第十話「その一言が」
目の前の少女は小さく頷いて見せた。間違いない、彼女が目的の人物『詩由原 曖』だ。
リストに書かれていた異世界へ向かうメンバー。ようやくその一人目と顔合わせできたってわけだ。
「俺は『響堂ツカサ』だ。よろしく」
そう言って俺は右手を差し出す。左手は昨日、能力を発動させる時にナイフで切っていたからだ。大した傷ではないが、見せるのは気が引ける。
「……うん」
意外にも、詩由原は握手を返してきた。俺から握手を求めていて何だが、無視されるだろうと思っていた。
だって、見知らぬ男がいきなり握手を求めてきたら多少はためらうだろう?
だけど、この少女は何の警戒も見せなかった。
余計なおせっかいかもしれないが、もう少し警戒した方がいいのではないだろうか?
彼女の細く白い手を見ながら、そんなことを思った。
女の子らしい、小さな手だ。俺のゴツゴツした手ですっぽり隠れるくらいだ。なんだか野暮な手で申し訳ない気分になった。
見た目も華奢な感じで、長い黒髪がとても映えている。座っているためか余計に小さく見えるその姿は、お世辞抜きにも可愛いと言えるだろう。どこかの令嬢のような感じだ。
しかし──
「酷いな……これは」
彼女の机には大量の落書き。全部このクラスの奴らが書いたんだろう。見ていて不快になる文字ばかりだ。
それに、周囲にはゴミが散らばっている。さっきみたいに、アイツらが彼女に投げつけているんだろう。
俺もボッチだったが、ここまで露骨にやられたことはない。陰口を言われるくらいはあったが、こんなあからさまないじめを受けたことはなかった。
その仕打ちに、俺は思わず険しい表情になる。
「話があるんだ。場所を変えよう」
こんな場所にいたら胸糞悪くなる。それに、”異世界の話”をこんな場所で堂々とするのはさすがにマズイだろう。
俺は彼女の手を取り、半ば強引に教室から連れ出す。他の奴らの視線を感じたが、そんなもんは尽くスルーだ。
廊下に出た俺は、とりあえず人通りの少ない屋上へ向かうことにした。あそこなら誰もいないし、ゆっくり話せる。
詩由原も特に反応を見せず、黙ってついてきた。見た目も合わせてまるで人形のようだ。もう少し警戒した方がいいんじゃないかと、こっちが心配になってくる。
「ここなら誰にも聞かれないだろう」
屋上に辿り着いた俺は周囲を見回す。フェンスに囲まれた屋上、青い空がどこまでも続いている。時折吹いてくる風が心地良い。
「さて、どう言ったもんかな……」
「……」
俺が詩由原に視線を向けると、彼女はじっとこっちを見つめている。身長が小さいため、少し上目使いなのがなんだか可愛らしく思えた。
それにしても、何を話せばいんだろうか?
ここまで流れで来てしまったが、いざ説得と言っても何を言えば良いんだろうか?
雨崎には、異世界に行くパーティーメンバーを集めろ、としか言われていない。
”俺と一緒に異世界に行ってください”、なんて言ったら完全に頭のおかしい奴だよな。
と、言うべき言葉が見つからないので、まずは気になっていたことを尋ねることにした。
「なぁ、さっきのアレ、アイツらにやられたのか?」
俺が言う”アレ”とは、机の落書きやゴミのことだ。
「……」
俺の問いかけに、彼女は小さく頷いた。顔に影が差したように見える。
「そうか……」
そんな彼女を見て、嫌なことを聞いてしまったな、と少し申し訳ない気分になった。しかし、俺にはどうしても気になっていることがあった。
「あれっていじめだよな?どうして黙って従っているんだ?」
それは、なぜ詩由原は文句も言わずに普通に生活しているのか、ということだ。さっきの授業の様子を見るに、一日中ひとりベランダで過ごしているんだろう。
「……」
が、詩由原は何も言わない。無言で俺を見つめるだけだ。その意図は俺には読み取れない。
「もしかして、一度も嫌だって言ってないのか?」
「……」
詩由原は尚も黙ったままだ。その様子から、恐らく一度も”やめてほしい”とは言っていないのだろう。
「なぁ、黙ってても何もわかならいぜ?」
「……」
変わらず詩由原は黙ったままだ。そんな態度に、俺は少々苛立ちを覚えた。
俺だって困っているなら助けたいし、今すぐあのクラスの連中を片っ端からぶん殴ってやりたい気分だ。俺の能力を使えばバレることもない。
それだと根本的な解決にならないってんなら、近場の弁護士事務所に連絡して法的な処分を食らわせてやることも可能だ。
さっきの教室の写真を撮れば動かぬ証拠として訴えられる。教師がグルだったとしても、外部の第三者が介入すれば隠すことなんて不可能だ。
だが、それは彼女が俺に助けを求めた場合だ。何も言わずに黙っているだけじゃわからない。
声に出さないとわからないこともあるんだ。黙ってても何も変わらない。
いや、確かに辛いだろうことは予想できる。あんなことされて嫌じゃない奴なんていないはずだ。
それでも、何も言わないのに俺が助けたんじゃ意味がない。
……俺は冷たいのかもしれない。でも、俺は今そう感じている。
何より、昔の自分を見ているように思えるからだ。ボッチで寂しいのに、寂しいとは言わない自分。辛いのに、苦しいのに、何も言わない自分。
一言、たった一言”友達になってほしい”と言えばよかっただけなんだ。それができなかった……。弱い自分に苛立つ。
その弱さを”気が合う友人がいなかったから”の一言で隠していた自分に、さらに苛立つ。
だから俺は苛立ちを覚えているんだ。目の前の彼女が、昔の自分に重なって見えるんだ。
「もう一度聞くけど、嫌じゃないのか?」
一言、”助けて”と言ってくれれば俺はどんな手を使ってでも助けるつもりだ。頷いてくれるだけでもいい。そうすれば俺は絶対に助ける。能力だって何だって使ってやる。
「……」
しかし、詩由原は何も反応を示さない。人形のように無言でこっちを見ているだけだ。
ああそうかい。それじゃもう俺は何もできないな。
そう思った時、背後から何かの鳴き声が聞こえた。
「ん?……猫?」
見ると、どこから入ってきたのか黒い猫がいた。おそらく野良猫が屋根を伝って入ってきたんだろう。
様子を見ていると、猫は詩由原に近づき足元でじゃれつき出した。
「……」
すると詩由原はその場に屈み、猫を撫で始めた。猫は気持ちよさそうにすり寄っている。
どうやら詩由原にかなり懐いているようで、そこそこ長い付き合いなのかもしれない。
猫を撫でる時の詩由原の表情は先ほどよりも柔らかい。無表情な子かと思っていたけど、こんな優しい笑顔も見せるんだなと思った。
なるほど、どうやらこの猫が詩由原の唯一の味方らしい。心の支えというやつなのかもしれない。ボッチだった俺には正直羨ましく思えた。たとえ猫だったとしても、支えてくれる存在がいることには変わらない。
「その猫、友達なのか?」
俺はそんな言葉を言っていた。その問いに、詩由原はゆっくりと頷いた。
「そうか……」
優しい表情で猫を撫でる詩由原。その光景を見て俺は理解した。
詩由原にとって、俺は今日会ったばかりの他人だ。そんな奴に助けなんて求めるわけないじゃないか。
俺は彼女にとって、信頼できる人物ではないということだ。そりゃそうか……。
当たり前のことではあるが、素直に寂しいと感じた。
「実は俺、異世界に行こうとしていてさ。信じてもらえないかもしれないけど」
自分で言っていて滑稽な発言だと思った。しかし、彼女には嘘偽りなく本心で向き合わないといけない。だから俺は率直に述べることにした。
「それで、行くためにはメンバーが5人必要なんだ」
「……」
「そのメンバーとして、君も一緒に来てほしいんだ」
こんな台詞、誰も信じてくれないだろうな。内心そう思っている。でも、俺は愚直でも良いから本心を伝えたい。
詩由原は猫を撫でる手を止め、真っ直ぐに俺を見つめる。まるですべてを見透かすかのようなその瞳に、俺は飲み込まれるような感覚を覚えた。
この子には嘘は一切通じない。なぜかそんな直感が働いた。
「答えは今じゃなくてもいいんだ。これ、俺の連絡先。もし来てくれるのなら連絡をくれ。何か困ったことがあった時でもいい」
俺は紙を差し出す。渡そうと思って家で書いてきたものだ。
「……わかった」
詩由原は少し考えてから俺の連絡先が書かれた紙を受け取った。一応、考えてはくれるようだ。
普通なら相手にされないだろうが、詩由原はちゃんと聞いてくれた。それだけでも嬉しかった。
「ありがとう」
そう言って俺は背を向ける。あとは彼女次第だ。
「それじゃあ」
その言葉を最後に俺は屋上の階段を下りる。
背中の詩由原が何か言いかけていたが、この時の俺は気づくことができなかった。