(六)満月の夜
(六)満月の夜
かぐや姫が泣いている。十五夜の満月を見上げて泣いている。
今夜、月から迎えの使者が来るという。孤児の自分をここまで育て上げてくれた爺様と婆様との別れが、すぐそこまで迫って来た。
かぐや姫のすすり泣く声が聞こえた。が、何故か涙は出ていなかった。人はあまりにも辛い時、涙も出ないものなのかもしれない。
竹取の翁は、可愛い養女を守るために帝から二百人の軍勢を付けてもらった。兵たちは翁の屋敷を二重三重に固め、屋根の上にも数名が昇って、月からの侵入者に備えていた。
満月が厚い雲に隠れ、やがて再び現れた時には不気味な影が映っているのが地上にいる誰の目にも見えた。
「敵が来た」
屋敷を固める二百の軍勢に緊張が走る。不気味な影は接近し、徐々に大きくなってきた。やがてその姿をはっきりと捉えることができるようになった。
敵は武装してはいなかった。平服だ。衣冠束帯姿の公卿が二十人ほどと、牛車が一両。ただそれだけが、夜空の上からゆるりゆるりと近づいて来た。
「動くでないぞぉ、動くでない。動くでないぞぉ、動くでない」
低い湿ったような女の声で、呪文とも唄とも聞こえる不気味な声が響いてきた。それを聞くと不思議な事に兵たちの体が弛緩してきた。矢をつがえようとしても腕に力が入らず弓を引くこともできない。太刀に手をかけるだけで精一杯で抜刀できない。
「動くでないぞぉ、動くでない。動くでないぞぉ、動くでない」
不思議な声はどんどん近づいて来た。兵たちの体は動かない。
「妖術だ、妖術」
二百の兵を統べる大将が、思わず口にした。妖術だとしか思えない。兵たちは何も出来ないまま、月からの侵入者は竹取の翁の屋敷の門前に舞い降りた。
「かぐや姫はおるか。迎えに参った。出て来られい」
澄み切った声が、屋敷の中にまで響き渡った。
かぐや姫の全身をしっかり抱きしめていた婆の両手からも力が抜けた。
かぐや姫は泣いてはいなかった。薄ら笑いを浮かべると、婆を振りほどいて立ち上がった。驚く翁と婆を睨みつけると、奥の間にある櫃に近づき、乱暴に開け放った。「これ、全部もらって行くぜ」
砂金が詰まった袋を両腕に抱え込むと、足早に門へと向かう。
「待て。どういう事だ」
驚いた翁が問いただす。
「この金、自分で稼いだとでも思ってるの。この強欲じじい。竹を切ったら、中に有っただけじゃないの。私のために月の父上が竹に仕込んでくれた私のための金」
「孤児のお前を、赤ん坊の時からここまで立派に育て上げてくださったのは、爺様じゃないの、お前はなんて恩知らずな。爺様に謝りなさい。手を付いて謝りなさい」
「うるさい、くそ婆ぁ。竹細工を作ることと法螺話を吹聴してまわるしか能のない糞爺が、いったい誰のおかげでこんな贅沢な暮らしが出来るようになったと思っているのよ」
かぐや姫は足を大きく上げると、かかとで翁の顔面を蹴り落した。翁は横倒しになって鼻血を流した。
「太郎よ。お前は、この顔を見忘れたか。女房の顔を忘れたか」
竹取の翁は、かぐや姫が何の事を言っているのか、さっぱり見当もつかなかった。
梅の顔を全く思い出す気配さえ見せない太郎に、かぐや姫は心底あきれ果てて憎悪を増した。
「おい貴子、お前も地獄に墜ちろ」
茫然とする婆に、かぐや姫は助走をつけて跳躍し、膝蹴りを放った。婆は口から血を吐いて気絶した。
ゆっくりと翁と婆を睥睨すると、梅の化身であるかぐや姫は、顔を上げて足早に門を出た。門前には月の使者の牛車が待っている。二百人の侍たちは指一本動かすことが出来ずに突っ立っている。
かぐや姫は不敵な笑みを浮かべて両手に抱えた砂金の袋を月の従者に渡すと、牛車の中へと姿を消した。