勇者
灰の城は策謀と暗闘に満ちている。しかしそれ故にそこに集う者達の強さは本物だ。
百年掛けて大陸南部まで追い詰められた人類。多くの国家が滅び、生き残った者は南下した。
ウェリキス・バーチはここ十年の間に死の渓谷と呼ばれるようになった激戦区だ。渓谷を塞ぐように建設された大要塞が攻め寄せる魔王軍の侵攻を幾度も跳ね返した。
ウェリキス・バーチならば魔王軍と戦える。
北で負け続け、それでも生き抜いた者達のしぶとさは一言では言い表せない。
人族も精霊族も関係ない。肌の白いも赤いも黄色いも青いも気にしている余裕は無い。
ウェリキス・バーチは人種のるつぼとなっていた。故に派閥が生まれ、暗闘が起こった。
“赤毛のアルネッタ”は南のカルナック大森林に寄り添うようにして立つ魔術師の塔を出奔した魔女だ。
魔術士の塔では最大派閥であるキーバス学派に属していたが、余りにも俗っぽいプロフェッサー達と良好な関係を維持するのは不可能だった。
塔を出て、魔王軍との戦いに身を投じ、何度か死に掛けもした。
そして何時の間にか勇者と共にいた。
「アルネッタ、終わった」
「ご苦労な事で」
要塞大広間から一人出てくる勇者リヴェレ。五年前は今よりずっと頼りない少年だった。
豊穣神アーカラを祀る聖堂の神父の息子で、本人も神学は滅法得意だったが戦いなどした事は無かったと言う。
たったの五年。頑固な焦げ茶のくせっ毛がコンプレックスだった少年が、勇者に変わるまで。
首は太く、体は分厚く、瞳の輝きはどんどん剣呑になった。
吹けば倒れそうなひょろひょろの少年だった癖に、今ではアルネッタを平然と抱え上げてしまうくらいに大きい。
白銀の装具を身に着けながらリヴェレは息を吐いた。礼服の首元が苦しいらしい。
「どうなったの、結局」
「ゆけと」
「まぁそうよね」
簡潔なリヴェレの一言。何処に、とか、何のために、とかは必要ない。
枯れた砂漠の砦に、魔王の妻シエラベルタを討ち果たす為に
それを命じたであろう聖王閣下にあの“大淫婦”と戦う勇気がある筈も無い。
“カルダンの聖王”は魔王軍に対抗する為に諸王の盟主として勤めているが、三年前に聖王自身の有する戦力は致命的被害を受けた。
それ以来勇気を失ってしまった。勇者リヴェレのみが聖王の頼みの綱なのだ。
リヴェレとアルネッタはウェリキス・バーチ要塞の中を連れだって歩いた。
夕陽も落ちようとしている。夜になる。
「勝手なモンよね。一時は剣も鎧も没収させて飼い殺しにしようと癖に」
「俺は正直ほっとしていたんだ」
「ふぅん?」
魔王カイラル、暗黒竜の末裔。
人類を滅ぼさんとした魔王を討伐したのはほんの二月前だ。
初めは良かった。誰もが勇者を称えた。アルネッタも長く苦しい戦いの中で何もかもを共有したリヴェレが称賛されるのは嬉しかった。
しかしこんな言い回しは巷に溢れる三文芝居のようで気に食わないが……生きた英雄と言うのは多くの場合権力者に取って目障りに映るらしい。
あれよと言う間に様々な理由を付けて、神々から魔王を討つ為に与えられた武具の数々は没収され、リヴェレが旅をする上で必要とした幾つかの特権も無効とされた。
「これで解放されると思った」
「魔王軍の残党は幾らでも居るのに?」
「戦いは嫌いだ」
「でも残念、アンタはこうしてまたアタシと旅をする破目になった」
リヴェレはからかうように笑った。
「お前と再会できたのは嬉しい」
こいつ、真正面からそんな事言うなよ。
魔女の三角棒をぐいーと引っ張ってアルネッタは顔を隠す。
「灰が降り始めた。急ごう」
今、この大陸には灰が降る。何もかもを汚してしまう。
三年前、勇者リヴェレの存在が広く認知される事件が起きた。
大陸中央部ヘンサス平原に進行したカルダンの聖王の軍が致命的被害を受けた事件。
魔王軍十二将が一人地獄のイマームが、ヘンサスの大地を狂わし、冥界へと通じる穴を開けた。
ヘンサス平原は地獄のような有様になった。いや、ヘンサス平原はあの時確かに地獄の一部となったのだ。
草木は灰と塩に変わり、地烈から噴き出す瘴気に兵は倒れ、地獄のイマーム操るダークレイス達がその骸を乗っ取った。
神鳥の力を借りて空から急襲を掛けたリヴェレ達決死隊によってイマームは討ち取ったが、大地は元通りにはならなかった。
灰と塩と瘴気。灰は噴き出す瘴気にどこまでも巻き上げられて風に乗り、大陸に降り注ぐようになった。
その死の大地こそ今、大淫婦シエラベルタが待ち受ける場所である。
リヴェレとアルネッタは要塞内に設けられたゲストハウスに入り、外套についた灰を払った。
「アルネッタ」
「ん?」
「すまない」
「ん……」
「悪いと思ってる」
リヴェレの突然の謝罪を、アルネッタは素直に聞いている。
三角棒を放り出してベッドに腰掛け、リヴェレの真っ直ぐな瞳を見詰めた。
「お前はいつだって、俺を助けてくれる。俺と一緒に居てくれるのに」
「あー」
「俺はいつもお前の言う事なんて聞かないで、全部勝手に決めて来た」
「ふふ、知ってる。そう、勝手なのよね、男って」
悪戯っぽく笑うアルネッタ。リヴェレは何だか堪らなくなって礼服の首元を緩めた。
「ふぅ……敵わない」
「えぇ」
「次で最後だ。……と、思う。これが終わったら、俺はもう戦わない」
「良いの?」
「今度こそ、誰に何を言われたって、臆病者と呼ばれても、もう御免だ」
もう嫌なんだ。
アルネッタはやっぱり黙って聞いている。五年前から、こういう事は時々あった。
アルネッタにとって彼は人間だ。そりゃ精霊神に選ばれた勇者かも知れないが。
野菜が嫌いで何も言わないと肉ばっかり食べてるし、実を言うとむっつりスケベだ。
唐突に家が欲しいとか言い出して、豪邸を建てるには幾ら掛かるんだろうなんて真剣に相談したり。
根は善良なのは疑いようも無いが、落ちている物は取り敢えず懐に入れるがめつさもある。
「(そして、あたしにどうしようもないくらい惚れてる)」
リヴェレが自分にだけは油断した顔を見せる。リヴェレが自分にだけは弱音を吐く。
アルネッタはそれが堪らなく嬉しい。それに気付いたのはもう随分と前で、気付いてしまえばお終いだ。
「(あたしもコイツにイカれてる訳だ、ハハ)」
リヴェレは椅子に座ってアルネッタと向き直りながら訪ねた。
「塔には帰らないんだろう?」
「金貨一千万枚積まれたって御免よ」
「じゃぁどうする」
こいつ……魔王カイラル相手に真正面から切りかかっていった勇者が
こんな所で怖気付くなよ
「どうして欲しい?」
「なんだよ、その言い方」
「あたしって今までアンタの為に何でもしてきたでしょ?
だから今度も、アンタの望み通りにしてあげる」
「おい、それって何だか卑怯じゃないか」
アルネッタはベッドに俯せになって舌を出した。あっかんべー。
線の細かった少年は今や屈強な硬骨漢になった。
女を口説く時ぐらい、バッチリ決めて見ろと言うのだ。
「それだと俺だけ……」
「なんだっての。ほらほら、言いなさいよ」
「じゃぁ言うけどな、お前俺の事好きだろう」
アルネッタは思い切り枕を投げ付けた。魔女と言うと非力だと思われがちだがこれでも勇者と暗黒の大地を旅して来たバリバリの肉体派である。
どす、と言う音がして上質な枕がリヴェレを傾がせる。
「アンタもでしょバーカ!」
「アルネッタ!」
「リヴェレ! 最後の最後まで締まらないわね!」
「お前が俺にだけ言わせようとするからだ!」
どたばた暴れる二人。アルネッタは鋭いパンチを繰り出すも結局リヴェレに組み伏せられてしまう。
ふーふーと荒い息を吐く。蝋燭の光が浮かび上がらせるリヴェレの影が壁に映る。
押し倒されたまま顔をまともに見られないアルネッタは代わりにリヴェレの影を見詰めた。
「……あたしは、今すぐ逃げたって構わないのだけど。アンタと一緒ならね」
「……無理だな」
「無理、か。まぁ分かってたけど」
リヴェレが再度何か言う前に、アルネッタはそれを阻止した。
「アンタって口下手なんだから、何か言うよりも」
伏し目がちになる。
「……来なよ」
リヴェレの顔が降って来る。
――
ゲストハウスの玄関で、鋭敏な感覚を持つカッシルの剣士は気付いた。
「取り込み中のようだ」
「はい?」
精霊神の神官が首を傾げる。
「ふん、お子様には少し早いかも知れん」
「良く分かりませんが、馬鹿にされたのは分かりましたよ」
「おや、成長が見られるな」
緑の法衣の神殿騎士が首を振った。
「フェン、ミシェル殿を余りからかってやるな」
「ニコール、もっと強く言ってあげなさい。フェンは物覚えが悪いので。えぇそうとても悪いので」
兎に角、とフェンは仕切り直す。
「出直した方が良い。馬に蹴られて死ぬ前にな」
「ほぉ、とうとう決めたか。仕掛けたのは勇者殿かな?」
「興味も無い。が、あの魔女のファイアボールを食らうのは御免だ。詮索はしない方が良いだろう」
「何の話です? 私に分かる様に情報は詳細に、表現は平易に!」
「それだけべらべら口が回る癖に何故その手の知識が無いんだ?」
「人を無知の様に言うのは止めなさい。えぇ止めなさい」
フェンは肩を竦めて灰の降る中を歩いて行く。彼は誰かに同意を求めないし、他人が行動を起こすまで待ったりしない。
「あぁこら! おのれフェン! いつか後悔する日が来るでしょう!」
「ミシェル殿、拠点に戻りましょう」
「何故です? リヴェレ様にご挨拶せねば」
「今は……そうですな……時期が悪いのです。これはリヴェレ殿とアルネッタ嬢の名誉に関わる事」
「なんですって? それ程複雑な問題なのですか。だとしたら、力になって差し上げたい」
「私も同じ気持ちですが、今に限ってはそっとしておくのが最善なのですよ、ミシェル殿」
この歳幼い神官は全く納得が行かないようだったが、結局はニコールの言う事にしたがった。
何せ誠実真摯な神殿騎士ニコールの言う事である。フェンとか言うカッシルの田舎剣士とは言葉の重みが違うのだ重みが。
灰が降り続いている。ニコールはその中を少し歩き、一度だけゲストハウスを振り返った。
「一晩程度、許されよう」