第十六話「本心」
「やめろ」
俺は相手の腕を握りしめ、刺すような視線を浴びせる。自分の胸中で怒りが沸き立つのを感じる。
目の前の女は、こんな小さな子供に理不尽な暴力を振るった。その光景は見ていて不愉快意外の何物でもなかった。
腹部を殴っていたのは暴行の痕が見つかりにくいと思っているからだろう。つまり、考える頭がありながらこんなことをしていたってわけだ。衝動的な行動ではない。
思わず握る手に力が籠る。
「何! あなた誰よ?」
智瀬の母親と思われる人物は俺に驚愕の表情を向けた。その反応は予想外だった。
この女には俺が見えているのか? 俺はステルスを解除していないはずだが。どういうことだ?
「お前、俺が見えてるのか?」
「何のつもり! 警察を呼ぶわ!」
女は乱暴に腕を振り回し、俺の掴んでいる手を振り払う。
「え? き、消えた?」
俺の手が離れた瞬間、女は慌てたように辺りを見回し始める。
今度は見えていないのか?
「おい、ここだここ」
声を上げても聞こえていないようだ。青ざめながら周囲を確認している。
その様子を見て、俺の中で一つの仮説が生まれた。その検証とばかりに、再度女の手首を掴む。
「え? どこから現れたのよ!」
俺に視線を向け、目を見開く女。どうやら俺の仮説は正しかったようだ。
「なるほど。やっぱりそうか」
「何を言ってるのよ! 待ってなさい! 今警察に電話してやるわ!」
女はヒステリックな様子で手を振りほどき、駆け足で居間から出て行く。その後ろ姿を横目で見送った後、俺は床にへたり込んでいる少女──智瀬優に視線を送る。
案の定、彼女はポカンとした様子でどこか遠くを見ている。それはそうだろう。彼女から見れば、あの女が突然一人で叫び出したんだからな。
今の一件で発見した俺の能力に関する事実。それは、”ステルス状態で誰かに触れた場合、その相手には俺が見える”ということだ。
つまり、あの女には俺が見えたが、智瀬には見えていなかったということになる。
さらに俺の考えが正しければもう一つ重要な事実がある。その確認を含めて、俺は智瀬の小さな頭に手を乗せた。
「大丈夫か?」
「え? さっきの人?」
智瀬は床に座ったまま茫然と俺の顔を見上げる。やはり触れている間は俺を認識できるようだ。
「ああ。さっきは見捨てるみたいなことして悪かったな」
「あなたは誰?」
「俺は響堂ツカサ。ツカサって覚えてくれ」
「うん……。わたしは智瀬優って言います」
「ああ、よろしく」
俺は改めて智瀬に視線を送る。見た目は確かに子供だが、話していて小学生という印象はあまり受けない。しっかりと相手の顔を見て話したりと、小さな仕草や態度は大人びて見える。
それでも辛かったのだろう、目には涙の痕が見え手からは細かい震えが伝わってくる。
学校では普通の様子だったが、まさかこんな問題を抱えていたとは。友人たちの前では必死に隠していたのだろう。辛い思いを悟られまいと、誰にも相談せずに我慢していたのだと思う。
あの女は、この子にそんな思いをさせていたんだ。平然と暴力を振るい理不尽に罵倒する。あんな奴がこの世界にいたとは。さすがに俺も怒りを押さえられない。
何より、目の前でうずくまっているこの子は俺の大切なパーティーメンバー候補だ。仲間になるかもしれない子だ。
俺はずっとボッチだった。だからこそ、もし仲間ができるのならば、俺はその仲間たちを何よりも大切にする。
そして、その大切な仲間に危害を加える存在がいるなら、俺はどんな手段を使ってでもそれを排除する。どんな手段を使ってでもだ。もしこの智瀬優という子が俺の仲間になるんだったら、俺はあの女を絶対に許さない。
「大丈夫か? 痛むか?」
「……」
同じ目線になるように屈んで顔を覗く。智瀬は無言で見つめ返した後、顔を下に向けて小さく首を振った。
それは明らかに嘘だ。殴られた箇所を手で押さえているし、どう考えても痛いはずだ。なぜ彼女は無理をしているのだろう。どうして本当のことを言わないのだろう。
おそらくあの女に口止めされているからだろう。他の人には、暴力を受けているとか痛いとか言ったらダメだ、と。
しかし、それだけではない。俺はそう思った。俺にはその理由がわかる。なぜなら、それは俺自身にも痛いほど当てはまることだからだ。
「なぁ、無理しなくていんだぜ」
俺はゆっくりとその言葉を発した。その瞬間、智瀬は目を見開いて俺に顔を向けた。俺はその瞳を真っ直ぐに見つめ返す。
「怖いんだよな? 自分を表に出すのが」
その言葉で、智瀬は凍ったように固まった。やはり、と俺は心の中で確信した。彼女の抱えるものと、俺の抱えるものは似ている。表層的には彼女の母親の問題に見えるが、本質はそうではない。根本にあるのは彼女の恐怖だ。
その気になれば誰かに相談することもできたはずだ。一言でも言っていれば、児童虐待としてすでに通報されていただろう。でも、彼女はそうしなかった。それは単純に口止めされていたからだ、とも思えるが根本の問題はそこじゃない。
根っこの問題は、彼女の恐怖だ。他人に本当の気持ちをさらけ出すということを恐れていたんだ。素の自分を表に出すことを恐れていたんだ。
妙に大人びた態度、小学生には思えない受け答え。不自然に感じていたが、今その理由がわかった。それは一種の仮面だったのだろう。本当の自分を隠すための仮面。
それは俺自信にも跳ね返ってくる。素の自分をさらけ出すことを恐れ、表面上の付き合いばかりしていた自分。それはボッチにもなるはずだ。誰にも本当の自分を見せていなかったんだから。
「実は俺も怖いんだ。本当の自分をさらけ出すのが。嫌われるんじゃないかってさ」
「……」
「本心にも無いこと言って、周りを気にして、そして勝手に疲れて。だから俺は人と関わるのが嫌いになってさ。そして気づいたら一人だった」
自分で言っていて思わず苦笑いが出てくる。そんな俺の話を、智瀬は目を逸らすことなく聞いている。
「それから色々あって俺は決めたんだ。これからは本当の自分を隠さないで行こうって」
無言の智瀬に俺は笑みを見せる。そして、言わなければならない言葉。俺はその言葉を口に出す。
「だからさ、もういいんだよ。今までよく頑張ったな」
そして智瀬の頭をクシャクシャと撫でる。その瞬間、智瀬の瞳にじんわりと涙が溢れた。
「うぅ……」
嗚咽をもらしながら顔を歪める智瀬。今まで相当辛かったんだろう。俺はその小さな体をゆっくりと抱きしめた。
「辛かったよな。よく頑張った。もういいんだ。もう我慢しなくていい」
留め具が外れたように、ダムが決壊したかのように泣き出す智瀬。今までため込んでいたものが一気に出てきたようだ。
「わたし……は……いや……だった……」
嗚咽交じりで途切れ途切れだが、彼女はしっかりと本音を伝えてくれた。
「ああ。そうだよな。あんなことされて嫌だったよな」
「いた……かった……」
「そうだよな。痛いかったよな。誰にも言えずに苦しかったよな」
「うん……」
それ以上、言葉は必要なかった。俺は静かに彼女の頭を撫でた。