2.大悪魔、朝を迎える
「ククク……」
昨日の公園での一幕から数時間後の、晴れ晴れとした早朝。
自室の窓から差し込む光と小鳥のさえずりを聞きながら、少年、土井駆太もとい大伯爵ロノウェは、ベッドの上で一人、堪えきれない笑みを顔に浮かべた。
「クク……フハハハハハハ! 久しいな人間界! 人の世とはこうも明るいものであったか!」
思いの丈を高らかに叫ぶ。抑えきれない興奮を隠すことはせず、高揚する気分そのままに、陽光を遮るカーテンを開けた。
「むむっ、眩しい……眩しいぞ! ハハハハハハハ!」
二階の東側に位置する土井少年の部屋からは、朝日がこれ以上無いほど煌々と差し込み、視界いっぱいに広がる景色を照らしている。
見渡す限りどこまでも連なる民家に、ひときわ高いマンション群、もっと向こうには、青々とした山々がここで行き止まりとでも言うように街を囲む。
およそ百数十年ぶりの人間界の景色に、大伯爵ロノウェは深い感慨と共に、飽くことなくそれを眺め続けていた。
と。
視界の中で動くものがある。
見ると、家の前の道で中年の女性がウォーキングをしていた。
「ご婦人、朝が早いな!」
すかさず声を掛けた。相手は人間とて、礼儀は大切だ。
どんな状況であれ礼節を弁えることこそ、紳士たる素因の一つ。
「あっ、……え、え……?」
ロノウェの声に気付いたのか、その場で立ち止まる女性。
しかし、何処かおかしい。ぽかんと口を開け、こちらを指さしたまま、何も返してこない。
「どうしたご婦人! 俺の顔に何か付いているか?」
念のため顔を触ってみるが、そこにあるのは肌色で産毛の生えた、人間の柔肌の感触。
依頼者であり契約者、土井駆太少年の体を借りて顕現している今、それは当然の事だろう。しかし、それならば何故、この女性は自分に対してこのような反応を示すのか。
ロノウェは考えた。が、結局答えは出なかった。
「ご婦人、こちら若年とは言え、他人に向かって指を差すのは、少し失礼ではないのか?」
「……」
「ご婦人、こちらに何か非礼があったのなら詫びよう。だが、何が理由か分からねば、俺としても謝り損と言うことになってしま」
「せ、せめて……」
「……なんと?」
「せめて、ぱ、パンツを履きなさいー!」
女性は叫ぶと、逃げるようにその場を去ってしまった。
「ん? ……ああ、なるほど。そういうことであったか」
確かに言われてみれば、ロノウェは今、全裸の状態だった。
(そう言えば人間界には、下着という文化が存在していたのだったな)
そう自分の注意不足を反省しつつ、おもむろに下半身を眺め、
「フッ。矮小な」
部屋のクローゼットからパンツを取り出し、頭に被った。
そして、腰にタオルを巻いてテープで留めた。
「駆太―! 学校遅れるよー」
ここで、一階のリビングから女性の声が響く。
おそらく、土井駆太少年の母親だろう。
「母上待たれよ! 今行くゆえ!」
「母上?」
「ああ、え、か、母さんだ、母さん!」
「ご飯は食べていくのー?」
「時間が無い、朝食は遠慮しておく!」
人間界とは、思いの外面倒なものである。多種多様な言語が存在する上に、同一言語の中でさえ何通りもの同意語が存在する。
自らの世界との違いを改めて実感しながら、ハンガーに掛けてあった制服一式を身につける。ここ日本では、これさえ着れば学生であるとの認識を周囲から得られるらしい。
全く、便利なモノである。
制服を着て、支度を整えたロノウェは机上に置かれた鞄を掴み、部屋の外へ。
階段を降りた先にある玄関に着き、そこに並べられた靴の中から、足に合う一組を選び、履く。
そして……
「ちょっとアンタ!」
不意に背後から声を掛けられた。振り向くと、土井少年と年頃のそう変わらない女性が、怪訝そうな顔で立っていた。
おそらく、人間界の基準では成人手前、といった所だろうか。
「何頭に被ってんのよ、まさかそれで学校行くつもり?」
「は? それは、どういうことだろうか……?」
ロノウェは困惑する。見る限り土井少年の姉であろうこの女性は、自分に何を訴えているというのか。
「どういうことって、そのパンツに決まってるでしょ! ゲームのしすぎでボケちゃったの?」
「ぼ、ボケてなどいない! こ、これがどうかしたのか!」
どうにも口調にトゲがあるように感じるが、ロノウェを馬鹿にして遊んでいるわけでは無さそうだ。
心底呆れたような顔で、ロノウェの頭の上を指さしている。
「あーもう! 面倒臭い! 分かったわよお猿さんのために丁寧に教えてあげるわ、それの身につけ方が違うって言ってんの! どう? これで満足?」
「な、なにっ! これはこういうモノではないのか?」
「はあ……、どうしたの、アンタ今日ちょっとおかしいわよ……? 学校休んだら?」
「学校は休めん! 契約だからな! それより、このパンツとやらの使い方を俺に教えてくれ!」
「……はあ!?」