馬鹿げた話
異世界、大陸中央部に存在する大国――アングル王国。
その北には海を隔てて大きな島が存在している。
そこは、『魔族』と呼ばれる人類の敵たちの本拠地。人々はこの地を『魔界』と呼び、忌むべきものの住む地として恐れている。
そんな島の中央、広く周辺を見渡せる山の上には荘厳な城が鎮座している。
魔王城、と呼ばれる魔族の拠点である。
魔王城、とある部屋の中にて。
城の三階に位置するこの部屋は、魔界においても身分の高い魔族が住まう居住区になっている。中でも魔王の居室に近いこの部屋の間取りは広く、置かれている調度品もかなり質が高い。
「どういうことですかっ!」
荒々しい声をとともに、机を叩く音が響いた。
彼はこの部屋の主である、一体の魔族。
黒々としたマントを身に着けた、年若い男のように見える。美しく長い黒髪とそれに見合った長身の、美青年といって差し支えない容姿だろう。
しかし人間と違った尖り気味の耳が、魔族であることを雄弁に物語っていた。
彼の名は全謀の将エドマンド。軍師として魔王軍の方針を決定する、極めて重要な役職に就く魔族だ。
そんな彼は今、激しく憤っていた。
「魔王軍参謀、全謀の将エドマンドの名において問う! ライオネル、君は自分がどれだけ愚かなことをしたか理解しているのですか?」
対するはライオネル。
つい先日、異世界の勇者たちと洞窟で対面を果たした、あの魔族である。
勇者たちと対面を果たした時の余裕綽々な表情と違い、今の彼には激しい困惑が見て取れる。
「勇者は魔族の脅威。それが分かっていながらなぜ殺さなかったのですかっ!」
エドマンドは手に持っていた扇を振り回し、怒りを示した。
彼が問いただしたいのはこれだった。
あまりにも馬鹿げた話だ。
魔族と人類は長く激しい争いを繰り広げている。魔族は配下の魔物たちを人間の大地に放ち、時として自ら軍を率いて戦争を引き起こす。それはスキルと魔法の飛び交う恐ろしい戦いだ。
魔族も、そして人間も互いを決して認めない。今は海を隔てて離れてはいるが、やがては互いの領地を制圧し、蹂躙し、支配下に収めたいと願ってやまない。
たとえどれだけ犠牲を払おうとも……。
そしてやや劣勢の人間が召喚した勇者たちこそ、今、話題になっている異世界人なのだ。才能に恵まれた彼らを殺すことができれば、魔族たちにとっての今後の憂いを断つことができたはずだ。
「そもそもあの『試練の洞窟』とは何なのですかっ? この魔界からアングル王国の首都近くまで、転移の魔方陣を用いて移動できるだなんて……。もしこれが活用できていたなら……私たち魔王軍はすでに人類に勝利していたのですっ! 今はもう人間たちに見つかって破壊されてしまったことが……悔やんでも悔やみきれません」
全謀の将、エドマンドはいくつもの策を生み出し、人間たちに勝利していた。すべては敵に勝利するためであり、そのための犠牲は決して少なくない。
アングル王国首都に攻め込める簡単な方法があるなら、その犠牲ももっと少なくて済んだはずだ。ゆえにこの度のライオネルの行いは、これまで魔族が積み上げた努力を愚弄する『馬鹿げだ話』なのである。
「申し開きがあるから何か言ってくださいライオネルっ! 私と君との仲じゃないですか……」
「…………分からない」
「はっ?」
エドマンドは一瞬、目の前の魔族が何を言っているのか理解できなかった。今、この真剣な場所で決して言ってはならない返答だと……彼の頭脳が拒否を示していたのかもしれない。
「ふざけているのですかライオネルっ! 確かに君は『全知』のスキルを持つ魔族。何かを知りたい、何かを学びたいという欲求は誰よりも強いのでしょう。異世界人と話をしたいという欲求は理解できます。しかしここまで愚かなことをする理由にはなりませんっ! お願いですから本当のことを……」
「違う、違うんだ……」
困惑するライオネルの様子を見て、エドマンドは尋常でない何かを察した。
「僕だって馬鹿じゃない。あそこに味方の兵を送り込めば、この永遠に続く戦いを終わらせることができた。そんなことは理解しているよ」
「ならどうしてですか……どうして」
「分からないんだ……」
ライオネルは震えていたい。
幾多の魔族の頂点に君臨する、魔界三将の一角。その実力は『全武の将』と呼ばれるジェーンには劣るものの、まぎれもなく魔族の中では片手で数えるレベルの上位者。
その彼が……何かを恐れている。
「僕はなんであんな場所に行ってたんだ? あんな転移の魔方陣なんて知らない。どうやったらあんなものが作れるんだ? 冒険者たちを殺した記憶もない。どうして勇者たちを殺さなかったんだろう? 何もかもが分からない。まるで変な夢を見てたみたいだ……。分からない……怖い……怖いんだ。自分が……、したことのはずなのに……僕は……一体……どうして……何を…………。ごめん、本当にごめん……」
「本気、なんですか? ライオネル?」
泣きそうになっているライオネルは、とてもではないが演技をしているようには見えない。エドマンドはついさっきまで怒っていたことを忘れ、思わず彼の背中をさすってしまった。
「つまり君は、誰かに操られていたと? 自分の意思で起こした行動ではない、と?」
「ああ……なんで僕はこんなことをしてしまったんだろう? 魔界の同志たちに……死んでいった仲間たちに詫びたい。とんでもないことをしてしまった。僕は、千載一遇のチャンスを逃してしまったんだ……」
「ラ、ライオネル。も、もういいです。君は疲れているようですね。今日はゆっくり休んでください。また何か異常を感じたら、すぐに私に報告してください。誰か! ライオネル殿の体調が優れない様子。部屋まで送って差し上げなさい」
「僕は……どうして……」
困惑するライオネルの問いに、答えてくれる者は誰もいなかった。
ここでこの章は終了とったところでしょうか。
『異世界始動編』と名付けましょう。




