(一)失踪
浦島太郎には女房がいた。夫が失踪し、残された女房は辛酸をなめる。50年の時を経て再会するが……。
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(一)失踪
瀬戸内海の小さな島に、若い漁師が住んでいた。名を太郎といい、島の名は浦島という。
ある日、浜で大きな亀が子供たちに虐められていた。それを見ると、太郎は駆け寄って亀を助けた。その後、どういうわけか亀の背に乗って海へと姿を消した。
翌日も翌々日も帰って来ない。漁師仲間は連日沖に船を出して懸命に捜した。しかし太郎は見つからない。
漁師が海に出て行方不明になることは、過去にもこの島で何度かあった。だが漁に出て波に呑まれたのではなく、亀の背に乗っていなくなるなど前代未聞のことだった。
太郎には女房がいた。名を梅といい、出産を翌月に控えていた。
「必ず帰って来る。あの人が私と腹の子を残して死ぬはずがない」
村人にはそう言い続けて気丈に振る舞っていた梅だが、心は言葉で騙せても、体は嘘では騙せない。頭痛と下痢と食欲不振が続き、やがて梅は流産した。
三か月が過ぎ、半年が過ぎた。しかし太郎は帰って来ない。それでも梅は生活していかなければならなかった。
一年が過ぎた。
「もう、あきらめなさい」
村の長老が神妙な顔で言い聞かせた。自らに言い聞かせているようにも聞こえた。
村人と梅は、太郎の葬式を出すことになった。太郎の実家にほど近い菩提寺に墓を建て、花を供し、手を合わせた。村人は優しかった。梅にいたわりの声を掛け、心労をねぎらった。
だが太郎が帰って来ないことには変わりがない。嘆いている暇などなかった。貧しい漁師の女房は日々の生活に向き合うしかなかった。辛い。たしかに辛かった。だが弱音を吐いている余裕すらなかった。
村人や太郎の親族から多少の援助も受けたが、それでだけでは生活できない。男に交じって太郎の代わりに漁にも出た。
二十年が過ぎた。
時を経るにつれて、太郎のことは忘れられていった。そして梅への援助も途絶えていった。すでに若くない梅には後妻の縁もなく、漁師としての男なみの肉体労働にも次第に耐えられなくなっていった。腰を痛めてからは、足手まといになる、と船にも乗れなくなった。
やがて太郎の両親も梅の両親も他界し、梅は天涯孤独になった。身寄りもない中年女は、一人で生きていかねばならなくなった。地位も後ろ盾も荘園も持たない独り身の女が生きていくのは容易なことではない。
体を売るしかなかった。
優しさのかけらもない行きずりの荒くれ男どもが、梅の肉体を凌辱し、わずかの金を置いて去っていった。
が、それさえも長くは続かない。若さを失った年増女の体を買うのは、よほど女に飢えた貧乏男しかいなくなり、やがてそういう連中にさえ買い手がいなくなって、体を売ることさえできなくなると、いよいよ窮乏した。
残飯をあさり、盗みをはたらき、野草を口にしてなんとか命をつないだ。本当は死にたかった。だが死ぬこともできなかった。生に絶望しながらも死への恐怖はぬぐいがたく、肉体は意思に反して強靭な生命力を持っていた。
梅は自らの健康を恨んだ。失踪した太郎を恨み、年月とともに冷淡になっていった村人を恨んだ。自身の身分の卑しさも恨んだ。
だが、恨んでも恨んでも、梅の暮らしは良くならない。