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第1話

都心の雑居ビルに足を踏み入れると、埃と油が混じったような匂いが鼻をついた。

定員オーバーぎりぎりの狭くて古いエレベーターが、ガタン、と鈍い音を立てて5階に停止する。

目的地の居酒屋は、閉まった扉の隙間から、薄い光とともに、春の熱気や、安っぽい揚げ物の匂いが漏れ出ている。


大学入学を機に福島から上京して、早一ヶ月。

似たようなコンクリートのビルが立ち並ぶ、都会はまるでジャングルのようだ。

なんとか迷わずにここまで辿り着けたのは、上京してから幾度となくお世話になっている、このマップアプリのおかげだ。

今日はここでサークルの新入生歓迎会が開催されている。少年野球のコーチのアルバイトが予想外に長引き、時計の針は開始時刻をとうに一時間ほど過ぎていた。


重たい引き戸に手をかけ、力を込める。

ガタガタガタ、と建て付けの悪い音が鳴ると同時に、店内の喧騒が聴覚を奪った。

グラスがぶつかる音、誰かの爆笑、注文を叫ぶ店員の声。


「――しょうたろおおお! おっせーぞお!」

入り口で立ち尽くす僕を見つけ、すでに茹でダコのように顔を赤くした男が大きく手招きをしている。

同じクラスの正人だ。

コーチのバイトに加えてファミレスの掛け持ちもしている僕は、当初はサークルに入る気はなかったのだけれど。

この正人の押しに負け、まずは入部することにしてみた。


奥にいる正人に軽く手を挙げて挨拶し、まずは幹事の先輩へ声をかける。

「すみません、遅くなってしまって」

「お疲れ! スポーツ観戦サークルへようこそ。 コーチのアルバイトなんてすげえなあ! ま、とりあえず座れ座れ!」

正人の隣の席が空いているように見えるので、そちらへ向かう。

入部手続き等で、部室には数回顔を出したのだが、チラッと見る限り、同期らしきメンバーの中にもまだ初対面の面々が多そうだ。

周囲の人に軽く会釈をしながら木製の椅子を引き、なんとなく視線を上げた、その時だった。

正人の向かい側に座る人物と、視線が絡み合う。


一瞬にして、安っぽい洋楽のBGMも、耳をつんざくような笑い声も、すべてが真空に吸い込まれたように消え失せた。

世界から音が消え、色彩だけが鮮やかに焼き付く。


記憶にあるよりも少し伸びた、鎖骨にかかる栗色の髪。

琥珀色の照明を受けて艶めくその髪の奥にある、大きくはっきりとした瞳。

その瞳もまた、驚いて見開かれ、僕を射抜いている。

「……え」

声にならない吐息が、唇からこぼれ落ちた。

ーーこれ、夢か?

全身の血流がドクン、と音を立てて逆流するような目眩をおぼえる。

そのことが、信じられないがこれは現実なのだということを僕に悟らせる。


そこにいたのは、僕にとっての「高嶺の花」――森美絵だった。


四月の東京の蒸した夜が、一瞬で、あの透き通った福島の風に塗り替えられていく。



彼女を初めて知ったのは、中学一年の初夏だった。

入学当初から、「あのクラスに『モリヨシエ』という美少女がいる」という噂は、砂埃のように校内を舞っていた。

野球のことにしか頭になかった僕は、その噂を、聞いているようで聞いていなかったのだけど。


小学校入学と同時に、父が監督をしていた地元の少年野球チームに所属した。

三年生の時にピッチャーとしての才能を見出され、そこからは白球を投げること以外に興味をまったく持てなくなるくらい、日々のめり込んでいった。

練習は厳しかったが、マウンドという孤独な場所でバッターをねじ伏せ、チームの勝利を背負う感覚は、何物にも代えがたい高揚感があった。

家では無口な父が、僕の成長を心から応援し、喜んでくれる姿が、誇らしく、嬉しくもあった。


そんな野球少年が、初めてマウンド以外で足を止めた日。

大事な試合を翌日に控え、いつもより早めに練習を切り上げて校舎へ向かっていた。

(人差し指を、もっと外側に置いてみたらどうだろう)

マメや土汚れでカサカサした手のひらを眺めながら、ボールの握りについてあれこれ考えながら歩いていた時。

ふと目に入った、グラウンドの隅。

陸上部の高跳びエリアで、重力を忘れたようにひらりとバーを越える影があった。

柔らかいマットの上に着地した彼女は、起き上がりざま、仲間と顔を見合わせて弾けるように笑った。


ーーその瞬間、僕の周りの音が遠のいた。

夏の強い日差しも、セミの鳴き声も、彼女のその屈託のない笑顔の前では色褪せて見えた。

名前を聞くまでもない。あんな笑顔を持つ人がいたら、誰だって噂をするに決まっている。

それは「好き」という感情よりも、夜空の流れ星を見つけた「奇跡」に近いものだった。


三年間で、同じクラスになることはなく、言葉を交わしたのはたったの二度。

一度目は、キャッチボール中にボールが逸れて、トラックをランニングをしていた彼女の足元へ転がっていった時。

「……どうぞ!」

拾い上げたボールを差し出す彼女の指先は、小さくて白く、少し照れたように細められた目は、直視できないほど眩しかった。

「あ……ありがとう」

僕は帽子のつばを目深に下げながら一言だけお礼を伝え、逃げるようにマウンドへ戻ることしかできなかった。

ボールに残った微かな熱だけが、いつまでも掌に残っていた。


そして二度目は、中学三年の夏。

ーー中学生の僕の世界が終わった日。

肩を壊してピッチャーを続けられなくなり、項垂れる僕に声をかけてくれた時だ。


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