3.大悪魔、屋上へ
ホームルームが終わり、数学、理科、現代文の授業の間ロノウェは意外にも真面目に聞き入り、昼休みが訪れる。
クラスメイトたちが解放感に溢れた面持ちで席を移動し昼食の準備にかかるのを横目に、ロノウェは足早に屋上へ向かった。
2階の教室から出て屋上へ続く階段を駆け上がり、立ち入り禁止のテープが貼られた扉を開けて外へ出た。
朝方は快晴だったはずだが、見上げると雲が厚くなってきている。
ロノウェは外の空気をひとしきり吸い込むと、独り言のように呟く。
「顕現せよ、我が下僕よ」
すると、ロノウェの言葉に呼応するように中空が歪み、眼前に濃い靄のようなものが現れる。
靄はやがて人形を形成し、次第にはっきりとその面影を移し出した。
容姿は男子としては小柄なロノウェもとい駆太少年より少し高いくらいの、若い女性。
紫色の瞳を持ち、色白の肌に彫りの深い顔つき。
艶のある長い黒髪がかかる豊満な胸部。メリハリのある体躯に黒色のドレスを身に纏いっている様は、どこか妖艶な雰囲気を醸し出している。
一見魅力的な女性を象徴しているようなその姿だが、背後から覗く黒色で細い尻尾が、彼女が明らかに人間ではないことを体現している。
「我が君」
女性はロノウェを見つめると、そう言ってうやうやしく頭を下げた。
「どうだエルナよ、こちらの世界は」
ロノウェの問いかけに、エルナと呼ばれた女性は周囲を見回し、少し考えたあと、口を開いた。
「ここはなんというか、明るいですね。我々の世界と比べ、魔力も薄く、歪みもなく、空気が軽い。ただ、」
いったん言葉を切ると、目を細めながら校舎を見渡す。
「そんなに単純な世界ではないようですね。人々の営みから生まれる様々な感情が、負の意識を纏って想像以上に広く、漏れ出ている」
「そうだ。その通り。この世界は俺たちの思っている以上に複雑で、澱んでいるのだよ」
ロノウェも、エルナの意見を肯定する。
人間界に降りたって1日目にして、ロノウェは様々な事を感じていた。
そんな中でも最も気になったのが、人々の感情が入り交じる、教室という小さな世界。
「これは壊し甲斐があるなあ? ここにいる奴らの阿鼻叫喚を早くこの目に納めたいものだ」
心の底から楽しみだとばかりに、ロノウェはニヤリと笑った。
「ところでロノウェ様。これからどうやって契約を果たすおつもりですか? しつこいようですが魔法は原則使えないことになっているのですよ」
「ククク、それなら考えてある。この世界の、さらにいえばこの学校とやらにいる連中はまだ若く、未熟で、不安定だ。心も弱く、みな多くの悩みを抱えている。ようは物理的にではなく、内面から崩壊させてしまえば良いのだろう?」
「流石はロノウェ様。この短時間でそこまで読まれていたとは、感服です。それでは、具体的にどのように崩壊させると?」
「それはこれから考える。まずはしばらく奴らを観察し、最も効果のある方法でやつらを絶望の底に突き落としてくれるわ」
「なるほど。あ」
二人が談義していたところで、ガチャリと音がして校舎内への扉が開いた。
そこには、朝方ロノウェに絡んできた三人組がいた。
「よう、駆太くん。探したぜ」
三人組のうち、駆太を突き飛ばした大柄な男、吉岡が下卑た笑みを浮かべながらこちらに向かってきた。
「土井、お前いつも一人でいなくなるからどこいるか分かんねえんだよ」
「ソフト買ってくれる気になった?」
残りの二人、岡崎と滝沢も後に続く。
「貴様らか、しつこいやつらだな」
鬱陶しいといわんばかりの顔つきで、ロノウェは三人を一瞥する。
その傍らにいたエルナは、いつの間にかいなくなっていた。
「朝はよくも舐めた口聞いてくれたな? 調子に乗ってる奴はしばいておかねえとな」
大柄な男、吉岡はロノウェの前に立ち、威圧的な表情でこちらを見下している。
「調子に乗る? 意味が分からん。この世界の奴らは皆平等だと聞いたぞ。貴様と俺に上下関係は無い。ゆえに貴様が俺に偉そうにする道理など無いはずだが」
「なんか朝から様子がおかしくないか? 頭壊れた?」
ロノウェの言葉に、金髪にピアスの男、岡崎が反応する。
「ああ、分かったぞ。つまり貴様らは無法者というわけか。道理で卑しい顔つきをしているわけだ。であればこの国の裁きを受けるがいい。俺が手を下すまでもない」
「うぜえ。もうこいつしばくわ」
吉岡は苛立ちを露わにし、ロノウェに対し、拳を振りかざす。
吉岡に対し、遙かに体格の小さな駆太の体。
しかし、ロノウェからすればこの程度の攻撃はなんという事は無い。
例え動体視力が駆太のものであっても、魔力も持たず、武道も修めていない人間の拳など、脅威にはならない。
ロノウェは迫り来る吉岡の拳を、後ろに身を引いて躱した。
「なッ」
一瞬あっけにとられ、自分の拳を見つめた吉岡だったが、すぐにロノウェの方に向き直り、次なる攻撃を仕掛けてきた。
今度は蹴りだったが、それも紙一重で躱す。
「どうした下郎よ、この程度か?」
ロノウェは吉岡をあざ笑うように煽った。
「てめえ、調子に乗ってんじゃねえ!」
体制を立て直した吉岡は、再び蹴りを繰り出してきた。
「同じ動きではないか、これでは・・・ッ」
同じように躱そうと後ろにステップを試みたロノウェだったが、背後に別の足が添えられていることに気づく。
普段なら躱すことは造作も無いが、駆太の体では上手く身動きが取れない
ロノウェは咄嗟に体を捻るが間に合わず、背後の足に引っかかり体制を崩した。
そこへ、吉岡の蹴りが直撃した。
「ググ・・・ッ」
ロノウェは衝撃にたまらず、みぞおちを押さえて倒れ込んだ。
呼吸が止まる。視界が真っ白になる。
「はあ、はあ、ちょこまか動いてんじゃねえぞ雑魚が」
朦朧とした意識の中で、吉岡たちが話しているのが聞こえる。
「吉岡ちゃん、ナイスクリティカルヒット」
「滝沢。お前は入ってこなくて良いんだよ」
「ごめんごめん。なんか見てたら格闘家の血が騒いじゃって」
なんということはない素人の攻撃だが、小さくひ弱な駆太の体には衝撃だった。
また、駆太の体が受けた衝撃はそのままロノウェの痛覚にも連動している。
「野蛮な、猿どもめッ、貴様らなど、本来一瞬で塵に出来ると言うに」
少しずつ意識が戻ってきたロノウェは、地面に這いつくばったまま吉岡を睨み付けた。
「まだそんなこと言ってんの? もう止めた方が良いよ。その態度」
ロノウェに足をかけた男、滝沢が反応する。
「それに、貴様ら正々堂々と、一人で戦うことができんのか。途中で余計な邪魔が入らなければ、そこにいる素人の単調な攻撃などなんの脅威でもなかった。なあ? 大柄の男よ」
ロノウェの言葉を聞いた瞬間、吉岡の眉がピクリと動いた。
苛立ちに満ちた表情でロノウェを睨み、その足でロノウェを踏みつけた。
「おい、駆太。お前何か悪いもんでも食ったのか。そうだろ。そうじゃねえと、こんな苛つくこと言うわけねえもんな?」
「倒れている無防備な敵に攻撃を加えるところも、いかにも小物だな」
「コイツ・・・!」
苛立った吉岡が足を振り上げた時だった。扉がガチャリと開き、そこから中年の教師が飛び出してくる。
「何してるお前ら! すぐやめなさい!」
「チッ、誰かがチクりやがったのか。命拾いしたな、駆太くんよオ」
教師が駈け寄ってくると、吉岡はロノウェから足をどけ、扉の方へと歩いて行く。
「大丈夫か、君!」
「あ、ああ。大事ない」
教師は心配そうな表情でこちらを見下ろしたが、ロノウェはすぐに立ち上がり、制服の埃を手で払う。
「ひとまず、保健室に行きなさい! 次の先生には、私から話しておくから」
ロノウェは教師の指示に従い、保健室とやらに行くことにした。