「仮面」の呪縛
わたくしの顔は、秘された牢獄である。
真璃国が初代皇帝・貴郭照により興された折、帝の片腕としての役目を担う公主は、その顔を仮面の下へと封じた。それこそが、わたくしに課せられた「戒め」であり、「罰」なのである。
国を治めるは天子。天子の決定は天の理。
これは覆ることのない、絶対的な真理でなくてはならない。
小鳥が飛び立つ音に、我に返った。
随分とぼんやりしてしまったようだ。日はもうだいぶ高くなってしまっている。急いで支度しないと『客人』が来てしまう。
視線を窓の外の景色から、手元の衣に戻した。
木々の葉が、柔らかな新芽からすっかり若葉へと成長する頃。
宮中の女人たちは、その季節の色を春から夏のそれへと変えていった。
しかし、尊麟宮では衣替えにはまだまだ早い。
山の頂に位置する宮では、真夏に差し掛かった頃に衣替えをしても間に合うほどである。だからこそ、この時期の来客は実に面倒だ。急いで長櫃をひっくり返す手間を思うと、来客を差し向けてきた皇帝に怒りすら覚えた。
長櫃から最初に掴んだ広袖の上衣に腕を通す。彤管の色合いが白い腕に映えた。合わせる長い裳は翡翠色。どれもこの時期に合わせる夏の色である。薄地の衣を纏うと、腕をさする。肌寒い外気に、鳥肌が立っていた。
「本当に、今年の夏も暑いのかしら……?」
真璃国の夏は例年、暑いらしい。まったく実感がわかないが、雨期を控えたこの時期に、早くも日照りが続く地域があると聞く。雨期を待ちわびる声がある一方で、毎年河川の氾濫によって大きな被害を受けることも珍しいことではない。何事もままならぬものである。
「今度の『客人』は若くして仙騎隊の隊長に就任した人……」
客人の情報を頭の中で整理しながら、長い前髪を額の中央で分け、後頭部でささっと団子にまとめる。蝶々のように緩やかな輪を作り、耳の後ろ髪を両サイドから前へと垂らした。髪に竜を象った豪奢な簪を差したところで手は止まる。
普通なら、女人は化粧を施すものである。しかし、わたくしには不要であった。
椅子から立ち上がり、部屋一面に設置された棚の前を悠然と歩く。
部屋一面を囲むは、仮面。
白い面に、筆で色彩豊かに描かれた細面の顔が季節の風物を添えて微笑んでいた。鏡を置くための台を仮面の置き場とし、己がこの日に纏うにふさわしい「顔」を選ぶ。
どれがいいかしら……。
指で飾られた仮面の鼻先を撫で、吟味する。
あえて皇室を象徴する意匠を被って相手を委縮させてしまうのはどうだろう。そうすれば今回の話、陛下はなかったことにするだろうか。そこまで考え、ため息とともに首を振る。
相手は仙騎隊を束ねる人物だ。
荒くれ者の多い、異能だけで選抜された実戦部隊。
禁軍としょっちゅう揉め事を起こすような連中なら、もしかしたら皇室の象徴を前にしても平然としているかもしれない。
権力での威圧が無理なら……花を象ったものはどうだろうか。
棚を一つ移動し、麗しい花の意匠が描かれた仮面たちを見渡す。こちらの棚一面には、春夏秋冬、季節折々の装いをした「仮面」が並んでいる。
相手は殿方で、かつ武人。草花の持つ意味を広く理解しているとは思えない。ただ、相手の故郷の草花を避けることは忘れない。無礼だと怒ってくれるならまだしも、万が一にも己の故郷の習慣に詳しいのだと好感を持たれては意味がない。
仙騎隊の隊長は確か南部……鸞州の生まれだったはず。
客人の出自情報を記憶の底から引っ張り出し、棚の前でしばし首をひねる。
仮面の公主としての体面を保ちつつ、相手を牽制するための意匠……。
こつんっと指先が一つの仮面に触れた。玉のような白肌に、額には花鈿があしらわれ、目元に蔦草を添えたものだ。花をつけない蔦草。思わず口角が上がった。
纏った装束とも色味が合う。仮面の表情も柔和だし、これなら問題ないだろう。
選び取った仮面を纏った瞬間、外界から切り離されたような感覚に陥る。
鏡を覗き込めば、そこに映し出されるのは、まさに真璃国に降り立った仙女の姿であった。
「わたくしは仮面の公主……穏麗花」
帝より「穏」の姓を賜った時より、この無数の顔が「私」である。
「何人たりとも、『わたくし』の傍へは近づけない」
仮面の公主として、わたくしは真実を仮面の下へと隠す。
誰よりも帝の傍近くに仕え、人々の悪意をその目で暴き続けるわたくしは、「仮面の公主」でなければならない。ゆえに、わたくしの傍に「他者」はいらない。
静寂に満ちた部屋に突如、きゅうっと小動物が鳴いたような音が響いた。
咄嗟に、右手が腹部を押さえる。
「……まだ、時間はあるわよね?」
客人が来ていないことを確認するため、門の方を伺い見る。
そうしてそそくさと部屋を後にした。
背にした無数の仮面たちは、変わらぬ静寂の中でひっそりと微笑っていた。
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