護国の聖女の置き手紙 〜国を守る唯一の存在であるわたくしを冷遇したため、残念ですがこの国は滅びます〜
「『護国の聖女』──いや、公爵令嬢アストリア・ダーレス!」
それは審判の場。王宮の大広間に呼び出されたアストリアは、王太子フィリップスの宣告をただ項垂れて聞いていた。
「まず、この国はダーレス家の『護国の聖女』によって守られている、などと民衆はもとより王族や国を謀った罪は重い!」
「……謀ってはおりません」
ドレスに埋もれそうなほど痩せ細り、声も掠れてかろうじて聞き取れるほど。美しき銀髪も夜空のような青紺色の瞳も輝きを失い、十八歳の貴族令嬢としての美しさのない惨めな姿。しかしそんなアストリアの反論を、フィリップスは忌々しそうに一蹴した。
「国を守る結界のことなら、別にきみが展開する必要はない。事実、君の義妹であるエーリースは、ダーレス家の血を引いていないにも関わらずきみ以上の範囲と強度で結界を張ることができている。知らないとは言わせないぞ!」
と、フィリップスの隣に立つプラチナブランドとアイスブルーの瞳の美女──エーリースを指す。エーリースも「まったくですわ」と頷いた。
「国を守るために魔力を惜しまず使っているそうだけど、あれだけのことで魔力を使い果たすほどのひ弱な魔力量でよく大口を叩けたもの。それでダーレス家の跡継ぎを名乗り、さも献身していると言い張るなんてどこまで面の皮が厚いのかしら」
「それは……」
アストリアは何かを口にしかけ、しかし諦めたように唇を噛む。
「これは決定事項だ。満足に務めを果たせず、さりとて別の者に役割を引き継がせずただ居座るだけの聖女などこの国には不要。きみには直ちに次期公爵の地位を退き、エーリースにその座を明け渡すが良い」
「……いけません、殿下。エーリースはダーレス家の血を引いておりません」
「跡継ぎのことなら心配はいらない。既にきみのお父上、公爵代理殿に話を付け、エーリースと私の子供が次代公爵となる」
王族とダーレス公爵家は何度も王妃の輿入れや王女の降嫁を交わしており、密接な関係である。事実、第二王子であったフィリップスも、第一王子のハワードが不慮の死を迎えるまではアストリアの婿として公爵家に入る予定だった。
「わかるか? きみがそうやってしがみついていられるほど、きみ自身の価値など公爵家にもこの国にもない」
「……わたくしをどうなさるのですか」
乾いて冷え切った問いに、フィリップスは苛立たしげに答える。
「本来なら国を謀った罪で処刑か国外追放といったところだが、きみにはかつての婚約者としての情がある。ダーレス家の領地で蟄居し一生を終えることだ」
「……では、そのように」
疲れ切り、絶望に浸った声で頷くアストリア。
退出を命じられ、おぼつかない足取りで出ていく彼女を、エーリースは鼻で笑った。
「お義姉様はあの健気な素振りが板に染み付いてしまったのね。そんな風にアピールしたって、無能は無能のままなのに」
「よさないか、エーリース」
兵士や使用人たちの手前、エーリースを嗜めるフィリップスだったが、内心ではまったく同意見だった。
──護国の聖女。ダーレス家の女性は類い稀なる魔力を持ち、それにより国を守ってきた。結界を張り、魔獣を退け、傷や病を癒す力。
しかしアストリアはろくに結界も張れないどころか魔獣除けの魔法も治癒魔法もほとんど使えない。おまけに陰気で、フィリップスが何を話しかけても鬱々とした調子で答える。フィリップスが王太子になったことで婚約が解消され、公爵家を継がない義妹のエーリースが婚約者となったが、そんなことがなくともあの陰気な顔に耐えられず婚約解消に至っていただろう。
一転、エーリースは優秀だ。元は下位貴族の出身だが魔力量も魔法も申し分ない。ダーレス家の聖女をいたずらに贔屓する慣習など終わらせ、真に優秀なものを取り立てるべきだ──というのがフィリップスの考えだった。
「領地の寒村で、地位と名誉にしがみつくことの愚かしさを思い知るが良い」
誰にも聞こえないような小声でそう吐き捨てるフィリップスだった。
半年前、兄が急死し、それからほとんど間をおかず父である現王も病に冒された。
兄、ハワードの死因は不明。暗殺が疑われたが、身体に人為的な傷はなく、毒殺された痕跡もない。ただ、寝台の上で息を引き取っていた。
「ストレスにより心臓の病を引き起こしたのでしょう」
恐怖に強張り、助けを求めるような表情で死んでいるハワードに、宮廷医はそう結論づけた。数日前まで健康そのもので、まだ若い兄が心臓を病むだろうかと疑問はあったが、しかしそれ以外に死因は考えられない。
父の病も不可解で、身体的なものではなく精神的なものだった。酷く怯えた様子で、人前どころか自室から出ることすらできない。時折引きつけのような発作を起こして手がつけられず、当然公務を行うなど不可能。
今まで公爵家の入婿としての勉強に励んでいたフィリップスだったが、王家の異変によって王太子にならざるを得なかった。そして、父王も名ばかりでお飾りにすらならない有り様。早晩王位を得なければならないが、今の自分では人脈も王子としての政治力も足りていない。
そこで、即位にあたって申し分ない実績を作り、貴族からの信頼を得ることがフィリップスの優先事項だった。
アストリアの追放もその一環だった──長年婚約者として共にいた相手に対しては苛烈すぎる処置だったと自覚はしているが、現代において『護国の聖女』という制度は非合理極まりなかった。魔力を擦り減らして倒れかける無能な令嬢をいつまでもその地位に置き続けるより、より優秀な人員を起用するべきだ。
聖女頼りだった国の結界や魔獣退治の方法の見直し、治療師の増員、派遣など、積極的に改革を行なっていたその矢先だった。
「アストリアが亡くなった?」
「はい。自室内で衰弱死をされていたと」
ある日の王太子執務室で、フィリップスはそんなことを従者から聞かされた。
気位の高い彼女のことだ、処罰を申し渡せばすぐに絶望し、自ら毒杯をあおることもあるかもしれないと思っていた。
しかし、衰弱死とは?
「寒村の中の邸といえど、使用人がいただろう」
さすがに侍女や従者をつけずに放り出すほどフィリップスも冷酷ではない。蟄居させるにあたって、生活に最低限度必要な使用人の手配はしていたはずだ。飢え死になどそうそうするわけがない。
「領地に移られて二日後にはもう亡くなっていたと……立ち会った医師の診察では、心身の負担に耐えきれなくなったのだろう、と」
「ふん、まあいい」
驚きはしたが、今の自分と彼女は他人だ。書類仕事に戻ろうとしたフィリップスに、従者が何かを差し出す。
アストリアの個人印が封蝋に刻まれた手紙であった。
「……これは?」
「アストリア令嬢の遺言で、自分の死後これを殿下に渡してほしい、とおっしゃられたそうです」
大方、自分を追いやったフィリップスに対する恨み言であろう。フィリップスはため息をつきながらも封を開けた。
アストリアもかつてはあんなに暗い女ではなかった。幼少の折に婚約し、その頃はよく笑う明るく淑やかな少女だった。それが、先代公爵で聖女だった母親が急逝した十二歳の頃から突然変貌したのだ。
常に落ち着かなくなり、奇妙な訴えをするようになった。邪悪で悍ましい怪物がいて、それが恐ろしくてたまらない、と──大方母親を亡くして爵位と聖女を引き継ぐことの不安からくる虚言であろう、と取り合わなかったが。
聖女として務め始めたアストリアはフィリップスとの交流もあまり行わなくなり、義妹のエーリースが代わりにフィリップスの相手をすることが増えた。見ているだけで気が滅入る女と、明るく華やかで才能に溢れる美少女。フィリップスの心がエーリースに傾くのは無理からぬことだった。
(それでも、聖女という立場に押し潰されかけていたきみをそこから解放したのだから、感謝してほしいものなんだがな──)
聖女を辞め、ただひとりの女として生きれば、かつての明るさを取り戻すことができなくとも心穏やかに過ごせはするだろう。そこまで考えての処断だったのだが、どうやらフィリップスの心は通じなかったようだ。
封筒に入っていたのは何枚もの便箋に及ぶ長い手紙だった。執務の合間に読むにはやや面倒だったが、読んでやるくらいと義理はある、と目を通し始める。
しかし、文面を追ううちに、だんだんとフィリップスの目は見開かれていった。
『拝啓 フィリップス・アウグスト・ラムレー王太子殿下
この手紙を貴方様が読んでいらっしゃるということは、わたくしは既にこの世を去っていることでしょう。
どうせ、恨み言のひとつでも吐き出したかとお思いでしょうか。
決して、それがないとは言えませんが。
この度、この手紙を綴りますのは、ひとえに貴方様に謝罪しなければならないからです。
国と王族を謀った罪。ええ、確かに。
わたくしは、わたくしたちダーレス公爵家の聖女は、多くの方に嘘をついておりました。
しかし──『護国の聖女』がまやかしである、という殿下の主張には異を唱えましょう。
そして、今一度問います。
なぜ、下位貴族程度の魔力でも張れるような結界を、低級魔術師でも行える魔物避けを、治癒術師が行うべき治癒を、ただそれだけのことを行う者が『聖女』と呼ばれるのでしょうか。
それだけのことで、『護国の聖女』だと大仰な名と公爵位を賜われるものだと、なぜお思いでしょうか。
世の中には明かすべきではないこと、秘すべきこと、仮初の大義名分を用意してでも公にしてはならないことがございます。
ダーレス家の職務とは、秘儀とは、まさしくそういうことなのでございます。
少々突飛なことを記しましょう。
この国──いえ、この世界には、神とも魔物ともつかぬ、形容するに困難な悍ましい存在があるのです。
名をつけて呼ぶことすら憚られるその存在を、仮に『それ』と呼びましょう。
『それ』は、この世界の裏側に常に存在します。我々貴族が、平民が、奴隷が、日々変わらぬ営みをするのを、その隣で常に見つめ、時に舌舐めずりをしながら付け狙っているのです。
そして、ふとした拍子に我々が『それ』の近くに迷い込んだり、はたまた『それ』が前触れもなく我々の前に現れ、牙を剥いて餌食にしてしまうのです。
そんなモノがいるはずない? 見たことがない?
当然です。
『それ』からこの国を守るのが、我々『護国の聖女』の役割でしたから。
遥か昔──この国が成立して間もない頃、『それ』の存在によって人々が怯え、正気を失い世が乱れたことがありました。調査と探索の結果、ダーレス家の特異な性質を持つ魔力が『それ』の目から人々を隠し、『それ』を遠ざけるということがわかりました。
それ以来、ダーレス家の女(その性質の魔力は、どうしてか女性にしか遺伝しないのです)は公爵位を賜って国から保護され、『聖女』としてこの国と人々を守る職務を担うことになりました。
貴方様の言う、『わたくしが爵位と地位にしがみついていた』のはこれが理由です。
納得いただけたでしょうか。
しかし、この職務には少々厄介な問題がいくつかありました。
まず、国全体を『それ』から守る魔力で覆うため、聖女は常に結界を張るより何百倍もの魔力を使うことを強いられること。これにより歴代聖女は心身を消耗し、短命の定めにありました。
加え、『それ』の存在を公表できないこと。魔物より、神より恐ろしく強大な存在が容易く人を弄ぶなどと世に知られてしまえば、国全体が大恐慌に陥るでしょう。これは厳重に秘され、やがてダーレス家と王家しか知らぬ秘中の秘となり、王家も王と後継者しか知らぬこととなりました。ダーレス家においても、聖女とその配偶者、聖女が指名した跡継ぎにしかこれは知らされず、決して公言してはならないと取り決められております。
そしてもうひとつ──聖女が使う魔力量が代を追うごとに増え、聖女の寿命が年々短くなっていること。
お母様が亡くなったのは三十にも届かぬ歳でした。お祖母様は四十歳までは生きたというのに。
十二歳で職務を受け継いだわたくしは、果たしてあと何年生きられるだろうか、と日々不安でたまりませんでした。
実際、日に日にわたくしの魔力と体力はやすりで削られるように失われていきました。今日やっと必要分を出し終え、翌日を迎えたと思ったら、今度は昨日の倍を出さなければならなくなっている、というような。
ええ、お父様にも相談いたしました。けれどあのボンクラ──失礼、元侯爵令息様は、母やお祖母様の仕事を最初から理解していなかったのです。
『たかが魔力を出すだけでくたびれるのは、お前たちの努力と工夫が足りないからだろう?』などと言って。
そのうちに何処の馬の骨とも知れぬ女と、それを孕ませて生ませた娘を迎え入れ、それを養女にすると言い出しました。『いざとなればこの子にお前の仕事を手伝わせればいい』と言って。ええ、そのままわたくし亡き後、その娘を聖女の地位につけて公爵家を掠め取ろうという算段だったのでしょうね。
エーリースが、わたくしと血が繋がっていないというのも、だから嘘になりますわね。ついたのはわたくしではなく、お父様ですが。
殿下、エーリースは立派に働いていらっしゃいますか? わたくしのように努力と工夫が足りないということはなく、命を削らずに悠々と勤めを果たしているでしょうか?
ならば何故王家に相談しなかった、とお思いでしょうか。
しないはずがありませんわ。聖女の生死はそのまま国難に繋がりますもの。
その結果が国王陛下と前王太子殿下の末路でいらっしゃるのです。
魔力量が日に日に多く吸われ、わたくしもいつ倒れるかわからない。そう相談して、国王陛下が何を仰られたか想像できましょうか。
『そんな怪物がいるのなら、聖女ひとりに任せず、国をもって対処をするべきだ』、と。
ええ、国王として正しいお言葉です。本来であれば。
しかし、常に『それ』の脅威に晒されるダーレス家と違い、口伝でしかその存在を知らされない王家は、その脅威を正確に理解できていませんでした。
空を覆い尽くさんばかりの『それ』に対し、たかだか人間の軍隊数万人が何をできましょうか。
わたくしが試しに魔力を止め、『それ』の姿を国王陛下と前王太子殿下にご覧に入れた結果、お二方はひどく狼狽し狂乱しました。
『努力不足だ、甘えだ』
『今代の聖女は軟弱でいらっしゃる』
などと吐き捨てたお二人が恐怖のあまり這いつくばって失禁される姿は、いっそ痛快でありましたわ。
……結果前王太子殿下のご崩御や国王陛下のご乱心を引き起こしたのですから、罪人として追放されるのも当然の所業と理解しております。
何故、自分には何も言わなかったのか、と思っていらっしゃいますでしょうか。
殿下はすっかりお忘れでしょうけれど、言いましたのよ。母が亡くなって数ヶ月後、どうしてそんなに怯えているのか、と貴方様が仰ってくださったときに。
でも、その頃のわたくしはまだ事の重大さをはっきり理解しきっておらず、殿下にもきっと理解していただけると思ったのです。わたくしたちがどれほど恐ろしい怪物と対峙し、命を削っているのかを。
『それ』を見た殿下は、やはり恐怖で錯乱し、そしてその記憶をすっかりなくしてしまいました。わたくしの言葉をすべて嘘だと決めつけ、何も理解してくれようとはしなかったのです。
思えばわたくしの心は、あの頃既に折れていたのでしょうね。
何も信じられず、頼れるものがないままに、自分の命を捧げる人生を送るしかないとわかってしまいましたから。
どうして信じてくれなかったのでしょう。恐怖するのは当然として、何故わたくしも同じ思いをしているとお考えにならなかったのでしょう。
何故、わたくしひとりだけこの地獄に置き去りにして、嘘つき呼ばわりをして、自分ひとり呑気に生きていられたのですか?
ええ、殿下。わたくしは確かに国を謀り、悪逆を行った大罪人でございます。
でも、もう疲れたのです。
たったひとりで『それ』に怯えながら、いつ来るかわからない死の定めを待つことに。
父と義妹の愚かしさに。貴方がた王家の無理解さに。
どうせ早晩尽きる命なのに、どうして苦しんでまでこの国に仕えなければならないのでしょうか。
わたくしは、わたくしたちダーレス家の聖女は、いったい何のために生まれてきたのでしょうか。
確かに殿下の仰る通り、護国の聖女の任はわたくしには到底背負いきれぬ重荷でした。
王太子殿下のご英断は正しくいらっしゃいます。
こんなものにしがみつかず、逃げてしまえたら。あんなモノが存在すると知らないまま、心安らかに生きていられたら。
ダーレス家に生まれさえしなければ、聖女になんてならなかったのに。
殿下の命で僻地に送られ、この手紙を綴っているうちに、気づいたことがありました。
わたくしは既に魔力を張るのをやめているのに、まだ魔力が吸われているのです。
母より『目くらましのための魔力』と教わりましたが、本来、本質は違うのかもしれません。
ダーレス家の特異な魔力とは、『それ』が好む味をした、供犠のようなものだったのではないでしょうか。
聖女ではなく、生贄。怪物を慣らすための餌。
だから魔力を出さずとも、その味を覚えた『それ』がわたくしを追いすがり、今も魔力を吸っているのです。
どうか想像なさってください。世界のありとあらゆる動物に似て、しかしそのどれでもない醜悪な姿の集合体が、その腕をわたくしの肩に回し、顎門を首筋につけているのです。この文章を書いている今も、『それ』の息遣いが、垂らす涎が、ひたりひたりとわたくしの首に伝わります。
手が震え、椅子に座っているのも難しくなってきました。果たして明日までこの命があるものでしょうか。
さて、改めて殿下に謝罪いたしましょう。
わたくしが跡継ぎを設けぬままら聖女を辞め、命ごと魔力を吸い尽くされた結果、『それ』を阻むものはこの世からいなくなることでしょう。
それを告げないまま、自分勝手に無責任に、殿下の命に従ったことを、心からお詫び申し上げます。
どうか殿下のご健勝をお祈りいたしましょう。
残り短い命を、精一杯お楽しみくださいませ。
そしてどうか、何卒。
地獄に堕ちろ。』
さながら狂人の文章だった。
書いてあることすべてが突拍子もなく、まるで荒唐無稽。
こんなことがあるわけがない。
だというのに、読んでいるうちに心臓の拍動がどんどん速くなり、頭痛がし始めたのだ──まるで思い出したくない記憶が刺激されて苦しんでいるかのように。
「ば、馬鹿な。そんなこと──」
悪い冗談だ。死に際にこちらを呪うため、嘘八百を並べ立てたのだ。そう自分に言い聞かせようとして、外が何やら騒がしいことに気づく。
「いやああああああ! 誰か、フィリップス様、助けっ……」
「エーリース?」
彼女は今頃庭園で茶会を開いていたはずだ。エーリースの悲鳴と一緒に、恐怖に怯えたような男女の叫び声がいくつも聞こえてくる。
何事かと窓から庭園を覗こうとして。
「なっ……」
急に外が、夜の帳を下ろしたかのように真っ暗になる。まだ午後二時、日が沈むには到底早い。
何が起きている? 急に暗くなり、室内には灯りひとつない。咄嗟に炎魔法を使い、周囲を照らす。
その判断が誤りであったことを、窓の外から覗き込む『それ』を見た瞬間に気づいた。
「──ひ、」
大きな蛸が貼り付いているのだと、一瞬思った。ぬめぬめと湿った粘性のモノが、無数の吸盤によって窓に貼り付いているのだと。しかし、大量に貼り付く吸盤に見えるものが、人間のそれによく似た唇と歯によって構成されているのだとわかった瞬間、フィリップスの両脚から力が失われた。
異形の触手が、そこから生やした無数の口唇によって窓硝子を破るまで、時間はさほどかからなかった。
ぐちゅぐちゅ、と生肉を擦り合わせるような不快な音が耳元でして、頭にぬるりとした感触の生暖かいモノが触れ、
その日、ひとつの国が滅んだ。