細胞にはロマンと夢があった
チョコレートケーキを手で持って食べる作ちゃんは、何かを思い出したように「そう言えばさ」と口を開く。
口元に付いたチョコレートは、真っ赤な舌ですくい取られて口の中に消える。
「ミトコンドリア・イブってあるでしょ」
もっもっ、と咀嚼をしながら言われて、私の首は真横に、カクンと傾いた。
ウェットティッシュで手を拭く作ちゃんは、真っ黒な目を細めて頷く。
「現人類全ての元になると言われている女性の愛称なんだけれどね」
聖書であるでしょう、アダムとイブ、と言う作ちゃんに、私の首は元の位置に戻る。
その代わりに、あぁ、成程、と相槌を一つ。
しかし、この午後のティータイムで何故その議題を持ち込むのだろうか。
私は私で、同じチョコレートケーキにフォークを入れながら、作ちゃんの言葉を聞いた。
作ちゃんはティーカップを傾けながら、言葉を続ける。
平坦な声が、淡々と言葉を連ねるので、まるで授業や講習を受けている気分だ。
「人の細胞の中にあるミトコンドリアDNAは、女の人、つまりは母親からしか受け継がれない。同時に、父親からしか受け継がれないものもあるけれど……。兎に角、その法則に従って辿っていくと一人の女性に辿り着くって仮説なんだよね」
自分で淹れたコーヒーに満足したのか、頷きながら言われるが、私は目を白黒させた。
聞いたことがないわけではなかったので、えぇっと、と視線を揺らす。
部屋の天井の隅っこを見ながら、何とか相槌のような反応を返した。
「アレだよね!そう……全ての人類はたった一人の女性から始まったってやつ」
「ぶぅ」
風船の空気が抜けたような音を出した作ちゃんは、薄らと色付く唇を突き出して眉を寄せる。
形の良い眉が歪み、眉間にはシワが出来た。
「既存する全人類は、ある女性を共通の祖先として持つってだけ」
「お、同じじゃないの?」
チョコレートケーキの味が分からなくなってきた。
そんな私を見ても、特別な反応を示さない作ちゃんは、また、素手でチョコレートケーキを掴む。
テーブルの上にあるフォークに、気付いていないのだろうか。
「家系図の母系だけじゃなく、父系も辿れば別の女性に行き着くんだよ。その女性と同時代には沢山の女性がいるんだね」
「ん?んん?」
「勿論、女性が生まれることなく廃れていったDNAもあるのだろうけれど」
「えぇ??」
グルグルと視界が周り出した頃、作ちゃんの小さな咳払いが部屋に響いた。
「簡単に言えば、多くのサンプルで調べた結果としてたった一人の女性から、過去から現代、歴史上の全ての人類が生まれたわけじゃない、となる」
そういう結果が出ているから、そうなのだ、と溜息混じり作ちゃんは言った。
チョコレートケーキの上に乗っていたマカロンが、そのよく動く口に吸い込まれる。
咀嚼している間は、何故か首を捻っており、言葉が飛び出すことはない。
ごくん、と飲み込まれ、白く細い喉が上下した時には、つい体を固めてしまう。
作ちゃん本人はそんなことは気にしていなさそうで、新しいウェットティッシュで口を拭った。
白が擦れた茶色で汚れている。
「正直、ボクにも良く分からない」
「えっ」
チョコレートケーキを完全に食べ終えた作ちゃん。
長い前髪を掻き上げて、ふぅ、と温い吐息が吐き出された。
「知識として、言葉や文字や文章として取り込めても、深く理解してるわけじゃない。理数系は苦手だし、生物学は祖先どうのって進化どうのって興味ない」
コーヒーも飲み干す。
先程までの長い会話にもならない、語りは一体なんだったというのか。
視界が反転しそうになる。
処理落ちだ。
そんな中で、ティーカップをソーサーに置いた作ちゃんは、ゆったりと腰を上げる。
鮮やかな水色のシュシュと、それに結えられた黒髪が揺れた。
「端的に言えば、ボク達もまた、一つだったと考えるのは、酷くロマンチックで夢がある」
反転しそうになった視界の中、真っ黒な瞳で埋まり、コーヒーの香りが口から鼻へと抜けた。
あぁ、確かに私達が一つだったのならば、それは本当にロマンチックだ。
それがこうして向き合うのは、夢がある。