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仮面の公主  作者: 紅咲 いつか
三、凝る心は陰を食む
29/46

仮面の闇

「奏栄……一体、どこへ行っているの?」

 麗花は朱色に沈む尊麟宮へと戻り、静まり返る部屋を見渡した。

 賢妃を見送り、麗花はそのまま皇帝の居所である天鳳宮を訪ねた。皇帝に奏栄をどうしたのかと問いただしたところ、「妖魔の件について調査を命じた」と端的な答えが返ってきた。

 照延の返答に、麗花は心から安堵し、胸を撫で下ろした。

 すぐさま麗花が奏栄を追おうとすると、今度は照延が麗花を止めた。

「奏栄は余の命令を優先しておる。留守の間、近衛の一部を公主の宮の守りに移すゆえ、公主は宮にて待っておればよい」

 皇帝にそう言われてしまえば、麗花は尊麟宮へ戻る他ない。

 奏栄が無事だった……今はそのことがわかっただけでもよかったと思わないと。

 庭の見渡せる部屋へと戻ってくると、麗花は首を傾げた。

「あら、仮面がない……?」

 尊麟宮を飛び出した際に、卓案(テーブル)に置いてあったはずの、割れた竜の仮面がなくなっていた。

 机の下、床の上、ひいては仮面の安置部屋にまで足を運び、宮内をくまなく探したが見つからない。しかも、なくなったのは割れた仮面のみで、残りの仮面はすべて無事だったから余計に奇妙なことである。

「まさか、賢妃様の侍女が?」

 けれど、何のために?

 不可解な疑問が頭を占める。

 嫌がらせの方向性を変えたのだろうか。

 これまでは物を贈り続けることに終始していた。麗花の宮へ出入りすることができるのは限られた者だけである。そして、麗花が宮を留守にする際、直前に言葉を交わしたのは賢妃である。賢妃の侍女が、無断で尊麟宮に侵入(はい)ったとすぐ疑いの目が向く。当然、賢妃も責任追及を免れることはできないはずだ。

「今回が絶好の機会であったことは確かだけれど……」

 そういえば、賢妃が尊麟宮を訪れたのは何年ぶりだったか。

 賢妃が最後に尊麟宮を訪ねてきたのは、麗花がまだ齢十にも満たない年だったと記憶している。

 だんだん自分の置かれた立場を自覚するにつれ、麗花は他者から距離を置いていったため、賢妃も尊麟宮から足が遠のいていった。

 その当時は、寂しさを滲ませつつも、それでいいのだと思っていた。

「よりにもよって……どうして『今』なのかしら」

 麗花は己の素顔を隠す仮面にそっと触れる。

 すると、目の前を影が通った。

「っ!? 誰っ!」

 麗花は弾かれたように顔を上げた。

 しんっと静まり返った室内に、人影はない。耳が痛くなるほどの静寂の中で、風が枝葉を揺らす音だけが、麗花の耳に届く。

 かたんっと音が鳴る。

 びくりと音のした方へ目を向けるが、物が床に落ちた様子はない。

「……奏栄?」

 麗花はそっと壁際に背を預ける。閉ざした扉の真横まで移動すると、聞き耳を立てた。陛下が寄越してくれた近衛の人が麗花のいる部屋の前を見張ってくれているはず。

 麗花はそっと扉を開け、声にならない悲鳴を上げた。

 部屋の前で、護衛の近衛兵二人が倒れていたからだ。

「あの! 一体、何がっ!?」

 混乱したまま、麗花が倒れた近衛兵の肩を揺らす。近衛兵の唇から、小さな呻き声がもれた。しかし、そのまま目を覚ますことなく、深く眠り込んでしまう。

「……『妖魔』?」

 麗花が近衛兵から手を離し、震える声で呟く。

 途端、己の存在を誇示するように、がたがたと戸棚が揺れるような音が響いた。麗花はハッと寝所の方へ目を向ける。

「寝所の方……いえ、続き間の、仮面の部屋!」

 音の方角から侵入者の居場所を予測し、麗花はちらりと窓を見る。近衛兵が倒れた先には、尊麟宮の正門が見える。門扉は硬く閉ざされているが、内鍵はかかっていない。

 このまま、宮を出て誰かに助けを求めるべきか。

 門の方へと一歩踏み出し、麗花の足が止まる。

 いや……駄目だ。

 麗花が宮を逃げ出せば、妖魔は麗花を追ってくるかもしれない。

 そうなれば逃げ込んだ先――皇帝や皇后、兄である王太子に被害が及ぶ。

 仙騎隊はどうか。確か退魔寮のある内宮に庁舎があったはず。

 麗花はすぐに頭を振った。

 仙騎隊の中に、妖魔を手引きした輩がいるかもしれないと奏栄は危惧していた。

 そんなところへ麗花がのこのこ赴いては、自ら罠に飛び込むようなものだ。

「……どうすればいい? 奏栄……」

 すでに空から薄暮の朱が消え、漆を塗り込んだような闇がその濃さを増している。灯も持たずに宮中の、それこそ山頂にある尊麟宮から山の中腹にある内宮まで駆け下りるのは自殺行為だ。何より、麗花の体力が持たないだろう。途中で行き倒れるか、追って来た妖魔に喰われるか。そのどちらかだ。

「ひぃっ……!」

 激しい音が仮面を安置している部屋から響いた。軽いものが大量に床へと落ちた音は、おそらく麗花の仮面が戸棚から落とされたのだろう。

「奏栄、どうしたらいいの。早く、戻って……」

 麗花の全身が凍り付いたように、急速に熱を失っていく。歯の根が合わず、かたかたと自分の口の中で乾いた音が鳴った。

 ぎぃっと、扉が軋んだ音がした。「何か」が扉を開けたのだと、直感した。

 麗花は弾かれたように部屋の中へ戻ると、きつく扉を閉めた。開いていた窓も閉め、壁際に避難する。

 何か身を守るものはないかと辺りを見回し、目についた小刀を手に取った。

 仮面に模様を彫るときにしか使っていないが、それでもいざというときに役立つだろう。

 麗花は壁を背に、身を縮めた。

 息を潜め、耳鳴りを覚えるほどの静寂の中で得体の知れない「何か」に向けて身構える。

 ふと、何かが窓から差し込む陽光を遮った。

 床に伸びた影は、一見すると「人」のように見える。

 けれど、麗花はその影の主が「人」ではありえないとわかった。

 影が無数に窓の向こう側を通り過ぎる。それも一人や二人ではない。十、いや二十……無数の影が重なるようにして床の上を滑っていく。

 麗花はもう生きた心地がしなかった。

 ああ、これは天罰なのだろうか。

 小刀を握りしめ、麗花は硬く目を閉ざした。

 麗花には、分不相応だと知っていても、己の命惜しさに「仮面の公主」という立場に縋った。そんな卑しい自分が、奏栄を巻き込み、傍にいてほしいがために彼を縛り付けた報いを受けているのかもしれない。

 麗花は自分の眼から、溢れる涙を拭うこともできずに嗚咽を噛み殺す。

 どうせ死ぬのなら……一目、最後に奏栄に会いたい。

 麗花が体を丸め、強く願った瞬間だった。


「麗花様」


 優しい声が、怯える麗花を包んだ。間違えるはずもない。麗花が今、もっとも助けを求める青年の声だった。

「奏栄っ!」

 閉ざした眼を開き、顔を上げた瞬間――無数の「顔」が闇の中から麗花を見下ろしていた。

 麗花の口から、絹を裂くような鋭い悲鳴が上がった。

 闇の中にぼんやりと浮かぶ顔に向けて小刀を振り回し、逃げるように駆け出す。しかし、立ち上がりかけた姿勢のまま前へと走ろうとしたため、両足が絡まって盛大に床へ倒れ込んだ。

 衝撃で、自分が被っていた仮面が外れる。カンっと乾いた音を立て、麗花の手から抜け出た小刀が床を滑って遠ざかっていく。

「あっ……」

 咄嗟に手を伸ばすが、すぐに引っ込める。

 麗花が先程まで被っていた仮面が、宙に浮いた。

 いや、薄闇と同化したような黒い影から伸びた腕が、落ちた仮面を拾いあげたのだ。そうして黒い影は、床から拾い上げた仮面を己の「顔」として身に着ける。

 闇の中で、薄っすらと笑む無数の「仮面(かお)」に見つめられ、麗花はか細い息を吐いた。

 後退ろうにも、力の抜けた手足はただ床の表面を滑るばかりだ。

 動けない麗花の前に、一つの仮面(かお)が近づいてきた。

 白い面に、牡丹の意匠。

 額に梅化粧をした仮面は、ついっと麗花を覗き込む。

「本当の悪を見過ごす偽善者よ」

 口元に微笑を宿した仮面が、恨みがましい声を上げる。

 聞き覚えのある女性の声に、麗花は息を呑んだ。

「あんたのせいで、父が死んだ! 母も死んだ!」

「違う……わたくしは……」

 震える声を絞り出し、何度も首を横に振る。

「人殺し!」

「残忍な子!」

「呪われた子!」

「誰もがあなたの前から去っていく」

「なぜなら、あなたが周囲を不幸にするから」

「やめて!」

 麗花は耳を塞ぐが、仮面たちの声は麗花の手をすり抜けて耳に囁き続ける。

「お前がもたらすのは国の破滅でしかない!」

 こちらを嘲笑う無数の声に、麗花は固く目を閉ざす。

「何故なら、あんたは『偽物』だから」

「違う! わたくしは穏麗花! 千姫の力を宿した眼を受け継いだ、『仮面の公主』――」

「誰が、その言葉を信じるの?」

 仮面の問いかけに、麗花は気が遠くなる。

 誰が? そう、誰が麗花の言葉に耳を傾けてくれるだろうか。

 ぐらぐらと揺れる視界の中で、麗花は幼子のように身を丸める。

 人々が耳を傾けるのは「仮面の公主」の言葉のみ。

 その仮面の下にどんな人間が、どんな感情を持ち、どんな生涯を背負ってきたかなどどうでもいい。人々はそんなものに興味はないし、災いを転じてくれるならば誰が「仮面の公主」になろうが構わないのだ。

 ならば、「麗花(わたし)」は何故ここにいる?

 震える麗花を、仮面たちが笑いながら取り囲む。

「麗花様」

 奏栄の声に、麗花がハッと目を開く。ゆっくりと顔を上げると、赤色の面に金色で縁どられた鵬の仮面が奏栄の声を真似て麗花に語りかけてきていた。

「もう、いいのです。全てを捨てても。誰も、あなたを責めはしない」

 奏栄の声で、炎鵬仙鳥を象った仮面が甘い言葉を囁いた。

「もう楽になっていいのです。さぁ、共に参りましょう。これからは、私があなたを守ります」

 黒い手が、麗花に向けて伸びてくる。

「これからは、ずっと一緒です」

 涙に濡れた麗花の手がゆっくりと赤色の面に伸び――

「奏栄の声で、わたくしに話しかけるなっ!」

 そのまま手を握りしめると、赤色の面を渾身の力で弾き飛ばした。乾いた音を立て、赤い仮面が床に転がる。虚空に浮かんだ仮面たちの動きが、ぴたりと止まる。

「奏栄はすべてを捨ててもよいと……逃げ出してもよいと、わたくしに言ったことは一度もない!」

 麗花は涙で頬を濡らしたまま、叫んだ。眉を寄せ、目を吊り上げる。

 妖魔が奏栄の声を真似た瞬間、恐怖よりも怒りの感情が勝った。

 麗花は全身を震わせながらも、鋭い目で虚空に浮かぶ仮面の群れを睨んだ。

「奏栄は、お前たちと違って悪意を持ってわたくしに語りかけてくることは決してない!」

 数多の人の「悪意」を見続けた麗花だからこそ、断言できる。

 奏栄が浮かべる微笑は、麗花を安心させてくれるものだ。

 奏栄が麗花の名を呼ぶ声は、いつだって包み込むような温もりを宿している。

 奏栄からは、目の前に浮かぶ仮面のような、視界を塗りつぶすほどの黒い靄は決して見られなかった。

「わたくしの前で、奏栄を騙ることだけは断じて許さぬ! 奏栄の忠義を、誠実さを、穢すことは許さぬ!」

 震える足を奮い立たせ、麗花は床を踏みしめ、虚空に浮かぶ仮面たちに向けて堂々と叫んだ。

 闇に塗りつぶされた麗花の視界で、ポッと淡い光が灯る。

 そのあたたかな灯火に見入られたように目を向けていると、淡かった光がうねるように大きくなった。

 次の瞬間、宮内を包み込んでいた冷気が、炎の熱気によって一掃される。

「麗花様っ!!」

 紅蓮の炎を纏った槍を振るい、暗闇を裂いて現れた奏栄の姿に、麗花は引きつった口元に安堵の笑みを浮かべた。

「奏栄……」

 奏栄が差し伸べる手に、麗花は必死に腕を伸ばした。

 麗花の手を掴んだ瞬間、奏栄の力強い腕が己の痩躯を引き寄せる。

 彼の胸板に顔を埋めた瞬間、麗花は早朝の澄んだ空気のような彼の温かなにおいに包まれた。

Copyright(C)Itsuka Kuresaki 2024

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