第二話「止める声」
「え?」
突然の声に驚いた俺は、反射的に手すりに掴まる。投げ出される直前で体がクッと止まる。何なんだよ一体?
「おっと。驚かせてしまったようですね」
手すりに掴まったまま背後へ振り向く。そこには黒いコートを羽織った男が立っていた。黒いテンガロンハットに黒いブーツと、見た目はかなり渋い。正直、いつの時代の人だよって感じだ。声と姿からして30代くらいだろうか。
というか誰だ?人がいないのはさっき確認したし、屋上のドアが開いた音もしなかった。どっから現れた?
「……どなたですか?」
「これは失礼。私は『雨崎』と申します」
男は律儀に帽子を取って名乗った。雨崎?聞いたことないな。知らない名前だ。
それに何だか変な感じだ。いや、まぁこんな状況でいきなり話しかけてきたんだから、きっと変な人には違いないか。飛び降りようとしてる奴に、"こんばんは"、なんて普通言わないだろ。
「何か用ですか?」
俺は少し苛立った口調だったが、雨崎は気にした素振りを見せない。ニコニコと妙に人の良さそうな笑みを浮かべている。何なんだコイツ?
「いやなに、ちょっとスカウトに来たのですよ」
「は?」
スカウトだって?何を言っているんだ?
「見たところ、飛び降りようとしているみたいだったので」
「……それが何か?あなたには関係ないでしょう。冷やかしなら帰ってください」
止めに来たのか?いや、そんな感じには見えない。この雨崎って男、さっきからずっと変な笑みを浮かべていて、真剣みを感じない。
「ハハハ。そう邪険にしないでください」
帽子を被り直して笑う雨崎。その態度に、俺の中の苛立ちが増大する。
というか、これから身投げするわけだから、別に丁寧に対応する必要もないじゃんか。もう会うこともないんだし。
「あんた、いい加減にしろよ。さっきから一体何なんだよ?」
年上だろうが何だろうが関係ない。俺は普段の口調に戻す。どうせ死ぬんだから、何も気にする必要はない。一度死を覚悟したら、もう何も怖くないってことか。皮肉なもんだな。
「ですからスカウトですよ。異世界へのお誘いです」
俺がタメ口をきいたのにも関わらず、雨崎は表情一つ変えなかった。おまけに意味のわからないことまで言いだした。
「異世界?」
「そうです。貴方の住むこの世界とは異なる世界。どうせ散らしてしまうのならばその命、有効に活用しませんか?」
平然と言ってのける雨崎。その内容に、俺は思わず笑ってしまう。何が異世界だよ。
「ハッ、あんた頭でもおかしいのか?」
「信じろとは言いませんよ。ですが、私は別の世界から来た者でしてね。『協会』と呼ぶ組織に属しています。その協会の指示で、戦力になりそうな方をスカウトしているのですよ」
なるほど、いよいよもって頭がおかしいようだ。こういう奴も世の中にはいるもんなんだな。
「へぇ。それなら異世界から来たって証拠を見せてくれよ」
俺は馬鹿にするように言い放つ。どうせ嘘っぱちだ。問い詰めればすぐにボロを出すさ。
「証拠ですか。そうですね、間接的なものでよければお見せしましょう」
そう言うと、雨崎は何事もないかのように転落防止の柵を飛び越え、落ちるギリギリの場所で立ち止まる。その行動にはさすがに俺も驚いた。手すりにさえ掴まっていないため、強風でも吹けばすぐにでもあの世行きだ。
「おい!何してんだ!落ちるぞ?」
飛び降りようとしている俺が言うのもおかしな話だが、なぜかそんな言葉が出た。
「なるほど、結構高いですねぇ。これは落ちたら無事ではすみませんね」
焦る俺とは対照的に、雨崎は呑気な様子で真下を見下ろしている。俺から見て3メートルほど隣りで、帽子を片手で押さえながら下を覗き込んでいる。コイツほんとにイカレてんじゃないのか?
「おい!聞こえてんのか?」
「ご心配なく」
そう言って笑みを見せる雨崎。と同時に、体を前方へ傾ける。その様子から、飛び降りる寸前であることがわかった。
「お前っ!!」
その瞬間、俺は反射的に雨崎へ向かって手を伸ばしてしまった。理由は自分でもわからない。こんな見ず知らずの奴を本気で助けようと思ったわけじゃない。ただ、とっさに手が出てしまったんだ。
しかし、そんなことをすればどうなるだろうか?足場は自分の足よりも小さいスペースだ。手すりに掴まってようやくバランスを保っていた状態。そんな場所で手すりから手を離してしまった俺は、当然バランスを崩す。
「あ」
そして、俺は屋上から落下する。重力の感覚が無くなり、体がふわっと軽くなる。
俺は手すりに向かって手を伸ばした。そんな自分の手を見て疑問が生じる。
──なんで?──
もともと飛び降りるつもりだったんだから、別にいいじゃないか。
──なんで生き残ろうとしてるんだ?──
──死にたくなかったのか?──
走馬灯というやつだろうか、今までの記憶が鮮明に蘇ってくる。
学校の教室。
自分はひとり本を読んでいる。
ふと本から目を離す。
そこには友人と楽しそうに話すクラスメイトたち。
その瞬間、どうしようもない孤独感が心の中に溢れ出す。
"どうして俺は、ああなれないんだろう?"
──死にたくなかった──
場面は変わる。
昼休み。
自分は両手で弁当を隠しながら、図書室に向かう。
廊下の窓から、教室の中が見える。
机を囲んで、弁当を広げる生徒たちの姿。
言いようのない寂しさが襲う。
"どうして俺は、あそこにいないんだろう?"
──死にたくない?──
場面は変わる。
旅行のグループ決め。
周りの生徒は仲の良いメンバーで集まり、すぐに旅の計画で盛り上がる。
そんな中、ひとりで孤立する自分。
最後まで残るのはいつも自分。
"どうして俺はひとりなんだ?"
──死にたくない──
場面は変わる。
放課後。
そそくさと荷物をまとめる自分。
そんな中、一緒に帰ろうと誘い合うクラスメイトたち。
自分には声がかかることはない。
なるべく見られないように、急いで教室から飛び出す。
"どうして俺だけこうなんだ?"
──死にたくない──
場面は変わる。
自分は道を歩いている。
向こうからやって来たのはカップル。
手を繋いで笑顔で言葉を交わしている。
その姿をみて、自分はそっと道から外れた。
"どうして俺には支えてくれる人がいないんだろう?"
──死にたくない!──
場面は変わる。
葬式の会場。
喪服姿の自分。
視界に映るのは両親の写真。
自分だけが残された、助かってしまった。
そんな寂しさと罪悪感に苦しむ自分。
"寂しい"
──死にたくない!──
そう、思い返せば俺はいつもひとりだった。
"寂しい"
──俺は死にたくなんてない!!──
そうか……。
俺は死にたくなかったんだな。
ただ寂しかったんだ。
友達が欲しかったんだ。
死にたくなんてなかったんだ。
そうか……。
ただ、それだけだったんだな……。
辛いよ……。
苦しいよ…。
寂しいよ……。
友達が欲しかった……。
「……」
死を前にして、俺は自分の本当の気持ちに気付いた。しかし無常にも、俺の手は手すりに届かない。全く……遅すぎたよ。
俺は地面にむけて一直線に落下を始める。もう助かる術はない。あとは落ちるだけ。
もう、すぐそこまで死が待っていた。だけど恐怖は無く、ただホッとした。
これで全部終わりか、そう思った。
しかし──
「やれやれ、貴方が落ちてどうするんですか」
「え?」
突然、腕にガクッと衝撃が走り、俺の体はその場に停止した。
見ると、雨崎が伸ばした俺の腕を掴んでいた。だが、驚いたのは雨崎に助けられたということだけではなかった。問題なのは、雨崎の居る位置だった。
「あんた……それ」
雨崎は、何もない空中に浮いていた。