前世を思い出した婚約者に人生変えられた男の話
あたりは花の芳しい香りと春の陽光に包まれている。
シュミット伯爵邸の庭園にある、小さなガゼボ。花がきれいに咲いているからと、本日はここにティータイムの準備がされた。
今日はディオニスとその婚約者との月に一度の交流の日である。互いの家で交互に開催しており、今回はワグナー侯爵令息であるディオニスが、シュミット伯爵令嬢マヌエレナのタウンハウスを訪ねている。
「ディオニス様、わたくし、前世の夢を見たのです」
そのため、ディオニス少年の目の前で真剣な眼差しでそう言った少女は、彼の婚約者であるマヌエレナである。
ディオニスは優しく微笑んだまま一瞬固まったが、すぐに小首を傾げて「と言うと?」と続きを促した。
マヌエレナは窺うような目をした。
「……聞いてくださるのですか?」
「ええ」
「何をおかしなことを言っているのだと、無視してお帰りになってしまっても構いませんよ」
「いえ、聞かせてください。私としても、7歳から5年来の婚約者が急にこんなにも変化した理由が知りたいので」
「まぁ。はっきりおっしゃいますね。ですがたしかに私、貴方の前ではほとんど話したこともなかったですものね」
「ええ。正直に言って、とても驚いています」
ディオニスは笑みを絶やさずに頷く。
マヌエレナは、よくある茶色の髪に、小柄な体躯の少女だ。
今日は黄色いドレスに身を包み、胸元には今年の彼女の誕生日にディオニスが贈った素朴なネックレスを着けている。
これまで、彼女はいつも俯いていた。
自分からは口を開かず、話したとしても受け身。発する言葉は「ええ」「いえ」「そうですか」がほとんど。それもとても小さな声で。
ところが、今日は対面時の形式的な挨拶からしてはきはきとしている。
着席すれば顔を上げて、真っ直ぐにディオニスを見つめている――ディオニスは、マヌエレナの瞳が薄い茶色であるということを初めて知った。
少し会話をしても、まるで別人と話しているよう。
ついにディオニスは尋ねた。
今日はなんだか楽しそうですね。
まぁ、そう見えますか?
ええ。よかったら何があったのかお聞かせください。
そうですか? では――
そして、声の聞こえない距離までメイドを遠ざけてから彼女が告げたのが、冒頭の言葉である。
マヌエレナは頰に手を当てて首を傾げながら告げた。
「話すと長くなりますわ。それに、わけのわからないことを述べている自覚はありますの。ディオニス様の貴重なお時間を無駄にするのは心苦しいのですが……それでも?」
どうやらマヌエレナは、もともとそれ――前世――について語る気はなかったようだ。さらに言えば、突拍子もない発言をすることでディオニスが気分を害してこの場を後にすることさえ期待していたらしい。
その意図を隠す気すら見せないマヌエレナは無礼であり、これもまたディオニスが立ち去る理由として十分であったが、しかしディオニスは微笑みを保ったまま「ええ」とはっきり頷いた。
マヌエレナは観念したように眉尻を下げた。
「そうですか……では、時間潰しにお聞き流しくださいな」
もちろん、お茶やお菓子を召し上がりながら。
そうマヌエレナは付け加え、話し始めた。
数日前、マヌエレナは夢を見たという。
その夢で彼女は、8歳ほどの少年だった。
マヌエレナは、それがかつて、今とはまるで違う場所で生きていたころの自分の姿だと自然と理解した。
少年の生きる場所は世界からして彼女のそれとは違っていた。技術も文化も地理も、何もかも違う。しかし夢の中の彼女――または彼――にとってそれは当然のことなので、何も違和感は感じなかった。
昔の記憶を思い出すように、彼女は夢の中で少年としての日々を過ごした。
少年は本が好きだった。毎日学校で――彼の世界では平民でも7歳から学校に通う――本を借りて帰り、家でワクワクしながら読んでいた。
中でも特にお気に入りの本があった。上下巻の二冊組みの児童向けの書籍で、上巻は青の、下巻は赤の装丁。幼い少年には一抱えほどもあったが、旅行の際などにもカバンに入れて持ち歩いていた。
何度も繰り返し読んで、主人公の台詞を覚えて友人や家族の前で誦んじたりした。
その本の主人公は勇敢な男だ。
彼には様々な苦難が待ち受けるが、その全てを努力と知恵と勇気で乗り越える。
住んでいる街が魔物に襲われても、仲間と力を合わせてそれを退ける。悪に心を売り渡した強大な敵が現れ城に危機が訪れれば、勇敢に助けに向かう。
そうして成長していき、最終的には、お城のお姫様とともに、幸せに暮らすのだ。
そして。
「これまで散々おかしなことをお話ししてきましたが、これから最も荒唐無稽なことを申し上げます。――実はその本の主人公はおそらく、ディオニス様なのです」
「…………なるほど」
いつも通り微笑んでマヌエレナの話を聞いていたディオニスの返答が、少し遅れる。
マヌエレナの目は冷静だ。ディオニスを揶揄っているわけではないらしい。
「そうですか、その……、なぜ私だと? 名前がディオニス・ワグナーなのですか?」
「いえ、登場人物の名前などは忘れてしまって。ただ、主人公の容姿の描写を覚えているのです。たしか……」
マヌエレナは記憶を辿るように虚空を見つめる。
「『朝日のように輝く美しい黄金色の髪』、『知的な黒い瞳』、『紳士的で常に笑みを絶やさない』と」
「……なるほど。ですがそれだけでは、その主人公が私だとは限らないのでは? 金髪に黒目の男は他にもいるでしょう」
「いえ、ディオニス様より美しい御髪はわたくし、見たことがありませんもの」
「……なるほど」
「それと、舞台がこの国だとわかったのは、国名が同じだからです。我が国はもちろん、近隣諸国も。それから国際情勢を鑑みると、どうやら物語の時代は、現在から数年後あたりのようです」
「数年後? では、貴女は物語を読んで、数年後の未来の事象を知ったと?」
「えぇ、いくつかは覚えております。と言っても、物語に描かれていた内容が実際に起こるかはわかりませんが……」
それから彼女は、「未来の事象」をいくつか語った。
それは現在の国内外の政治経済の動向を踏まえれば、予想され得る内容だった。
だが、そう言えるのはディオニスが外交官である父からそういった話を漏れ聞いているからだ。デビュタントも済ませない12歳の少女が口にするには、あまりにも鋭く、事情を知りすぎた予測だと言えた。
もし本当に起きたら、まるで予言だ――少し迷ったのち、ディオニスは尋ねた。
「主人公がどんな男なのか、もう少し詳しく聞かせていただけますか?」
「もちろんです。と言っても、名前もそうですが職業などもなぜか思い出せなくて……ぼんやりとした印象になってしまいますが」
「もちろん構いません」
「わかりました。そうですね……主人公は、とても勇敢な方です。守るべき存在に危機が迫っているとわかれば、危険を顧みず立ち向かいます。そして勇気と知恵で解決するのです。いつも笑顔で誰にでも優しく、仲間を大切にし、仲間に愛されています。どんな困難も、主人公なら乗り越えられると、読んでいて私は勇気をもらいましたわ。
……あ、すいません。私ではなく、かつての『私』ですね」
感情移入しすぎてしまいました、とマヌエレナは照れたように微笑んだ。
彼女の回答には愛が溢れていた。前世の少年が乗り移ったかのように。
対して、彼女の言葉を聞けば聞くほど、ディオニスは胸が冷えていくような思いがした。
ディオニスは微笑んだまま言った。
「どうやら、その主人公は私ではないようですね」
あら、というように彼女は瞬いた。
「なぜそう思われるのですか? ……お気を悪くされました?」
「いえ、違います。貴女の話を否定したいわけでもありません――もちろん不思議な話ですから、すぐに飲み込めるわけでもありませんが。そうではなく、私が、残念ながらその主人公のような立派な人間ではないので」
「そんな、」
「慰めは結構です。……貴女にはお話ししたことがありませんでしたが、お教えしましょう。
私は出来損ないなのです。貴女もご存知のとおり、私には兄がいます。聡明でなんでもできる兄が。何をしても兄に敵わず、何かしてみれば失敗ばかり。私は兄と比べられ、出来が悪いと言われ続けて今日まで生きてきました。ああ、家族仲は良好ですよ。あくまで周囲の声の話です。当然、人望もないから『仲間』だっていません。劣等感を隠すために常にヘラヘラ笑っているつまらない男だ。聞けば聞くほど立派な主人公が俺であるわけがない。そうでしょう?」
「いいえ」
微笑んだまま吐き捨てるように言ったディオニスに、間髪を入れずマヌエレナは否を返した。
虚を突かれ、ディオニスがぽかんと口を開く。
マヌエレナの目はやはり冷静だ。見つめていると、その薄茶色に引き込まれるような気がした。
「ディオニス様は物語を読まれますか?」
「いえ……、幼い頃は読みましたが、最近はまったく……」
「では、お忘れなのですね。ディオニス様。物語の主人公は、最初から何でもうまくいくわけではありません。むしろ初めはできないことばかりだったり、辛い環境に苛まれていたりします。それを乗り越えていくから、物語はおもしろいのです。勇気を出して自ら行動を起こし、努力し、ときに周囲の力を借りて、少しずつ成長していく。その姿が読者を感動させる。それが主人公です」
「……」
咲き誇る花を背景に、茶色の髪の少女が言う。
その言葉は、なぜかディオニスには厳かに響いた。
「先ほどのディオニス様のお言葉を聞いて、私はむしろ貴方が主人公だと確信しました。ディオニス様、これからは何事も自信を持って取り組んでください。そして自分一人で解決できなければ誰かの助けを得るのです。全て乗り越えられますわ。
なぜならこれは貴方の物語ですもの」
「……俺の物語……」
マヌエレナは微笑んだ。
いつも微笑みを絶やさない婚約者がそれを忘れているようなので、代わりに微笑んだのかもしれない。
「私、貴方の物語の大ファンなのです。ずっと応援しますわ」
ディオニスは婚約者が嫌いだった。
暗く、いつも俯いていて、会話をしていても目が合わず何を考えているのかわからない。
最近では視界に入れるのもいやで、向こうがこちらを見ないのをいいことにほとんど顔も見ていなかった。
ディオニスにとって月に一度の婚約者との顔合わせは、時間の無駄であり、精神的負担であり、ただ一貴族として家同士の取り決めを履行しているに過ぎなかった。
この世の中に何一つディオニスの思い通りになることはない。
そう義務付けられたから会っているに過ぎない、つまらない女。
ディオニスというつまらない男にお似合いの相手だ。そう思っていた。
「ディオニス。今日はマヌエレナ様とお会いする日だったのでしょう? どのようなことをお話ししたの?」
夕食の席には、多忙で家にいないことも多い父侯爵を含め、珍しく一家4人が全員顔を揃えていた。
談笑しながら穏やかに食事を進めている中で、母である侯爵夫人がディオニスに水を向ける。その眼差しは息子への愛情に満ちている。
「あの大人しそうな方ですね。先月我が家でご挨拶したときは、怯えさせてしまったのか、私とは目も合わなかったな。お前とは笑い合ったりもするのか?」
兄がそう続ける。
父は特に何も言わないが、興味深そうにディオニスに目を向けた。
こういうとき、いつもディオニスは当たり障りのない返事をしていた。婚約者との仲が良好だと思ってもらえるよう、嘘も交えながら。
出来損ないの自分が、せめて家族からは失望されないように。
ディオニスは微笑んで口を開こうとして、――頭の中でマヌエレナの声を聞いた。
勇気を出して自ら行動を起こし、努力し、ときに周囲の力を借りて、少しずつ成長していく
これは貴方の物語です
「……実は、父上に、お願いしたいことがあります」
「なに? 私に? どうしたんだ?」
「家庭教師を替えてほしいのです」
「え?」
戸惑った声を上げたのは母である。
ディオニスの視界に映る父と兄も、何事かと目を丸めている。
ディオニスは唾を飲み込んだが、喉の変な渇きは癒せなかった。握った拳が震える。
勇気を。
「グルーバー先生は優秀な方だと思います。兄上のこともご指導され、父上と母上も信頼されていることでしょう。
ですが、彼は、私を貶める物言いをします。兄上と私を比べ、この程度のことは兄上ならもっと幼い頃にできたのにとか、兄弟とは思えないほど凡庸な考えだとか。
これまでは私の努力が足りないせいだと考えていました。いつか認められると。しかし、たとえ課題に正解したって、大したことがない、つまらない、兄上を見習えとそればかりで――
ああ、それから、騎士のヒューベル卿。彼は俺の目の前でため息をついて、俺には才能がないと。兄上のように誰かを守る剣は決して使えないから怪我をしないような剣術だけを学べと言われました。俺が見返したくて自主練習をしてくると嫌そうな顔をして。もちろんはっきりとは言いませんが、遠回しにそう言うのです。
でも俺、俺は、……こんなことを言われているなんて、は、恥ずかしくて言えなかった。でも、おかしいですよね? 先生なら、俺がやる気になるように指導するべきだ。
俺は俺が嫌いです。つまらない、何もできない、出来損ないだから。本当は自分で乗り越えるべきなんだと思います。でも、」
「ディオニス、もう良いから」
「父上!」
席から立ち上がってディオニスを制止する父を、ディオニスもまた勢いよく立ち上がって遮った。この勢いでなければ言えないと思ったからだ。
しかし、続く声はあまりに弱々しかった。
「……ごめんなさい……俺を助けてください……」
気付いたら、目の前は涙でよく見えなくなっていて、母に身体を抱きしめられていた。
父や兄も、ディオニスの肩や頭を撫でてくれる。すまない、気づけなかった、おまえは間違っていない、と労りの言葉をかけられては、涙は止まるどころか弥増すばかりだ。
初めは羞恥と情けなさから流れていた涙は、やがて安堵のそれに変わっていった。
◇
前回の逢瀬からひと月経ち、本日はマヌエレナがワグナー侯爵邸を訪ねている。
昼下がりの明るい応接間を、紅茶と菓子の香りがやわらかく満たしている。
席に着いたマヌエレナがふぅと小さく息をついたのを、同じくその向かいに座ったディオニスは聞き逃さなかった。
「すみません。緊張させてしまいましたね」
「あぁ、いえ、私ったらため息だなんてすみません。ですが、そうですね……えぇ、緊張しました」
マヌエレナが緊張したのは、先程到着した際、その玄関でワグナー侯爵一家全員に出迎えられたからだ。
格下の、それも12歳の小娘にする待遇ではない。彼女はたいへん狼狽した。なんとか取り繕えたと思いたいが、随分辿々しい挨拶になったことだろう。
いつもより多めに紅茶を口に含んで飲み下し、マヌエレナは音もなくティーカップをソーサーに下ろした。
「お手紙もいただきましたし、私は何もしていないのに、こんなにご丁寧に……。かえって申し訳ないですわ……」
茶会の後の一件については、ディオニスから手紙で教えられた。そのあらましと、マヌエレナの言葉に勇気を得て彼らの長年の狼藉を告発できたのだと、感謝の言葉を。
なお下手人の蛮行の理由は、身分が上の人間を虐げて愉悦に浸りたかったという下劣極まりないものだったという。彼らはもう侯爵領にはいない。今後立ち入ることもないそうだ。
またそこには侯爵夫人からの手紙も同封されており、愛する息子を救ってくれた恩人への感謝が、丁寧な手で綴られていた。
その上さらに先ほど、侯爵、侯爵夫人、小侯爵から、直接感謝の言葉をいただいた。年上で身分も上の人々から低姿勢で接せられ、特に侯爵からは目に涙を浮かべて「この感謝は生涯忘れない」といつまでも手を握られ、マヌエレナは恐縮のあまり息の仕方を忘れかけた。
マヌエレナとしては、「主人公」がなんだか弱気な発言をしていたから、原作のファンとして少々熱を込めて励ましたに過ぎなかったのだが。
ディオニスはいつものように微笑みながら、しかし明確に「いえ、それは違います」とマヌエレナの言葉に応える。
「あの日マヌエレナ様とお話ししなければ、私はいつまでも自分という人間を蔑み、腐らせていったことでしょう。家族に助けを求めることも思いつかないまま。そして家族は、私の苦境に気づかなかったことを後に知り、悔いに苛まれることになったかもしれません。貴女にはいくら感謝しても足りません」
「そんな、私はただ、夢で見た話をしただけですわ。それを真剣に聞いてくださったのも、勇気を出したのもディオニス様ではありませんか。そんな大層な……」
マヌエレナは話しながら、ディオニスの笑みに力強さを感じた。
これまでにないそれを見て、どうやら彼はこの件に関して絶対に退かない気だと悟る。
ならばこの話題を続けるのは彼女の精神によろしくない。ええと、と他の話題を探す。
「ところで、新しくお迎えした先生とはその後いかがですか? お手紙には授業が楽しいとお書きでしたが」
「ええ! 順調です。家庭教師の先生は前の方よりお若いのですが博識で、私が興味を示したことについて、この本が参考になるとかこんな説もあるとか教えてくださって。毎日学ぶのが楽しくて、学ぶというのはこんなに楽しいことなのかと。世界が広がったような感じで」
「まぁ、そうなのですね。素敵な方なのが伝わってきますわ」
「ええ、お会いできてよかったと思います。それから手紙には間に合わなかったのですが、剣術の先生は昨年引退した我が騎士団の元騎士になったのです。こちらはあまり口数が多くない方なのですが、指示が明確で――」
こんなに楽しそうにしているディオニスを見るのは初めてだ。つやつやの金髪と同じくらい笑顔が輝いている、とマヌエレナは思った。
彼女もつられて微笑む。
それからもしばらくディオニスの近況を聞いたのち、マヌエレナも自身の日々について話した。お茶会の空気はこれまでになく弾んだ。
やがて話は、なぜ大人しかったマヌエレナが変わったのかという、本来なら前回するはずだった話題にたどり着いた。
説明に先立ち、マヌエレナは少し迷った。はっきりと言ってしまってもいいものか?
ディオニスを見ると、やはり今も微笑んでいる。
まぁいいかしら、と彼女は口を開いた。そう長く付き合いのある相手でもないのだし、と。
「まず、その、お気を悪くしないでいただきたいのですが。これまで私は、人生を諦めていたのです」
「……と言いますと?」
「つまり、このまま貴族女性の一般的な生き方――親の決めた人と結婚して、子を産んで、夫に従って生き、やがて死ぬ、という一本道しか目の前にないと。そこに自分の意思が何もないような気がして。それなら、私は何をしたって無駄なんだと、ディオニス様の言うことをただ聞いていればいいのだと無気力になっていたのです」
「……なるほど」
「ですが、あの夢を見て、私は気付いたのです。私の人生は変わるかもしれないと。少なくとも結婚相手は替わるかもしれないと」
「なぜです!?」
何か考え込むように真剣に彼女の話を聞いていたディオニスがそこで急に大声を上げたので、マヌエレナは肩を跳ねさせた。
すぐに彼ははっとして、「失礼しました。続きを」とまた微笑む。
「……ええと、ディオニス様は『主人公』です。そうすると、『主人公』のお相手は私ではありませんので」
「……ああ、なるほど……『お城のお姫様』でしたか」
「よく覚えていらっしゃいますね。そうです。主人公は、最後にお城の危機を救ったあと、お姫様と幸せに暮らすのです。
――ということはどこかの段階で私との婚約はなくなるはずです。そうしたら私は? 新しい縁談があるのか。なければどうなるのか? ……そのようなことを考えていたら、私はこんなにぼんやり生きていてはいけないのではないかと思うようになったのです。ええと……もっとよく生きないと、と言いますか。これまで想像していたのとは違う別の人生を歩まなければならない、と」
「それは、素晴らしいお考えですね……。なるほど、私とは別の人生を……」
「それで顔を上げて、人と話し始めたら、なんだか楽しくなってきたのです。家族やメイド、家庭教師の先生とお話していると、どんどん知識が増えて、できることも増えていくのですもの。先程のディオニス様のお言葉をお借りすれば、『世界が広がった』ようなかんじで」
「……」
「ディオニス様に前世だなんて突拍子のない話をできたのも、いずれこの婚約はなくなるのだし、まぁいいかしらと思ったからですわ」
「…………なるほど…………」
気付いたら、ディオニスがまた考え込むような様子を見せていたので、マヌエレナはどうしたのかと尋ねるように小首を傾げた。
「いえ、どうやら私はとても頑張らなければならないようだと気付きまして」
「そうかもしれません。これからも様々なことが起こりますから。ですが、どんな困難も乗り越えていくのが主人公ですわ。努力はきっと報われます。応援しますわ。私も頑張りますね」
「いえ、貴女は少々頑張らないでお待ちください。なるほど、どうやら私は今すぐから動き出さないといけないようだ。作戦を立てるのでお時間をいただけますか? 新しい先生から思考力はお褒めいただいたので、そう長くはお待たせしないと思います」
「はい?」
「まず気持ちをこちらに向けなければ……しかしどうやって……私のことを知ってもらうには……いやその前に俺が……クソ、これまでの蓄積がない……」
急によくわからないことを言い出したディオニスは、そのまま目線を斜め上にやってしばし早口で何か呟いてから、やがてしっかりとマヌエレナを見つめて言った。
「マヌエレナ様。お好きなものは何ですか?」
◇
ノックし、名乗ってから隊長室の扉を開く。
すると、そこにある重厚な机に座っていたのは隊長ではなかった。副隊長だ。
「あれ? 『守護天使』は?」
持ってきた書類をパタパタ揺らしながら、隊員である彼は副隊長に尋ねる。彼らは同期採用なので、人目のない場所では軍内部の階級差を無視して気楽なやりとりをしている。
副隊長は顔を上げて男に笑いかけた。
「結婚休暇中で〜す」
「はァ? 一昨日までだろ」
「足りなかったんでしょ」
「ウヘ〜ムッツリ野郎! さすが『私が主人公なら物語のヒロインは貴女がいい』とか言っちゃうだけはあるわ」
「ブフッ! いやいまそれ関係ないじゃん! 急にやめてよ俺それツボなんだから!」
「てか、いいのか? つまり『守護天使』は計10日も休んでんじゃねーか。隊長代理のお前大変じゃん」
「『天使』ちゃんが戻り次第代わりに俺が連休もらうから、好きなだけ休んでいーよって言ってあげたの」
「やっさしー」
「でっしょー」
副隊長はおどけて見せたあと、まぁねぇ、と斜め上に目線をやった。
「あんなにメロメロでうれしそーにお嫁さん見てる『天使』ちゃん見ちゃったらさぁ……。まぁ結婚祝いのおまけってかんじかな」
思い出すだけでついにやけてしまうほどの、ひどいとろけ具合だった式の日の新郎の顔を思い出す。副隊長が笑えば、隊員の男も噴き出した。
「守護天使」こと彼らの隊長が幼い頃からの婚約者と結婚式を挙げて10日が経つ。
それが彼にとって悲願だったことを、彼らは知っていた。
騎士養成のための学校で初めて会った15歳の頃から聞いていたからだ。いかに彼女が素晴らしい人間か。彼女が彼の人生にとってどんな存在か。そして、彼は彼女に恋しているが、向こうはそうではないということを。
彼らは、彼に請われて「どうしたらもっと仲良くなれるか」について共に話し合ったこともあるし、婚約者に「愛している」と伝える練習相手になったこともある。
実家の爵位が侯爵位と高く、いつも微笑んでいて紳士的だが、頭も剣も優秀な男。
そんな人間、周囲からやっかまれそうなものだが、そうならなかったのは彼の婚約者の存在が大きい。
彼女のおかげで、彼は「実家の爵位が高く頭も剣も優秀で紳士だが、婚約者には振り向いてもらえない不憫な男」として周囲ともうまくやってくることができたのだから――もちろん、彼自身が真面目な努力家であるというのがうまくやれた最大の理由だが。
「守護天使」なんてふざけたあだ名で呼ばれているのもその表れである。ちなみにこのあだ名は、侯爵領が魔物の群れに襲われたとき、まだ少年で幼げな顔立ちであった彼が剣を手に大活躍したことから、領民たちが敬愛を込めて言い出したものだという。彼らと出会う前のことだそうだ。騎士仲間のうち一人が偶然その情報を入手し、騎士団内に爆速で広まった。
結婚式で見た新郎こと守護天使、こと彼らの隊長は、いつもの微笑みにさらにはちみつを足したような顔をしていた。その視線の先には常に新婦となった女性の姿があり、彼女は彼があまりにも見てくるので照れている様子だった。なんなら軽く鬱陶しそうですらあった。
しかし彼女の眼差しにも彼への慈しみというか、しょうがない人ねとでも言うような、確かな愛が見てとれた。彼の努力が実り愛が通じたことは、彼が友人向け報告会を行ったので知っていたが――その日は当然彼の奢りで飲み明かした――、そんな二人の様を見ているこちらの方が恥ずかしかったし、なんというか、我がことのようにうれしくて、つい幸せな気分になってしまったものだ。
まぁそういうわけで、愛すべき男である隊長が今たいへん幸せであるというのだから、少しその手伝いをしてやるくらい、副隊長にとっては友として当然のことなのであった。
「で? それ何? 報告書?」
「あ、おーそうそう。例の犬の件な」
隊員の男が書類を差し出す。
副隊長が受け取った書類には、近頃街で話題の、とある件についての報告が書かれていた。
彼らの隊の仕事は主に市中警護だ。そして最近市民たちからよく同じような話を聞いていた。悪い話ではない。だがあまりに続くので、下っ端隊員に聞き回らせて、報告書にまとめさせたのである。
「すごい目撃件数だなぁ。迷子を親の元まで連れていった……スリを捕まえた……八百屋で品出しを手伝った。これほんと? 犬だよね?」
「こんだけの数の人間が見てんだから本当なんだろ。すげーよな、人助けをして回る犬」
「何が目的なんだろ? 食べ物?」
「実際、助けてもらった市民たちを中心に餌をやってはいるらしい。だがどこに棲んでるかは謎。飼い主も謎。躾はされてそうだし毛艶はいい、と」
「不思議な話だねー」
「あ、仲間らしき犬もいるらしいぞ。荷車が倒れたのを、その犬含め数頭の犬で起こしたって、このへんに書いてあった」
「うちの隊員より役に立つじゃん」
「それな」
それから二人で軽口を叩きつつ報告書について話し合っていると、ふと窓の方に目をやった隊員の男は、次いで手元の資料に視線を落とし、また窓の外を見やった。それから、オイ! と資料を読んでいる副隊長の肩をバシバシ叩いた。
「いたた」
「こっち来て窓の外見てみろ! あそこにいる犬、この犬じゃねぇか?」
言いながら、隊員の男が資料1ページ目を指さす。市民の話を元に描いた、犬の姿絵である。
副隊長はその絵と、絵の下に小さく書かれた補足をさっと改めて見回して、それから窓の外、少し離れたところを歩いているその姿を見た。
「『ツヤツヤの金の毛並み』『賢そうな黒目』『微笑んでいるような顔つき』……ほんとだ」
「オイ! 行っちまうぞ!」
「痛い痛いって。いいじゃん別に、悪さしてるわけじゃないんだし」
「バカ違ぇよ! 本人――本犬に事情を聞くチャンスだ!」
「え? あの犬しゃべるの?」
「知らねーがやってること考えたらしゃべってもおかしくねーだろ! 行くぞ!」
「えー? そんなわけないじゃんまったくもー……」
隊員たちが隊長室から走り去っていく。
扉がバタンと閉まり、隊長室の机の上には、二人の見ていた資料の束が、1ページ目を開いた状態で残された。
そこに描かれた毛の長い大型犬が、黒い目を細めて微笑んでいる。
その姿は、誰かに似ているように見えた。
おしまい
誰もが自分の人生の主人公なんや!やったれ!という話でした。
読んでくださりありがとうございました。ご感想等いただけたら励みになります。
『名犬ゴールド』
金の毛並みに黒い目のゴールデンレトリバー、ゴールドが、知恵と勇気で大冒険する物語(小学校低学年向け)。
様々な動物たちと力を合わせ、ときに失敗しながらも、困っている人や動物を救っていく。
物語の最後のボスは、幼い頃から虐められ、心の拠り所にしていた家族も魔物の侵攻により街ごと失い、絶望の中で悪魔に魂を売り世界を滅ぼそうとした男。ゴールドたちの活躍で無事野望は挫かれ、処刑される。金の髪に黒い目をしていた。