大淫婦の挑戦状
大淫婦シエラベルタを戴き、魔王軍再臨せん。
大陸中央ヨバル地方。生命無き枯れた砂漠の中にある砦から発せられた報に世界は震撼した。
人々は漸く明日への希望を見出した時だった。百年にも及ぶ長く苦しい魔物達との戦いが、勇者の力によって終結を迎えた。その筈だったのに。
考えが甘かったのだ。これほどまでに長く続いた流血と憎悪、死の螺旋が
そう易々と清算される筈も無かろうに!
「現れよ勇者! 精霊神が苦渋の果てに見出した下賤な刺客よ!」
麻の目の如くに乱れ、統制を欠いていた魔王軍の残党は最後の最後で踏み止まった。
各地で敗退を続け、良いようにやられ放題だった各軍団は、戦力を温存しながら秩序だって撤退出来る程までに落ち着きを取り戻した。
「塩と灰の砂漠にてお前を待つ! カイラル死したとてこの私が引き下がるかよ!」
魔王軍は徹底的な実力主義だ。そして勝者とは雄渾であるべきだと言う思想がある。
何故ならば強いと言う事は正しいと言う事だからだ。そして勝者とは強者がなるべき物。
ならば強者は正しく、淀みの無い物である筈だ。勝者、雄渾であるべし。スライムでも分かるように簡略化されたカイラルの教えだ。
人類は戦って勝つ力が無い故に勇者と言う刺客を放った。
魔王は敗れたが、魔王軍が敗れた訳では無い。その証拠に見よ。
偉大なる魔王カイラルが妻シエラベルタは、その魔力と武威を正しく継承しているではないか。
――死の砂漠へ集え。其処を勇者の墓場としてやろう。
――彼奴めの魂は精霊神の許へは昇らせぬ。我らが魂魄と共に地底の底に引きずり込み、世界が滅びゆく様を見せつけてやるわ。
残虐、野蛮、人類の天敵である事を心底から楽しむ魔族達は、シエラベルタの檄に集った。
そしてシエラベルタは、生まれて四年になる早熟の双子を抱えながら鍋を掻き混ぜている。
――
「かあさまー」
「かあさまー」
「うむむ、分かっている、安心せよ」
父カイラルの血を濃く受け継いでいる双子だ。縦に割れた金の瞳が夫を思い出させる。
身体は小さくとも頭脳の冴えは一人前。気性の荒いシエラベルタよりも冷静で、酷薄だった。
しかしその冷たさを母に向けよう筈も無い。
「うえぇ、変な臭い」
「絶対間違ってるよー」
「しかしバリオンのグルメレシピでは……」
双子の兄、サンドラが眉をハの字にし、双子の弟、カラカルがべーっと舌を出す。
「バリオン爺ちゃんってナメクジじゃん!」
「ナメクジの魔物じゃん! 僕達とは味覚が違うよ!」
ほっほっほ、と笑う超巨大なナメクジのしたり顔を思い出すシエラベルタ。
「前にスープを作らせた時は美味だったのだけれど」
「エルフ用だったんじゃないのー?」
「のー?」
兄サンドラがシエラベルタの頭によじよじと昇りながら叫ぶ。
「クノーッノス!」
「御呼びで御座いますかサンドラ殿下ァッ!」
翼をはためかせ空を舞い、神速で現れるクノーノスは王家の忠実なる僕。
シエラベルタがサイズルの地下遺跡から救出された後、最も早く恭順を示した吸血鬼だ。
「これは陛下、それにカラカル殿下も御揃いで」
魔王一家はその事からこの吸血鬼を重用している。
「毒見をせよ!」
「はっ?」
「忠誠を示せ!」
「……は、ハハァ―!」
クノーノスは鍋の中で泡立つ紫色のスープを見て明らかに狼狽したが、サンドラとカラカルの二人に命令されて是非もあろうか。
クノーノスに苦悩が無い訳では無い。彼は高貴なる夜の一族。
それが、この、どう見ても、ナメクジのモンスターが好んですするような奇怪なスープを……。
だがしかしこの状況、どう見てもシエラベルタ新陛下直々に手を掛けられた品ではないか。
ここで退くは貴族の振舞いではない、貴族の振舞いではない、貴族の振舞いではない。
「(俺はクノーノス、誇り高き吸血貴族! 忠誠を示せと言うならば何をか迷わん!)」
クノーノスはシエラベルタの白魚の如き指から人骨で出来たお玉を拝借すると、紫色のスープを掬い上げる。
ブボォ
そして間髪入れずに口に含み、鼻から噴き出した。双子はクノーノスに手拭いを投げてやる。
「大儀である!」
「クノーノスまこと大儀! ほらーかーさまやっぱりおかしいじゃんかー!」
「ぐぐぐ」
シエラベルタは混乱した。レシピを間違えたのか、レシピが間違えたのか。
そして本来有り得べからざる質問をする。
「私のスープはマズいのかクノーノス!」
クノーノスは目を白黒させた。
この現状以上に、口の中に嚥下出来ぬ程の異様な液体を含んだこの現状以上に、
対応し難い問いを投げかけられるとは。
青褪めた肌を持つクノーノスは、更に顔色を悪くして再び鼻から紫色のスープを噴き出す。
「び、美味でありばずれば」
双子が怒った。
「王家への偽証は死罪ぞ!」
「忠心とは阿りではない! 新陛下にありのままお伝えせよ!」
「は、ハハァーッ! 臣の口からはとても……! 何卒、お、お慈悲を……!」
厨房の扉を蹴破ってカイラルが長子、ヘイゼルが現れたのはその時だった。
「馬鹿どもめ、何をじゃれているか!」
――
ヘイゼル、サンドラ、カラカル。父からは金の竜眼。母からは白金の髪を受け継いだ。
血の持つ強さの根底が違ったか、エルフとしての特徴は殆ど顕れなかった。この三人の子らはカイラルの面影を色濃く残し、今も成長を続けている。
特に長子であるヘイゼルは四十歳を過ぎ益々カイラルに似て来た。
カイラルに似た顔で、カイラルと同じ仕草で、カイラルより幾分か高い声音で、シエラベルタに接する。
以前はその成長を見るのが堪らなく嬉しかったのに、今は時折切ない。
「作ろうと思えば料理など問題なく作れる。バリオンの顔を立てて奴秘伝のスープとやらを作って見ただけだ」
「クノーノスを毒見に使うのは止められよ。奴は大身。他に働くべき場所が幾らでもある」
死の砂漠の砦の一室、ヘイゼルは母譲りの髪を払って鼻を鳴らした。
「全く、新たに魔なる者達の王として玉座を継承しながら、やる事がナメクジ料理か?」
「ほぅ! 覚えていないようだがヘイゼル、お前は生まれたばかりの頃、バリオンの父が作ったそのナメクジ料理を大喜びで食らっていたのだぞ」
「何?!」
げーらげらげらげらと笑うシエラベルタにヘイゼルは歯茎まで剥き出しにした。
「陛下、実の子になんと言う物を食わせるのだ!」
「悪食は父譲りよな! カイラルも恐れ知らずと言うべきか、取り敢えず何でもかんでも口にしてみる男だった。
流石にノームどもの鉄鉱石を齧った時は気が触れたかと思ったが」
「父上……」
魔王カイラルの悪食は割と有名だったが子らの前では威厳ある格好のよい父の姿を決して崩そうとしなかった。
ええ格好しいと言うなかれ。子は親の背を見て育つ物。
今まで知らなかった父の奇矯な振舞いを教えられ些か消沈したヘイゼル。
シエラベルタはまだ笑っている。げらげらげら。
「案ずるな。夜はもっと普通の料理をしよう」
「そもそも料理をするなと言うのだ。王の振舞いではない」
「母は子に、手ずから料理を作ってやる物だ」
ならば何故バリオン一族のナメクジ料理を……。ヘイゼルは頬を引き攣らせた。
「なぁヘイゼルよ」
「……どうした、陛下」
「いい加減母と呼ばないか。家族の時間を大事にしたい」
「軟弱な」
「軟弱なのではない。時の価値を知っているのよ。まだたった四十歳のお前には分からぬかも知れぬがな」
「並み居る魔族どもの中で俺を侮るのは貴女だけだ、陛下」
「母と呼べと言ったぞ」
「貴女が玉座を退けばそう呼ぼう」
魔王に対する敬意のように見えて、違う。
そうか、お前の望みはそうなのだな。
ヘイゼルはシエラベルタの腹の内を悉く知り尽くしているつもりのようだ。
シエラベルタは魔王より強いと言う事は無い。やはり当代最強は暗黒竜の末裔カイラルだった。
カイラルより弱き新王が、以前より弱体化した魔王軍を率いて、勇者へと宣戦布告した。
シエラベルタには生きるつもりが無い。ヘイゼルには結末が見えている。
「無理だ。だから、我等家族が正に家族の様に振舞える時間は限られている」
「だからあの愚弟どもを抱えてナメクジスープを作っていたのか?」
「ねだられては仕方ないだろう」
「…………退位が無理と言う事もない筈だ。序列で言えばこのヘイゼルが父の後を継ぐのが妥当だろう」
それでもやはり無理だ。
実績の無い四十歳のガキに修羅場を潜って来た魔王軍の将兵が従う訳が無かった。行き過ぎた実力主義の権化なのだから。
「陛下を見ているととてもそうは思えないが、本来の長耳は戦いを好まぬ惰弱な種族と聞く。無理に仇討ちなど」
「ヘイゼル」
「……俺が戦って見せようと言っているのだ! 父の死に浮かれ上がった人間どもに、今一度己が矮小さとそれに相応しき立場を思い出させてやるとも!
貴女は北の大地で月華でも愛でながら戦勝の報を待っていればよい!」
シエラベルタのデコピンがヘイゼルを吹っ飛ばした。
身体がぐるりと一回転して後頭部を床に打ち付ける。勢いはそれで留まらず更に体は一回転した後に壁に叩き付けられた。
「ほほほ、青い青い」
「何たる仕打ちだ。これが実の子にする事か」
「それでは勇者には勝てん」
頭を押さえて悶絶しながらヘイゼルは呻いた。
「お前が私に望む物はよーく分かったぞ」
「……ふん、それが決して容れられぬと、俺もよく分かった」
立ち上がり、踵を返すヘイゼル。
「もっともっと幼い時に、沢山甘えさせてやれば良かったなぁ」
「うるさい。手慰みが欲しいのならあの愚弟どもを精々可愛がってやれ。
…………俺の血の義務を思えば、陛下に最後まで付き合う事は出来ん。
だが、見届けよう。存分に戦われよ、魔王陛下」
ヘイゼルは振り返りもせず部屋を辞した。
何をどうすればあのような意地っ張りが育つのだ? シエラベルタは自分の事を棚に上げて溜息を吐く。
シエラベルタとヘイゼルの話が終わるまで外に控えていたミチェータがノックして来た。
『お話は御済みでしょうか』
「入れ」
しずしずと入室して来た忠実なドリュアスは、シエラベルタがヘイゼルごと吹っ飛ばした椅子や机などを片付けていく。
「なぁミチェータ、アレの事だが……中々よい男に育ったと思わないか」
「……は、はい」
ミチェータは目を閉じたまま頬を染めた。
ドリュアス達は不思議な感覚で以て世界を見ている。彼女達は本来視覚と言う物を必要としておらず、ドリュアス固有の魔法を用いる時以外に瞳を開く事は無い。
「な、な、どう思う?」
「わたくしめに人物を評する才などありませぬ。それが、へ、ヘイゼル殿下ともなれば尚の事」
じれったいなぁもう。シエラベルタはミチェータの艶のある髪をぐしゃぐしゃに掻き乱した。
「あぁぁ陛下、おおおお戯れを」
「可愛い反応をするなぁミチェータよ。……アレがお前に手を付けた事、私が知らぬと思ったのか?
アレもお前も初々しい。互いが互いを目で追って」
ミチェータは平伏した。
「……殿下に求められ、無聊を御慰め致しました」
「ありがとう、ミチェータ。あの子を好いてくれて」
「そ、それは、如何なる」
「オルカスの家に昇り、次代の子を産め。アレにも良い頃合いだ」
シエラベルタはミチェータが顔を上げるのを待っている。
ミチェータは震えながらやっとの思いで言う。
「竜種である殿下とドリュアスである私では、…………子を……授からぬやも」
どうやら辛い告白をさせたらしかった。ミチェータの閉じた瞳から絶え間なくしずくが零れて絨毯を濡らす。
「大丈夫大丈夫。世間は無理だなんだと適当な事を言うが、百年か百五十年か掛けてじっくり仕込めば意外と何とかなる物だ」
「その百年の時が、今の魔族にはありませぬ」
事実だった。状況は切迫している。
魔王は死んだが、勇者は生きている。百年かけてじわりじわりと侵略した大陸は、百年も経たずに奪還されるだろう。
だがこの肝の太いエルフは寧ろ大笑い。
「安心しろ! ……百年程度の時、私が稼いで見せよう!
出自の低さも問題にならぬ! 何せお前達の魔王は、清き神ミスの加護を受けていながらオルカスに嫁いだ大淫婦なのだからな!」
シエラベルタは背筋を伸ばした。
「ドリュアスのミチェータ。お前を我が子ヘイゼルの妻とする。
これは王命である。否は無いな?」
ミチェータはとうとう声を上げて泣いた。
――