仙騎の青年
木々の間から空へと飛び去る鳥影に、御路を進む足が止まる。
顔を上げて背後を振り返れば、真璃国の王都の絶景を望むことができた。
「おぉ、いい眺めだな……」
額から大量の汗を滴らせ、蘭奏栄は感慨深く呟いた。
海の青を溶かし込んだような双眸を細め、汗で張り付く明るい茶色の前髪をサッと指先で払った。
官服の袖から覗く小麦色の肌をした手を笠にして、遠くを見渡す。
その拍子に被った巾子がずれ、慌てて手で押さえる。鍛錬の邪魔だからと髪を短くしたせいで、どうも収まりが悪い。これだから着慣れない官服は嫌なのだ。奏栄は武人としてはやや小柄ながらも、その袍衫から窺える体つきは無駄のない均整の取れたものであった。
「王城に入ってから、こんな高いところまで登ったのは初めてだな」
真璃国の中心、寶玉城は標高がおよそ二里半もある白鳳山を丸々一つの宮城としていた。
麓近くに城下への出入りが多い部署の集まる外宮があり、山の中腹辺りに六省の殿舎や帝の妃たちが住まう後宮がひしめく内宮がある。内宮よりさらに上の山頂に近い場所に政を行う寶玉殿や皇族の居所があった。
何故、丸々一つの山を宮城としたのか。
かつて真璃国の初代皇帝・貴郭照は、建国の折に助力を得た仙人たちの長の娘・千姫を妃に迎えた。だが、人間と仙人では住む世界が違う。仲間のいる仙境を懐かしむ千姫を慮り、郭照は霊山の一つとされた白鳳山の頂に宮殿を構えたというわけだ。千姫の居する宮が山頂付近にあるのも、仙境から俗世へと降り立った仙人たちが千姫のもとを訪ねやすいよう配慮したためだと言われている。
「俺、これからそんな生ける伝説にお会いするのかぁ……」
奏栄は自分が目指す山頂の方へ目を戻し、気を引き締める。
皇族の中でも、「仮面の公主」は別格だ。
緊張と若干の不安から、嫌でも肩に力が入る。
漢白玉石の長い歩廊は、寶玉殿から延々とこの山の頂まで延びている。普段の奏栄ならば荘厳な造りの御路にさえ気後れしていただろう。これから尊麟宮を訪問すると思うと、正直、御路の細かな装飾に恐れ入るほどの心の余裕はなかった。
「仮面の公主、穏麗花様……一体どんなお方なのだろう?」
奏栄の表情が輝く。急く気持ちに背を押される形で止めていた歩みを再開した。
皇帝の傍らに仮面の公主あり。
公主の眼は人の心の悪しきを見抜き、皇帝はその導きによって世に太平をもたらす。
麗しきから賤しきまで、この国に住む人々は誰もが彼女の存在を知り、敬い、そして畏れていた。まさに天上に住まう仙女そのもののごとく、崇拝されている。
加えて、皇族の中でも仮面の公主に拝謁できる者は限られていた。仮面の公主が住まう宮を訪れることができるのは、皇帝と皇后、そして皇帝が特別に許可を与えた者に限られた。同じ血を分けた皇族だろうと、その門扉を軽々しく開きはしない。
「そのような高貴な方の護衛に何故、仙騎隊の俺が選ばれたのか……」
奏栄は目の前にそびえる寶玉殿の門を見上げ、思わず呟いた。
皇帝の勅書が、それも奏栄を名指しした形で下されたのはほんの数日前のことである。
当然、異例中の異例なことであった。
仙騎隊はもともと、禁軍と並ぶ皇帝直属の実戦部隊。妖魔の討伐が主な任務だが、戦乱がない世が続く昨今、その任務はもっぱら災害救助や地方への軍事支援のための遠征が多かった。任務の必要上、護衛を担うこともあるが、皇族の護衛はまったくの専門外である。
寶玉殿の門をくぐると、そこから右の脇道へと逸れ、皇族の居所区画へと向かう。その中でも、奥まった場所に尊麟宮は門を構えていた。釣り灯籠が掲げられた門構えには左右に一頭ずつ、鹿のような獣が描かれている。顔は龍に似ており、二本の角を頂いている。馬の蹄で地を踏みしめ、牛の尾を振り、ここから先が聖域であることを来訪者に警告するのは「麒麟」である。
代々の仮面の公主が住まう宮。
仙女の末裔が住まう宮だからこそ、特別な瑞兆を描くことを許されていた。
奏栄はゆっくりと息を吸い込んだ。
「軍令部退魔寮より参りました! 仙騎隊隊長、蘭奏栄と申します! 公主様にお目通り願います!」
声を張り上げて訪いを告げ、しばらく門前で待つ。
しかし、待てど中から応じる声はない。
「おかしいな……」
奏栄が宮を訪ねることは皇帝の勅書にてすでに公主に伝えてあるとあった。たとえ来訪を聞いていなかったとしても、侍女が顔を出さないというのも不自然である。
奏栄が軽く門を押す。軋んだ音を立てて門が開いた。
門の隙間から尊麟宮の中を覗く。尊麟宮の庭には、人工的に引かれた池が見えた。池の傍には石楠花、躑躅などがその薄い色合いで宮を彩っている。さすがに標高が高い場所にあるせいで、牡丹などの花を庭に見ることはできないが、奏栄はこの控えめながらも趣のある庭を美しいと思った。
庭の奥には殿舎があり、屋根付きの渡り廊下が離れに続いている。
遠慮がちに門をくぐった奏栄は、すぐさま煮詰めた草木の香りを嗅ぎ取った。薬草を煮詰めてでもいるのか。厨らしき小さな建物から香ってくる。
奏栄は侍女がいると思われる厨を目指して歩を進めた。
「失礼、誰かいないか――」
引き戸を開けた途端、奏栄は石のように固まった。
厨には、女性が一人、竈の前に立っていた。
広袖をたすき掛けにし、翡翠色の長い裳を履いている。髪に差した簪には竜の意匠が彫り込まれており、その顔は薄く笑む仮面に覆われていた。若葉のような色合いの蔦草が描かれた仮面がこちらを向く。
「……仮面の公主様?」
しばらくの間を開けて、奏栄の口から発せられたのは確認の言葉だった。
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