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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

人形はシェルピンクの匂い

凍てつく目覚めと墨色の正気

作者: T.I.

 目覚めるたびに、そこが何もない暗闇だったらどうしようという恐怖に脅かされる。

 自宅で目が覚めるというのは、本当に幸せなことだ。

 起き上がり、ありがとう、という感謝の気持ちが湧いてくる。

 布団を畳み、押入にしまう。顔を洗い、髭を剃る。ホットコーヒーを飲みながら、トーストができあがるのを待った。

 何の変哲もない朝の光景だが、何ものにも代えがたい貴重な時間だ。

 スーツに着替え、家を出る。

 電車は今日も混み合っている。通勤ラッシュは苦しいが、自分以外に人間がいるということを強く実感できるので、喜びが勝ってしまう。

 電車を降り、会社へ向かった。

 タイムカードを切り、自分のデスクへ座った。私物は一切なく整理整頓されている。昨日で余計なものはすべて処分したので、必要最低限のものしか残っていない。

 いつも通り仕事をこなして行く。

 これも日常。

 だけど、明日からは違う。

 退勤三〇分前になり、上司へ挨拶しに行った。

「お世話になりました」

 今日でこの会社を退職する。

 最終日にこれといったイベントもなく、無事に終えることができた。

 残念だよ、と上司に握手を求められたので応じた。嘘でも本当でも、惜しんでもらえることに安心する。


 いまが何時なのかわからない。

 朝なのか夜なのか――凍えて意識が朦朧としており、自分がいつここへきたのかも覚えていない。

 真上を見上げた。

 遥か彼方にどす黒い空が浮かんでいる。

 猛吹雪で光は差し込まず、ただただ暗い景色が広がっていた。

 全く動けず、漆黒だけを眺めるというのもなかなかの拷問だが、吹雪のなか放り出されるよりは、深い穴に落ちて風を凌げているだけマシなのかもしれない。

 恋人のミレイとやってきたスキー旅行は、いまや生死に関わる惨劇の様相を呈している。

 悪天候のなか、調子に乗ってゲレンデへ繰り出した自分たちを待っていたのは、深い穴への滑落という事故であった。

 意図してやったわけではないが、恐らく一般のコースを外れてしまい、安全性の確保されていない場所を滑っていたせいだ。

「大丈夫? 起きてる?」

 ミレイに体を揺さぶられた。

「うん、起きてるよ」

 眠らないよう、互いに起こし合っているが、ほとんどミレイに起こされてばっかりだ。

「肩は? まだ痛む?」

「いや、痛みはないけど――とにかく寒い」

 穴へ落ちたとき、右肩を痛めてしまい全く動かせなくなっていた。最初は激痛が続いていたのだけど、寒さのおかげか痛みは微塵もなく、冷たさだけが残っている。

「ミレイも大丈夫?」

 うん、と頷いたものの、彼女も落下の際に足を怪我していた。たぶん、左足を骨折している。

 普段から色白なのであまり目立たないが、ミレイもこの寒さで相当に体力を消耗しているはずだ。

 恋人の自分がいうのもなんだが、滑らかで純白の肌を持ち、顔のパーツは全て整っているミレイは、容姿の美醜に関しては誰にも負けないものを持っている。よくて並み程度の自分が付き合えたことは奇跡だ。

 感情の起伏がわかりにくく、愛想のない点は欠点になるのだろうけど、ミレイの容姿はそれを補って余るものがある。実際わかりにくいだけで、感情は当然存在していて、互いに愛し合っていることは間違いなく、行き違いから喧嘩することだってある。

 だけど、いまはそういったわかりにくさが恨めしく思える。

 こんな状況だからこそ、ミレイが辛ければ支えてやるのが自分の役目だ。恋人の疲弊具合もわからない愚かさに、自分の無力さを酷く痛感する。

 ミレイに手に触れると、とても冷たかった。

 こんなに冷たくて大丈夫なはずがない。


 体の震えで目が覚めた。

 ソファーでそのまま眠っていたらしい。

 昨夜は結局、同僚や上司に送別会を開いてもらって帰宅したのは午前二時くらいだった。

 疲れ果てて、ベッドに辿り着く前に眠ってしまったのだろう。

 僅かに頭痛もする。

 暖房のスイッチを入れて、部屋を暖める。

 十分ほどで暖かくなり、寒さも和らいできた。

 あのときの経験で、寒さや痛みも馴れたと思い込んでいたけど、喉元過ぎれば何とやらで、結局文明の力に頼り切りだ。

 表面上は体が温まったものの、二日酔いもありダルさを感じていたので、シャワーを浴びに浴室へ向かった。

 熱いシャワーを浴びていると、すぐに体の奥のほうで感じていた冷たさも引いて行った。

 髪を乾かしながらソファーに腰かけていると、平穏に生きることの素晴らしさやありがたみが、嫌というほど実感できる。

 でも――それも今日までの話だ。

 自分には成さねばならぬことがある。そのために仕事も辞めた。

 安穏と生きることは、これからの自分に反する。

 髪も体も乾くと、決心の意味も込めてエアコンの電源をオフにした。リモコンから電池を抜き、壁に思い切り叩きつける。次に部屋のブレーカーを落とした。

 明かりが消え、部屋が薄暗くなる。

 リュックを取り出し、ありったけの防寒具、事前に購入していたロープやピッケルなどの登山道具も詰め込んで行く。

 どっしりと重たくなったリュックを背負う。

 あのときも、いまのように容易に背負うことができれば、こんなみっともない結果にはならなかった。


 垂直に切り立った壁を登ることは困難そうだった。

 その上、二人とも怪我を負っている。足場が悪く、風も吹き込んでくるので、とてもじゃないが上に戻ることはできない。

「おーい!」

 空に向かって叫んだ。誰か近くを通りがかった人が、気づいてくれるかもしれないという一縷の望み――。

「やめたほうがいいよ。正規のコースから外れてるから誰も近くにこないだろうし、風のせいで声も届かないと思うよ。疲れるだろうし――」

「そんなの試してみなきゃわからないだろう!」

 茶々を入れられたような気持ちになり、思わずミレイを怒鳴りつけてしまった。

 ただすぐに冷静になり、彼女のいうことも尤もだと感じた。ごめん、と謝ったが、ミレイは取り澄ました顔でこちらを見ているだけだ。

「どうしたらいいんだよ――」

 気持ちが萎えて座り込んだ。

 お尻の辺りが冷たくなるが、このまま立ちっぱなしも辛い。横になれるほどの広さもないので、正直体力的には限界が近かった。

「ねえ。何とか登れないかな?」

「無理だよ。こっちは肩を痛めてるし、ミレイだって足を怪我してるだろ? とてもじゃないけど、登って行くなんてできない」

「そう――だけどさ、私はもう限界。正直、いま喋ってるのもしんどい。喉の奥も冷え切ってて、呼吸するたびに意識が遠退く」

 ミレイはそういって軽く笑うと、こちらへ倒れ込んできた。受け止めたが、スキーウェア越しでも伝わってくるくらい、体がゾッとするほど冷たい。

「大丈夫? なあ、ミレイ」

 体を揺するがミレイから返事はない。冷たさも相俟って死んだのではないかと不安になる。胸の辺りに手をやり鼓動を感じたので、まだ生きているようだが、時間の問題ということは間違いない。

 ここでミレイと一緒に死んでいくのか――それはそれでいいようにも思えた。狭く暗い穴のなかで、愛する人と抱き合って死んで行く甘美な終わりだ。

 同時に、自分が何とかしなければ、という真逆の思いも湧き上がってきた。

 肩を痛めている。

 でも、片方だけで両足は無事だ。

 ならば、死ぬ気でやれば、この壁も登れるのではないだろうか?

 生命力が微塵にしか感じられないミレイの顔を見て、じわじわと心の奥が熱くなってくる。


 急に冷えたと思い目を開けると、バスがサービスエリアに停まっていた。

 高速バスで約八時間。目的地まではあと少しだ。

 座席で縮こまっていた体をほぐすため、バスから降りた。

 周囲は山。ちらほらと雪も見えはじめている。真夜中なので冷え込みも尋常じゃない。

 とはいえ、自分がこれから向かう場所はこんなものではない。寒さで体を動かすのもやっとだろうし、天候が悪化すれば視界は利かなくなる。

 深呼吸をした。

 怖くないといえば嘘になる。

 わざわざ、死の淵へと舞い戻るのだから、愚かといっても過言ではない。

 あの穴から這い上がり、病院で目覚めたとき、生きていたのが奇跡といわれた。そんな奇跡の生還をふいにするわけだ。

 バスに戻り席に座った。外と違って暖房が利いているので、吹き込んでくる風さえなくなれば寒さはほとんどなくなる。バスが発進するころにはまた快適な空間に戻り、自分はすやすやと眠ることだろう。

 そういえば、安心して眠れるようになったのは、ここ数日のことだ。目覚めの恐ろしさはいまだ続いているが、熟睡できるようになっただけ助かってから回復が進んだのだと思える。

 入院して命の危険がなくなっても、穴での寒さや痛みを思い出してしまい、悪夢ばかり見続け、叫んで目覚めることも多かった。

 それに、ミレイが何度も夢に出てきた。

 ピクリとも動かずどんどん雪が積もって行く。自分はそれをぼーっと見ることしかできないのだ。

 払い除けることも助けることもできない。

 ミレイが凍りついて行く様を延々と眺めるだけ。それは我が身に降りかかる苦痛よりも、遥かに凶悪で残酷なものだった。


 片手で穴をよじ登るのは、想像以上に困難だった。

 バランスを崩しても右肩と両足で体を支えないといけない。壁にあるわずかな切れ込みやでっぱりに足をねじ込み、進めなくなれば戻るという作業を何度も繰り返した。数メートル進むだけで恐ろしく時間がかかった。

 しかし、空はまだまだ遠い。

 陽が落ちて真っ暗な空は、一瞬穴の底を覗いているのではという不安ももたらすが――自分が正気であることを信じて進むしかなかった。

 冷たくなって自由に動かせない体は、もしかしたら自分の体ではないのかもしれない、と感じるくらい思い通りにならなかった。

 妙に手がぬるぬるすると思ったら、人差し指の爪が割れて出血していた。この寒さで感覚が麻痺しているのは幸いだったかもしれない。

 意識が朦朧とするなか、どんどん壁をよじ登って行った。よくこんな場所登って行けるな、と他人事のように思う。自分でもよくわからない体力と運動神経の発露に驚き、遠くのほうから歓声も聞こえてきた。

 誰かが肩を擦ってくれる。

 自分以外にも何人もの人間が壁を登っていて、頑張ろうとか、あと少しだよ、とか声をかけてきた。

 おっしゃあ、と上擦った声が出て、登る速度を早めた。

 上を見るとミレイがこちらへ手を降っていた。

 それは油断だったのかもしれない。

 ずるりと右足を踏み外し、そのまま穴の底へ落ちて行く。

 ――嫌だ。

「うがああああああ!」

 獣の雄叫びのような声を出し、殴りつけるようにして動かせないはずの左手で壁を掴んだ。

 何とか底までの落下は防いだ。

 呼吸を落ち着かせ、ゆっくりと登るのを再開した。

 一瞬、下を見たが、暗くてミレイの姿はよく見えなかった。かろうじてシルエットだけ確認できる。

 また意識が朦朧とする。

 だが、今度は左手の痛みが定期的に襲ってくるので正気を失うこともできず、必死に上へ登ることしかできなかった。

 もしかしたら、ミレイの幻は自分を正気に戻すために現れたのだろうか。

 いや、余計なことを考えては駄目だ。

 ただ登ることだけを考えろ。

 痛みと寒さをまとい、必死に暗闇から地上を目指す。

 気がつくと、周りは一面真っ白で、雪で足元がおぼつかないなか、必死に山の斜面を登っていた。

 出られたのだ。

 喜びや安心よりも焦りが上回る――早くミレイを助けださなければ。

 斜面を登り切り、灰色の空を見上げて時間の経過を感じる。穴に落ちてから何時間――いや、何日経ったのかわからない。

 幸い吹雪は収まっていて、急な斜面でなければ進むことに苦労はしない。

 人を探して歩き続ける。

 一般のコースだから誰かに出会えるはずだ。少なくとも山を下って行けば、間違いなく誰かに会える。

 ふっと意識が急に遠退いた。

 雪にうつ伏せで倒れ込む。

 突然だった。

 体がもう動かない。

 ああ、と溜息が出た。


 晴天だ。

 天候は最後まで不安だったが、晴れてくれたのは本当に助かる。

 雪もなければ幸いだったが、そのころには春になってしまうだろう。

 あのとき――穴から出たあとに倒れてしまったが、捜索隊に救助され重症ではあったものの何とか命拾いした。

 記憶にはないが、救急車で病院へ運ばれる途中、必死にミレイのことを喋っていたらしい。

「恋人が――ミレイがまだあの穴にいるんです――」

 ただ、ミレイは発見されなかった。

 それどころか、あの穴すら見つからず、彼女は行方不明となってしまった。

 病院で何度もいった。

「冗談いってないで、早くミレイを助けてください!」

 ボロボロの自分が歩ける距離なんてたかがしれている。自分が発見された場所からそう遠くないはずだ。

 しかし、ミレイはいつまで経っても見つからず、結局捜索は打ち切りになった。

 彼女は現実には存在せず、極限状態で生み出された架空の人物だったのかもしれない。そう思えるくらい、穴もミレイも痕跡一つ見つけられなかった。

 もちろんそんなことはない。

 それを裏付けるように、退院後に警察からは事情聴取を受けた。

 殺して山に埋めたと思われたのだ。怪我は争ったときにできた、と顔色の悪い刑事にいわれた。

 馬鹿馬鹿しかった。

 そんなことよりも、ミレイを発見することが重要だ。

 警察は当てにならない。

 ほかに頼れる人間もいない。

 だから、自分はここにきた。

 いまも凍えているであろうミレイを救い出せるのは、ほかでもない自分だけだ。

 穴を出てから数ヶ月――。

 長いこと待たせてしまった――。


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