運ぶ。
その姿を見て、僕は改めてこの現実が信じられなかった。
中学時代の彼女は、僕の中で「聖域」にいる存在だった。
汗をかいても美しい、笑顔は太陽、完璧な美少女。
でも今、目の前にいる彼女は、人見知りで、焦ったりして、枝豆をもぐもぐと食べている。
(なんだか……)
高嶺の花が、急に地面に降りてきたような。
いや、違う。
僕が勝手に偶像化していただけで、彼女も普通の女の子だったんだ。
その事実に気づいた瞬間、緊張の糸がほんの少しだけ緩んだ。
同時に、かつてとは違う種類の、もっと温かくて柔らかい感情が、胸の奥で芽吹き始めるのを感じた。
「……あ、俺も枝豆もらっていい?」
「あ、どうぞ。……美味しいよ、これ」
森さんが皿を少しこちらへ押し出してくれる。
一体これは、どういう状況なんだ。
枝豆を噛みながら、混乱した頭を落ち着かせようと試みる。
僕の人生に、突然、再び、彼女という光が現れた夜だった。




