迷う心
自室にこもる麗花は、楽しみにしていた書物を開くことなく卓上に放り出した。寝台の上に倒れ込み、両足を抱えて丸くなる。静まり返った室内に響くのは、麗花がこぼすため息ばかり。
「……さすがに、言い過ぎてしまった」
奏栄は麗花に真摯に尽くしてくれている。彼が来てからというもの、麗花は悪意溢れる贈り物の悩みから解放され、満足のいく食事も摂れるようになった。
感謝こそすれ「必要ない」などと言うべきでは決してなかった。
「『仮面の公主』は声を荒げたりしない」
いつだって泰然として人々の前に立ち、諭すように語ることが仮面の公主のあるべき姿だ。
「『仮面の公主』は世俗のものに触れたりしない」
皇帝の傍近くに仕える以上、学ばねばならないこと、磨かねばならない所作は多岐に渡る。
「『仮面の公主』は己の感情を表に出してはならない」
果たして今の麗花は、仮面の公主としてふさわしい振る舞いができているだろうか。
「きっと……奏栄殿にも幻滅されたかも」
いや、それでいいではないか。
麗花はごろんと体の向きを変えた。
天蓋から垂れる薄布の幕をぼんやりと見上げる。
そもそも、麗花は奏栄がこの宮から出ていくことを望んでいる。
理由としてはかなり情けないものとなったが、今なら彼を追い出せる。
陛下からの贈り物を公主の許可なく改めたという、絶好の口実もある。
「何も迷うことはないはずなのに……」
麗花の気持ちは、まるで沼に沈み込むように落ち込んでいく。
「この宮から出ていけ」
羞恥と怒りで奏栄を責めた時でさえ、その一言が麗花の唇から出てきてくれなかった。
他者にどう思われようと、今までも泰然とした態度を貫いてきたのだ。奏栄一人に嫌われたところで今更なんともない……はずだ。
それなのに、麗花の唇はまるで縫い留められてしまったかのように動かない。
わたくしは、奏栄に嫌われることを恐れているの?
麗花は寝返りを打って部屋の扉に顔を向ける。
少し前に奏栄が「食事だけでも摂ってほしい」と外から声をかけてきたが、今はどこかへ立ち去ったようだ。おそらく、離れにいるだろう。
気を取り直して鍛錬の続きをしているのか。
それとも、麗花のご機嫌を取るための手を考えているのか。
本当に、奏栄がこの宮に来てからというもの、彼のことを考えない日はない。
「……そうえい」
かけ布をぎゅっと握りしめ、消え入りそうな声で彼の名を呼んだ。
「麗花様」
扉の向こうから、応じる声がある。
麗花は思わず寝台から跳ね起きた。
ばくばくと自分の心臓の鼓動がうるさい。
まさか、あんな小さな声すら聞き取って……返事をしたのか。
せっかく収まった体の火照りがぶり返してくる。両手でかけ布をぎゅうっと握りしめた。
返事ができずにいると、扉の外にいる奏栄が再び口を開いた。
「お怒りはごもっともです。ですが、せめて何か口にしていただかないとお体に障ります」
奏栄の声はどこまでも麗花の身を案じている。扉一枚隔てた向こう側で、一体奏栄はどんな表情をしているのだろう。
麗花は落ち着かず、寝台から降りて扉の傍へと歩み寄る。
けれど、扉を開く勇気は出なかった。
あんなひどいことを言い放ったのだ。奏栄の顔を見ることが恐ろしい。けれど、もしもこのままじっとしていたら奏栄が宮を出て行ってしまうかもしれない。
わたくしは、奏栄を遠ざけたいの? それとも傍に置きたいの?
己の中で相反する問いが真っ向から衝突する。そのせいで、麗花の足は床に縫い留められてしまったかのように動かなかった。
「『流れ行く海棠の花片に、詩を載せよう』」
奏栄の低い声が、麗花のよく知る書籍の一節を諳んじる。
麗花は顔を上げ、扉を凝視した。
「それは……」
麗花の声が震える。扉の向こうで、奏栄が続けた。
「本来は海棠の花に詩歌をしたためるべきなのでしょうが、私はそういった素養がなく……そこで、別の形で公主様に海棠の花を贈ります」
麗花は震える両手で扉を押し開いた。
奏栄は部屋の前で盆を手に頭を下げていた。麗花が扉を開けた音を聞き、ゆっくりと顔を上げる。麗花の姿を目にするなり、奏栄はどこか安堵したような表情になった。
「鸞州の海沿い、琴海に面した地域で食されている甘味にございます。その形から『海棠』とも呼ばれております。一口で構いません……召し上がってみていただけますか?」
そう言って麗花に差し出してきたのは、米羔である。奏栄の言う通り、海棠の花に似た形状をしている。
麗花が皿から米羔を一つ取る。まだ温かい。作りたてだ。
麗花は奏栄に背を向け、仮面をずらして米羔を口にする。口内に広がる甘さに、それまで麗花の胸の中で波打っていた感情が徐々に静まっていく。
「……奏栄殿には敵いませんね」
再び奏栄に向き直った麗花は、しっかりと奏栄の視線を受け止めた。
「わたくしも心無い言葉であなたを傷つけました。……許してほしい」
「許すなど……私の配慮が足らなかった結果でございます」
奏栄は穏やかな表情で再び頭を下げた。麗花は小さく笑う。
「奏栄殿は護衛であって、わたくしの世話役ではないのですから。こんなわたくしに付き合わずともいいのに……」
「護衛だからこそです」
奏栄の双眸が再び真っ直ぐ麗花を見つめる。
「今この宮で、あなたを守れるのは私しかおりません。そして、そんな私を奮い立たせてくださるのは、麗花様が私へ信頼を寄せていただくからこそ。公主様の投げかけてくださる言葉や視線が私には何よりも励みとなります」
微笑む奏栄の前で、麗花は言葉を失った。
ここ数日、麗花が奏栄の様子を観察していたのと同じように、彼もまた麗花を見ていたのだ。最近、食事の味付けが麗花の好みのものが増えた。贈り物に苛立つことも減った。夜になると、以前よりもぐっすりと眠ることができるようになった。
「……陛下が人を傍に置け、と言った意味がようやくわかった気がします」
彼らはただ、麗花の傍に立っているだけではない。彼らはそれぞれの得意とする方面から、主を守るために最善を尽くしてくれているのだ。
「けれど……」
わたくしは人を傍に置くことができない。そんな資格は、わたくしにはない。
麗花の顔が自然と足元へ向く。両手を硬く握りしめ、差し出される奏栄の温もりに縋りついてしまわないよう虚勢を張ることが精いっぱいだった。
「麗花様?」
黙り込んだ麗花を、奏栄が心配そうにのぞき込んでくる。
「……粥はありますか? お腹が空きましたので、昼食にしましょう」
麗花は白くなるまで握りしめた手を解き、努めて明るい声で言った。
「さぁ、奏栄。その海棠も一緒に食べましょう。早く支度を」
「はい、承知いたしました」
奏栄は麗花の指示に一礼すると、すぐさま厨へと向かっていく。
そんな彼の背を見つめる麗花は、そっと顔を伏せた。
「ごめんなさい」
その言葉は、吹き抜けたそよ風にかき消されるほどに、弱々しい囁きだった。
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