妖魔襲撃
肌を刺す冷気に身震いするも、すぐに感覚が研ぎ澄まされていく。寒さもすぐに感じなくなった。天上では少しばかり欠けた月が西の空へと傾きかけている。星が夜空を埋め尽くし、星の大河が空を横断していた。
鳥や動物たちも眠りにつく刻限。
「……静かすぎる」
奏栄は尊麟宮の様子に違和感を覚えた。
これは戦場で何度も経験した静けさだ。
妖魔との戦いを控えた、どこか糸の張り詰めたような緊張した静けさ。
半ば勘のようなもので、具体的に説明を、と言われても困ってしまうのだが、奏栄の長年の勘は「妖魔」の気配を確かに察知した。
奏栄の足が渡り廊下を進み、池を横切る。歩を進める度、先刻まで奏栄の思考を乱していた雑念がするすると抜け落ちていく。研ぎ澄まされた感覚が、暗闇の中、池に葉の落ちる音までも拾い上げていく。
目指すは麗花の寝所だ。
この宮で最優先すべきは、麗花の身の安全である。
奏栄が鋭く細めた双眸に、黒い影が寄り集まって頭をもたげた異形の姿が映った。人型とも、揺らめく陽炎ともつかぬ黒い闇が、周囲の光を吸い込むようにそそり立っている。
見間違うはずもない。「妖魔」である。
蠢く闇が人の手を模したような触手を麗花の寝所の戸へと伸ばした瞬間、奏栄は地を蹴った。
奏栄と妖魔との間合いが一息に縮む。
手にした短槍を黒い影に向けて突き入れた。
妖魔が大きくうねり、血の代わりに妖魔の身体から黒い靄が立ち込めた。
「退け」
奏栄が槍の柄を握る手に力を込める。すると、奏栄が突き入れた短槍が発火した。
異形が耳障りな叫びを上げた。金属と金属をこすり合わせたような、不快な叫びだった。
仰け反った異形の進路を塞ぐように、奏栄は麗花の寝所を背に妖魔と対峙する。
全身から陽炎のような靄を立ち上らせ、妖魔は奏栄へ威嚇するように触手を広げた。
対する奏栄は緩く短槍を構えた状態で、妖魔を観察している。
目の前の妖魔の動きは、奏栄が今まで討伐してきた妖魔たちよりずっと鈍い。
霊山・白鳳山に満ちる陽の気が、妖魔の動きを鈍らせているためだろう。
「奏栄殿?」
妖魔の叫び声を聞きつけた麗花が寝所の中から声をかけてきた。奏栄の意識が一瞬だけ、寝所へ向く。
「襲撃です! 決して部屋から出ないでください!」
奏栄は妖魔から目を離すことなく、麗花に鋭く言った。
妖魔の全身から伸びた触手が、無数の人の手を形どる。それらが一斉に、奏栄を捕えようと伸びてきた。奏栄は短槍の穂先に炎を宿し、麗花の寝所へ近づこうとする妖魔の腕を切り裂く。奏栄の生み出した炎の明かりが彼の深い青の瞳を夕焼けの海色に染めていった。
勝負は一瞬。
奏栄が地を踏みしめたのと、異形が無数の触手を奏栄へ振り下ろしたのは同時だった。
妖魔の触手が、奏栄の炎に飲まれて燃え上がる。金切り声に似た断末魔に、奏栄は思わず顔を顰めた。火力を強め、妖魔の全身を炎で包み込む。
塵と化した妖魔が足元に横たわった。黒い灰が夜風に吹かれ、さらさらと星空へと還っていく。地面に残されたのは、煤にまみれた木彫りの人形だった。
「これは……」
奏栄は足元に転がった木彫りの人形を拾い上げる。顔の部分が焼け焦げたのは、奏栄が放った突きが人形の頭部を貫いたからだろう。
「何故、こんなものが尊麟宮に……」
首を傾げながら人形を見つめていると、乾いた音ともに背後の扉が僅かに開かれた。
「奏栄殿、一体何事ですか?」
扉の隙間から、麗花が顔を覗かせる。
その際、奏栄は視界の端でかさりと動く何かに気づいた。
「麗花様!」
奏栄は咄嗟に麗花の肩を掴み、押し倒した。
茂みから何か黒いものが麗花に向けて飛びかかっていくのが見えた。黒い小さな影は狙いを外し、そのまま寝所の天井に着地する。全身が黒く、蜥蜴のような生き物が鋭い爪をもって麗花と奏栄を見下ろしていた。
奏栄が顔を上げたところで、黒い蜥蜴が再び麗花に向けて突っ込んでくる。奏栄は懐から短刀を取り出すと、黒い蜥蜴に向けてそれを放った。
ぎぃっと苦しげなうめき声を最後に、天井に縫い留められた黒い蜥蜴のような妖魔の動きが止まる。その小さな黒い身体も、先の妖魔と同じ末路を辿った。
「大きい方は陽動だったか。危うく騙されるところだった」
奏栄は詰めていた息を吐き出すと、身体を起こす。
「麗花様、お怪我は……」
奏栄は自分が押し倒した麗花へ視線を移し、言葉を飲み込んだ。
黒い蜥蜴が繰り出した最初の一撃で切り裂かれた仮面が、やや離れた場所に転がっている。
奏栄を見上げる少女は、その白く美しい顔を奏栄へと真っ直ぐ向けてきた。
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